第22話 ソフィ布団

「ファルシュ、貴女は……」


 蒼い瞳が揺れる。


「私の味方でいてくれるの?」


 掠れた彼女の問いは、あまりに短く、しかし複雑だった。


『貴方の味方』


 実にシンプルな内容だ。

 だが果たしてその言葉を偽詐なく語れる人間が、一体どれだけいるだろうか。

 人の感情など移ろい行くもの、たった一つのかけ違いで容易く崩壊まで導かれかねないというのに。


「私が怖いですか?」

「……貴女は怖くないわ。でも、貴女が変わってしまうかもしれないのが怖いの」


 突きつけられた銃の力が僅かに弱まる。


 彼女の事はまだ何も分からない。

 ただソフィアの怜悧な表情や瀟洒な態度とは裏腹に、彼女は未だ成人などほど遠い年齢であることは理解している。

 その目で一体何を見てきたというのか。


「私ね、もう何もないの。お父様も、お母様も……お兄様も、家も。一日で全部なくなっちゃった」

「一日で……?」


 事故か、事件か。

 暗喩的な意味を持つ『なくなった』か、或いは文字通りに『なくなってしまった』のか。

 詳細を語るつもりはないらしい。しかしそれはこの一か月間で初めて語られた、何か薄暗くどろりとした彼女の過去だった。


 事情があるのは分かっていた。

 だがどうやらその事情とやらは、そこいらでほっつき歩いている人間が抱えたものに比べ、些か質量が異なるらしい。

 それは背負った本人ですら、語るには相当の勇気がいる程に。


「ここにいるのはね、感情・・に憑りつかれた化物よ。だから怖いの。誰も彼もが見目ばかり気にしてるのに、貴女は違うもの。だからもし貴女が変わってしまったら、それを思うだけで信じるのが怖いの」


 気が付けばソフィアの顔がひどく近くにまで下りていた。

 頬へと手を伸ばし、絶え間なく零れ落ちる冷たい雫を拭って笑いかける。

 だがソフィアにはそれが気に食わなかったらしい。より一層に表情を歪め、小さく顔を背けた。


「ねえファルシュ、私知ってるのよ。私が泣けば皆が気を使ってくれることを。人を操るのなんて簡単だわ、貴女だってきっとそう」


 盲目とは幸福だ。

 もしソフィアが小賢しいだけの人間だったらそれほど幸せな事は無かっただろう。

 彼女の言う通り、気に入らないことには涙を零し、周りを意のままに操るわがままなお嬢様であれば、今の苦しみのいくつかは無かったかもしれない。


 しかし不幸にも彼女には考える頭があった。

 感情と理性を分け、自信の状況を判断できる能力があった。

 時にそれは難解な問題を解決し、彼女を導く一つの指針となっただろう。しかし幾重にも重なった感情を捲り続ける中で、ソフィアは感情と理性の区別がつかなくなってしまったのだ。

 しかしどうしようもないほど溢れ出す感情に理性を求めようと答えなど出はしまい、激情は一とゼロで表せるほど単純なものではないのだから。


 けれど。

 けれど、時に本人からは見えなくなったものも、他人からすれば容易く見つけ出すことが出来る。


「本当に外面ばかりを気にするような人なら、私は一緒に居ませんよ。ソフィア、貴女も優しい人じゃないですか」

「違う。どれも私はただ目の前のモノをどかしただけ。何かをすれば好意的に捉えられるだけ」

「かもしれません。でも私は私が見たもの思ったものを信じたい、結果的に誰かが救われるのならそれでいいじゃないですか」


 善悪を語りたいわけじゃない。

 だが何かを判断するときに必要なのは、やはり己の中にある善悪だろう。

 もしソフィアがその判断基準を見失ってしまったというのなら、今はただ隣にいる自分が彼女を支えてやればいい。


 既に彼女の武器はカードへと戻っている。

 固く握りしめたその指先を軽くほどき、自身の指先を絡めながら抱き寄せると、ソフィアはすんなりと力を抜いてファルシュの胸元へとしな垂れかかった。


「貴女と一緒に居れば例え鼠でも聖人君子に祀り上げられそうだわ、ねえ聖女様?」

「それでソフィアの心が晴れるなら」

「おばか、ただの例えでしょう?」


 くすくすと笑い声が零れる。

 もしかしたらそれは無理やりに出した声だったのかもしれない。

 鬱々とした気分が少しだけ抜け、重くなった空気を軽くしようとソフィアが要らない気を回しただけなのかもしれない。


 だが、今日はここまでだ。


「いつでも、どこでも貴女の味方でありたい。でも……正直自信がありません。まだ私達は出会ったばかりで、何かあったらすぐにでも変わってしまうかもしれませんから」

「素直ね」

「だから」


「だから『ソフィア』をもっと教えてください、もっと話してください。私が貴女から絶対に離れないくらい、もっと、もっと」


 私達はまだ互いを知らな過ぎた。

 生まれ、育ち、好物すら。


 数奇な出会いだ。

 偶々聖堂を抜けて、偶々寄った街で、偶々出会った彼女と暮らすことになって。

 けどこんなにも心地が良い。


「波濤の全て、貴女に呑み切れるかしら?」

「溢れたらまた注いでくれればいいじゃないですか、それくらいの時間はありますよ」


 いつか別れる時が来るのかもしれない。

 どんな理由かは分からない。もしかしたらソフィアが過去に区切りをつけ前を向き一人で生きていくかもしれないし、気分の変わってしまったファルシュが聖堂に戻るかもしれない。

 だが予定は未定、今のところは全て見えもしない遠い未来の話。


「でも今は寝ましょう? それで朝になったら銭湯に行って、帰ってきたら冷蔵庫のケーキを食べましょう」

「何を買って来たの?」

「……それは明日のお楽しみです」


 実の所、ファルシュにもあの箱の中にどんなケーキが入っているのかは知らない。

 なんたってあのケーキは子供を助けた折、父親に買ってきてもらったものだ。

 開けた時の感動を楽しみに持ち帰って来たのだが、まさか今日中に食べないとは、ましてやこんなことになるとは思ってもいなかった。


 まあ、知らない方が開けた時楽しいですし……ね?


「あら?」


 気が付けば胸元で規則正しい呼吸音。

 張り詰めた糸が切れた、って奴だ。胸へと顔をうずめながら、ソフィアはすっかり眠り込んでしまっている。


「うつ伏せで寝るのはよくないですよ……!?」


 小さく軽い体を持ち上げ、いつもの場所へと寝かせるため膝立ちになったファルシュの目へ、それは飛び込んだ。


「これはっ」


 小さな悲鳴を上げ、どくりと心臓が跳ねる。


 ソフィアが手から取り落したカードの下、確かにそれはあった。

 黒いカード。

 ソフィアのそれと瓜二つ。違いは多少の細工くらいで、上に空いた爪ほどのへこみすら全く同じ形。


 間違いない。

 今日、あのダンジョンで拾ってきたカードだ。

 そして確かにソフィアの手で投げ捨てられ、何発もの強烈な銃弾を撃ち込まれたはずの、あのカードだ。


「……困りましたね」


 まさかソフィアが拾ってきたはずもあるまい。

 しかし少なくとも寝る前にはこんな場所になかった、あったら間違いなく気付く見た目だ。

 ならば勝手に戻って来たというのか?


 どうやらこのカードたち、ただの魔道具ではない。

 下手をすれば、似たモノを持っているソフィアも何か関わりがある可能性すら湧いてきた。

 彼女が怯えているのはもしかしたら、これと関係があるのか。


 小さな恐怖が芽生えるのをファルシュは自覚した。

 けれども吐き出すわけにはいかない。ソフィアのカードの下、表には何も描かれていない方を摘み上げ、己のポケットへと滑り込ませる。


 そう。

 たとえ何があろうと、やることなどただ一つだ。


「私が守ればいいだけですから」

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