第18話 招待状は突然に

「大丈夫ですか」

「……うん」


 彼は幼いながらに理解していた。

 今は泣き叫び暴れる時ではないのだと、苦痛や疲労を口にし甘えられる状況ではないのだと。

 時に、与えられた情報に違いが無ければ、大人と子供の判断に然したる差はないのかもしれない。


 ファルシュは彼の頭を軽く撫でると再びその小さな手を握り、圧し潰すように囁いた。


「強い子ですね、えらいえらい。でも疲れたら言ってくださいね、おぶりますから」


 出来れば常に背負っていてあげたいのですが、草から頭が出てしまうんですよね……それに周囲に目を向けるのも少し難しくなってしまいますし。


 硝子の草原はその音と光で多少の影や動きなど隠してしまうが、その恩恵に与っているのは決してファルシュ達だけではない。

 姿も見えぬ捕食者のその数メートル、或いは僅か数十センチ先を跋扈している可能性すらあるのだ。


 密やかに、されど迅速に。

 ダンジョン内のモンスターは余程の事が無い限り、その領域外に飛び出すことはない。彼らは域外にて魔力の薄さから然したる時間もかからず息絶えることを理解しているのだ。

 故に一分一秒ですら早くここを抜け出す、それだけがファルシュの目的であった。



「っ! もう見えてきましたよ、ほら。あそこが出口です」


 囁きに混じった喜色に反応し、より一層ファルシュの手を握りしめる小さな掌。


 果てしなく続くように思えた硝子の草原、その限界が二人の視界へと映り込んだ。

 ぼやけながらも確かに見えるフェンスの姿、日常と非日常を隔てる境界線。


 轟々と吹き付ける風の中、その時だけは幾つも肌に、服に付けた傷を忘れられた。

 緊張と不安で押しつぶされそうであった胸中へ、滾々と沸き上がるほどの気力や勇気が漲っていく。

 すぐそこだ。すぐそこには何の変哲もない日常が存在する! 小さな苦悩はあれど何か巨大な影におびえることもない、明確に迫る死を恐れぬ日々が!


「うん……うん!」

「きっとお父さんもお母さんもカンカンですよ、出たらしっかりごめんなさいしてくださいね?」


 ふ、と唇が緩んだ。

 出た後でも怪我をどうすべきかなどの問題はあるが、しかしそれは死と比べるべくもない。


 だからこそ失念すべきではなかった。

 脱力したその瞬間こそが、最もそっ首を切り落とし易いことを。



『――!』



 目前へ荒野の狼王が降り立った。


 その四肢に漲る膂力の、なんと雄々しき姿であろうか。

 全身を草原へ溶け込ませる純白の、なんと気高き姿であろうか。

 紅く、心の臓すら見透かす鋭い眼差しに射竦められた二人は、不可視の糸で絡めとられた身体を微かに震えさせへたり込んだ。


 理性を謡うにはあまりに暴力的過ぎる。

 しかし彼は、粗暴と揶揄するにはあまりに凄艶であった。

 その時、例え魔力による幻影の姿であったとして、それが畏怖の念を抱かぬ理由たり得ないことをファルシュは初めて理解した。


 出会った奇跡を喜ぶか。

 希望が目前にて手折られた悪運を呪うか。

 ファルシュは――



「私の後で、ゆっくりと立ってください。気を引かないように」


 静かに、決してかの存在を刺激せぬようゆっくりと立ち上がり、そっと背後の少年の肩を押した。


「いいですか。私が叫んで動いたらすぐ、入り口に向かって走ってください」


 呼吸すらもが苦しかった。

 気を抜けばただその身を差し出し、死の直前に存在する苦痛をいかに和らげるかだけに思考が傾いてしまいそうだった。


 人の頭など丸呑みできそうな口、鋭い犬歯で首元を切り裂かれてしまえば、頭蓋をくしゃりと咬み潰されてしまえば、きっと痛みなく全てを終わらせられるだろう。

 だが、何故かできなかった。

 背筋を駆け抜ける震えにこんなにも嫌気がさしているのに、上から降り注ぐその視線から決して目を逸らさず、ファルシュは仁王立った。


「後ろを見てはダメ、戻ってきてもダメですよ」


 振り返らずともかの子の反応は予想できた、しかし理解を示すわけにはいかなかった。

 声を押しつぶし、感情を消し、ひたすらに話を進めていく。

 それ以外に彼が生き残る方法は無くなったのだから。


「貴方は賢い子です、できますね」


 背後で微かに気配が動く。


 本当に、賢い子ですね。


 微かな身じろぎ、視線が交差する。



「――はしって!!」



 少年が入口へと駆けだしたと同時、ファルシュは獣へと飛び掛かった!


「さあ、さあさあ! こっちですよこっち!」


 目前へと迫る大狼を眺め、ファルシュは内心で震えあがった。


 なんという巨体だろうか。

 軽量のトラック、いやそれ以上あるかもしれない。

 女性、いや人としてでも比較的大柄なファルシュですら、かの存在の前では他の人間と大して違いなどないことを理解した。


 股下を滑る様に駆け抜けたファルシュはひたすらに大声を上げて大狼の気を引き、少年とは真逆の方向へと疾走を続ける。


「一人助けて代わりに一人死んでちゃ世話無いですよねぇっ!」


 足を止めればその時点で死ぬ。

 かの少年が入り口に辿り着くまであと何秒? 五秒、それとも十秒?

 ただ一つだけ理解していることは、もし狼が本気を出せば今この時点で噛み殺されているということ。

 ファルシュは体力や身体能力には多少自信があったものの、命を賭け精神を擦り減らすような状況は生憎と経験したことがあまりない。


 け、ケーキを買いに出ただけで死ぬバカがどこにいるんですか!

 あれがお遊びの間に気を引いて逃げて、後は草原の中でうまくやり過ごすしかありません……!



「ぎ……ぃっ!?」



 突如ふくらはぎへと走る激痛が足を絡めとった。

 あえなく草原へと転がり倒れる身体。

 衝撃にガラスの破片が飛び散り、地面を転がる自身へばらばらと降りかかる最中、ファルシュは一つの事実をストン、と理解した。


 終わりだ。


「モンスター、ですもんね」


 地面に這いつくばり、起き上がる気力すら湧かない体で呟く。


 これは薄くて脆いガラスの草による傷じゃない。

 このがっぽりと抉り取る様な斬撃は、魔法だ。

 風か、それとも斬撃をそのまま飛ばすような魔法なのか。どれだって構わない、結末に大きな違いはない。


 ただほんのちょっと、彼からすればきっと獲物を弄ぶ程度に小さな魔法で、淡い希望はいとも容易く捻り潰されてしまった。


 死ぬ直前の走馬灯など湧かない。

 ゆっくりと塗る影を背中に受け、ぼんやりと目を開けていたファルシュの視界に、それはあった。


「これ、は……」


 カードだ。

 掌より少し大きく長方形。上には魔石大の穴が開いており、少し見ただけでもあちこちには細やかな金や宝石らしき細工がされている。

 どこかで見たことがある様なそれは、最初からそこにあったとでも言うようにファルシュが倒れた直ぐ近くに転がっていた。


「ソフィアの……魔道具……?」


 震える手でつかみ上げたそれは、確かに何度も見たあのタロットカードに恐ろしく似ている。

 固く冷たい感触。だがひっくり返した面は黒々としており、何かアルカナが描かれているわけではない。


 何故ダンジョンにこんなものが?


 疑問は尽きることが無かったが、今はただ唯一縋れるものだ。

 魔法と魔道具の差異とはやはり、習熟が必要な魔法に比べ魔道具なら誰にでも扱えることだろう。

 そしてソフィアがあの魔道具を起動する時、ファルシュは一度とて魔石を装填しているのを見たことがない。


『永久式』


 それは他の誰でもない、ソフィア自身から学んだ魔道具の種類だ。

 空気中の魔力を吸い取る永久式の魔道具は、いつ、どこででも扱うことが出来る。

 そう、魔力を持たないファルシュですらも。


「お願い……動いて……!」


 祈る。

 己の聖堂でもなく、信仰対象の聖女でもなく、そこいらに転がっていた意味も分からぬカード一枚へ。

 そして、


「は、ハハ……そうですよね、そうなんでも上手く行くわけ、ないっか」


 当然のように、何も起こりはしなかった。


 カード越しに映る剛爪。

 捕食者の腕は無慈悲に振り下ろされ――

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