第6話・夏、3


 それから私は後宮を出て内廷ないていに入り、外廊がいろうを歩いていた。ちょうど角を曲がろうとしたとき、突然人が現れた。慌てて立ち止まり、深々と頭を下げる。

 

「顔を上げよ」

 

 声と態度に覚えがある。


 顔を上げれば、そこにはやはりといった人がいた。薄紫色の生絹すずしの衣を着た、端正な顔立ちの男だ。しゅっと鋭い輪郭に、まだ空に昇りきっていない太陽の光が当たっている。長い睫毛が目元に憂い気な影を落とし、男の美貌をさらに際立たせていた。


 ふと、視線が絡み合う。

 青白く澄んだ白目が、星空を宿した藍色の瞳をくっきりと縁取っている。その瞳には、小さな私が映り込んでいた。

 

 相変わらず、美麗な人だ。

 あらためてその美貌にうっとりしていると、背後に立つ大柄な武官に気付き、私は慌てて表情を引き締めた。

 

「これは、陛下」

 

 時の皇帝陛下、ツァイ颯懍リェンである。

 まさかの鉢合わせだ。動揺が顔に出ないよう、なるべく表情を消して挨拶をする。

 背筋が伸びる。声色も気をつけなければ。

 

「そなた、名は」


 不意に名前を訊ねられ、心臓が跳ねる。


「……リー暁明シァミンと申します」


 危うく本名を言いそうになる。

 危ない危ない。ついうっかり口を滑らせるところだった。

 

「暁明。少しいいか。実は、そなたに話があるのだ」

「は……話?」

 

 ちょうど良かったとは、なんだろう。

 私は首を傾げながらも、陛下とお付きの武官の後に続いた。


 陛下は執務室へ入ると、お付きの武官を下がらせた。


「えっと……これは?」


 嫌な予感しかしない。

 

 正真正銘、執務室に二人きりになる。これは、どういうことだろう。私はまだ官吏になりたてで、目立った成果もなければ、特別陛下の覚えがあるわけでもないのに。

 

「あの……陛下?」


 声をかけると、陛下がくるりと振り返る。陛下はゆっくりと一度だけまばたきをする。

 

「そなた、昨日麗和宮れいわきゅうにいたな」

 

 どきり、と心臓が弾む。ばくばくと激しく鳴り始める鼓動に、全身から、冷や汗がぶわっと吹き出る。

 

「おかしいな。後宮は男子禁制のはずなんだが」

 

 まずい。疑われている。なんとか誤魔化さなければ。

 

「……まさか、そんな。私はしがない文官でございます。陛下の花園に入るなど、そんなこと有り得ません」

 

 すると、陛下は大きく一歩足を踏み出して、私に近付いた。耳元で、ひっそりと囁かれる。

 

「そなたと、雹華ヒョウカ付きの侍女が入れ替わるところを見た。あの侍女、雹華妃の話では雪玲シューリンと言うらしいが。雹華妃はその雪玲という侍女のことを、いたく気に入っているようでな。会いに行くと、いつも私にその話をしてくるのだ」


 冷や汗がだらだらと背中をつたった。


「……あ……はは。まさかまさかです。陛下が見られたのは、きっと私のそっくりさんです。昔からよく、女に間違われたりするので」

「ほう……そなた、私の間違いだと申すか」

「そ、そういうわけでは……」

 

 目が泳ぐ。陛下の目が細められる。

 いけない。無になれ、私!

 

「おかしいな。はっきりと、この目で見たんだが」

「う……」


 ここにきて、上手い言い訳が思い付かないなんて。考えろ、私!


 ぐるぐると頭の中をかき混ぜていると、陛下が音もなく立ち上がった。

 

「では、確かめよう」

「へ?」

「そんなに言うなら、今ここで確かめればよいのだ。脱げば分かることだからな」


 陛下は目をすっと細めて、口角を上げた。


 

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