第33話 首輪付き

「ほひぇっ」


 ひらりと飛び出したは良かったものの、想定外の高さに大地と熱い抱擁を交わすファルシュ。

 全身に走る衝撃に意識が大きく揺さぶられ、されど鞄の取っ手だけは決して手放さなかった。


 状況は切迫している。どれだけ早くファルシュがここから離れられるかが、少女たちとソフィアの生存に直結している。


 しかし首を振り、はたと意識を取り戻したその時、どうしようもなく視線は上へと向かった。

 三階の一室、開け放たれた扉から垣間見えるのは風にたなびく厚手のカーテンばかり。

 一度だけその窓をじぃとにらみつけ、ファルシュは背後へと走り出した。


 逃げる。

 逃げれば何とかなる。

 でもどこまで? 光が苦手だという血鬼族から逃れるには、一体どこまで走ればいいのだろうか。


「――!」


 広い庭を駆け抜け、大層立派に拵えられた門へ備え付けられた扉の、華奢な取っ手へと指先を近づけたその時。

 得もいえぬ本能的な知覚、首筋へとかかる不気味な恐怖。

 それは酷く生臭く、湿った獣の吐息。


 短い戦闘経験に抗うことなくファルシュはしゃがみ込み、片手を地面へとついて思い切り背後を蹴り飛ばした。


「犬……いや狼っ!?」


 間一髪だった。

 ブーツ裏が打ち抜いたのは黒い大狼の顎下。


 この国では遥か昔に滅び去った動物がなぜここに。


 ファルシュに蹴り飛ばされたかの獣は中空でぐるりと回ると、着地先の木陰へと文字通り・・・・融けるように消えた。

 あれほどの巨体が音すらなく。


「ただの動物じゃない……!?」


 ただ姿をくらませたのではなく、現に影へと溶けたことに気付くにそう時間はいらなかった。

 魔法だ。


 敢えて動かずにいたファルシュの両視界端で草がちらりと揺れる。


「二匹もっ」


 姿を見るより早く行ったバク転。

 先ほどまで自分がいた場所に二匹の大狼が襲い掛かるのを目撃し、一瞬で噴き出す額の汗を拭ってファルシュは歯痒さに吐き出した。


「――あの男の追手さんですかっ!」


 偶然と切り捨てるにはあまりにタイミングが良すぎる。


 双子の少女たち。

 二匹の獣。

 仮に少女らが逃げるとなれば一体どこを通る?


 そう長く論じる必要もないだろう、あの男が前もって仕掛けていた罠というわけだ。


「くっ……」


 門の先にはファルシュたちの通ってきた山道。

 当然無数に生えた木々は木陰を作り出し、どれだけ逃げようとも狼共はそこへ飛び移り追跡を続けるだろう。

 幸いにしてある程度の面積の影でなければ乗り移ることはできないらしい、もし可能であるなら既にファルシュの

足元から食らいついている。


 踵を返し館側へと走り出すファルシュ。


 然したる覆いがなく、どこか常に日の当たり続ける逃げ道が必要だ。

 ソフィアの居ない今むやみな戦闘へは飛び込めない。

 もしファルシュ一人であったなら別だ、だが今は少女二人の命を鞄へと詰め込み握りしめているのだから。


「大丈夫ですドロシーさん、オズさん……必ず逃げてみせますよ、お説教から逃げるために鍛えた逃げ足は伊達ではありません!」


 正直に言ってしまえば、中で隠れ潜む少女らに届いているかなどどちらでもよかった。

 己の後ろ髪を引く諦めの二文字から目をそらせるのなら、きっと何でも口にしていただろう。

 そう、折れるのはまだ早い。


 ファルシュは息を吐きだし、より一層取っ手を握りしめ――走った。




 戦う最中、男は口を開かなかった。

 無骨な顔に一文字の口をぎゅうと結び、しかしより一層額へとしわを寄せ剣を振り払った。


「質問は回答があって初めて成立するものですわよ? そろそろ回答を頂けます?」

「……何度目だ」

「答えないのであれば何度でも」


 だがついに限界へ達したのだろう、感情を消し去った低い声でソフィアへと言葉を返す。


「なぜあの子たちは毛嫌いされているのかしら? 恥ずかしながら古臭い規律には明るくないもので」

「混血、双子、魔力なし。神に見放された三つ子・・・だった、大いなる災いの予兆よ」


 ああ、本当に古臭い戒律。

 要はありきたりな『言い伝え』というわけだ。外部との交流を絶った古い血族によく見られるような、大方災いを呼ぶだなんだと言われているのだろう。


 あまりのくだらなさにソフィアは鼻を鳴らす。

 だが男は見逃せない言葉を零した。


「もう一人はどこへ?」


 わずかな間隙を縫い接近を試みる狩人。

 内心の冷や汗をおくびにも出さず引き金を押し込み距離をとりながら、ソフィアは現状の情報を脳の片隅でまとめた。


 確かにドロシーはもう一人姉妹がいると言っていた。

 あの時はどこか別の場所に住んでいるとばかり思っていたが、彼女らの現状、そして男の『神に見放された三つ子』という言葉を聞いてしまえば別だ。

 ドロシー達は魔力のない三つ子・・・・・・・・だった、わざわざ一人だけ隔離してなどというわけではあるまい。


「死んださ、とりわけ体の弱い子だった」

「そう。では次に」

「知りたがりだな」

「性分ですわね」


 本来ソフィアは遠距離戦をメインとしているのだ、多少広いとはいえ部屋での戦闘は分が悪い。しかし男が大きく退いたことで道ができた。

 背後への警戒は怠らないままに廊下へと飛び出し、すかさず背後へとありったけの水弾をお見舞いする。

 砕ける壁、埃に何も見えないが構わない。どうせこの程度で傷を負う存在ではないだろう。


「どうしてドロシーが外を歩いていたのかしら? 貴方の目的が監視だとしたら、彼女が逃げる可能性を生む行為は好ましくないでしょう?」

「……そうはならなかった、以上でも以下でもなく」

「そう、とてもお優しいようで」


 気を抜くことはない、銃口は煙埃えんあいのその奥へ。

 男が重い足音を立ててゆっくりと表れた。


「薫り立つな」


 わざとらしく鼻を鳴らし、彼の紅い視線がこちらへ向く。


「血の匂いだ、傷口が開いてるだろう。顔色も悪い」


 これも血鬼族の特徴だろうか、随分と鼻が利くらしい。


 事実、ルアモとの戦闘においてソフィアは何か所かの裂傷を負っている。

 そう深いものではない、が、傷はソレ一つではない。

 まだ数日もたっていない。殴打された後は動くほどに痛みを増し、ついでに激しく動くほどにひり付く裂傷の鋭い痛みはソフィアの動きを妨害していた。


「もう退け、客人たちにあの子らは関係がないだろう」

「ええ、私も本当はそちらを選びたいのですけれど……」


 鋭利なレイピアの切っ先が向けられる。


「ウチのおバカわんこが嫌がりますの、飼い犬が嫌がることを強いるのは良い飼い主ではないでしょう?」

「愚かな」

「お互い様ですわね、飼われた猟犬さま・・・・・・・・


 わずかだが明確に、男の顔がついに苦々しく歪んだ。


 ブレ一つなく突き出された刃は男の技量を物語っているが、同時になぜソフィアを切り捨てないのかという疑問が生まれる。

 そしてなぜ忌み子と罵る少女を自由にさせていたのか。


 血を吸う種族といえど、似た血は通っているらしい。


「貴方があの子たちを連れて逃げればよかった」

「……どこへ向かうというのか、逃亡の果ての死などありふれているというのに」

「さあ。まだ見ていない未来など分からないでしょう?」

「いいや分かるさ。そして客人たちの未来も良く分かる」


 踏み出した男の背後から、二頭の大狼が現れた。

 黒く、猛々しく、冷たい瞳を湛えた狩人たちは、実に退屈気な態度で口にくわえていたそれを放り投げる。


「っ、ファルシュ!?」

「ソフィア……すみません……追い込まれてしまって……」


 逃げることは叶わなかった。

 すべての足元へと付き従う影から逃げるなど、どれだけ苦心しようとも叶うわけがなかった。

 体を丸め、いまだに鞄を抱きかかえながら漏らす言葉に、一体どれほどの屈辱が、悔いが乗せられているだろう。


「優秀な猟犬は狩人の友だろう」


 その首元へと白銀の刃口を押し当て、男は再び己が表情消したまま淡々と告げた。

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