第12話
斜面を登り切ったところで、エヴィはロバから降りた。
赤毛のマーストも同じように下馬して後から着いてこようとしたが、それはエヴィが留めた。話をするのなら、一人がいいと見てのことだ。
風邪で砂埃が舞いあがり、エヴィの頬を叩く。砂が口の中に飛び込んできて、ひどく不快な感触が広がるが、何とか耐えて、小屋に近づいた。
その重い樫の扉を叩くと、髭だらけの男が顔を見せた。
「やあ。また会ったね。入ってもいいかい」
男は無言で小屋の奥に向かったので、エヴィはそれにつづいた。
殺風景な部屋で、小さな卓と椅子、あとは箪笥だけだった。銛を手入れしている最中らしく、油紙が卓には散らばっていた。
男が口を開くよりも早く、エヴィが話をはじめた。
「いや、お構いなく。すぐに話は終わる。このままでいい」
エヴィは外套も脱がず、椅子に腰かけようともしなかった。
「時間が惜しいので、早速、本題に入ろう。君の主に連絡してほしい。ヤマニト丘陵での戦いを終わらせたいので、手を貸してほしいとね」
男は反応しなかった。卓に臂をつき、うつむいている。
「君がサクノストの関係者であることは知っている。誰からとは聞かないでほしい。私の口からは言いたくない。はっきりしているのは、君が10年前からこの地に住み着いて、情勢を報告していたということだ。ここの領主はまるで気がつかなかったようだから、うまくやったみたいだね」
エヴィは小屋の壁を見つめた。
「最初、ここを見廻った時に気になっていたんだ。サクノストはなぜ稜線を越えて、北側に進出してこないのかと。こちらが手薄なのは、少し調べればわかることなのに、南に進出することに固執していた。ゴ・サミュの援軍が南の街道に沿って展開していたのは確かだが、北に出れば、敵の兵力を分散させることにもつながったのに、あえてそれをやらなかった。少なくとも稜線に出てくるだけでも変わったのに」
男は無言で、銛を研ぎはじめた。乾いた音が響く。
「それは、君が伝えなかったからだね。いや、そもそもグアント伯爵は君のような密偵がいたことすら知らなかったのかもしれない。自分の作戦に固執して、ひたすら南を攻めつづけた。それは、まあ、君の主にとっても都合のよいことだった。なぜなら、君の主はグアント伯爵と対立している地元の領主だからだ。名前をなんと言ったかな、ヤハル……」
「ヤハルーノ伯爵様だ」
男はエヴィをにらみつけた。
「軽々しく口にするな」
「これは、失礼した」
エヴィは素直に頭を下げた。
「そのヤハルーノ伯爵はリソレ川の西岸、ラセニの対岸から山岳地帯までを領土として賜っている。鉱山をいくつか持っていて、硝子産業もうまく育成している。小麦の生産にも力を入れているようで、サクノストでも豊かな領主だろう。目端が相当に利く。だから気づいたのであろう。トレト伯爵が無能で、ヤマニト丘陵を攻め取るのであれば、今が勝負だと」
男は銛を手にした。軽く振り回すと、手元に置く。
「密偵を送って、周辺の情勢を調べあげ、入念に仕掛ける体制を作りあげた。ラセニの町にも使いを送り、コーミットを含めた商人たちを味方につけた。王都と内密に話しあい、兵もそろえた。そろそろ仕掛けるかというまさにその時、あのグアントが出てきて勝手に攻め込み、丘陵の半分を制圧してしまった。何ともて腹立たしい話で、受けいれることはできないだろう。グアントが功をあげれば、君たちの努力は台無しになるばかりか、彼がこのあたりの土地を手にすることもありうる。仲が悪いあの男がね」
「あんな馬鹿に渡すつもりはない。ここは伯爵様の土地だ」
「今は、ゴ・サミュの領土だよ」
エヴィは息をついた。
「ゴ・サミュの軍勢が敗れた今、近いうちに、敵勢は稜線を越えて北にも出てくるだろう。そうなれば、丘陵は丸々、彼らに落ち、グアントの功績は確固たるものとなる。さすがに、それはうまくないと君たちは思っているはずだ」
「そんなつまらない話をするために来たのか」
「違う。取引のためだ」
エヴィは、腰に手をあてた。
「今回の件から手を引いて欲しい。そうすれば、丘陵周辺を探っていたことは不問にする。密偵にも手出しはしない。何だったら、今のまま活動してくれてもかまわない」
「どういうことだ」
「いるとはわかっていれば、怖くないんだよ。それに意外なところで役に立つ。今回のようにね」
男は間を置いてから応じた。
「駄目だ。国を裏切ることはできない」
「誰も裏切れとは言っていない。手を貸すなと言っている」
エヴィは言い切った。
「ヤハルーノ伯爵領から食糧や武器の補給を受けているから、グアント伯爵は自由に活動できる。それが減れば、兵はまともに動けない。耐えられなくなれば、撤退する。我々はそれで十分なのさ」
「……」
「グアント伯爵がきわだった能力の持ち主なら、君たちの協力がなくても勝つだろう。王室や他の領主の援軍を得てね。だが、見たところ、それほどの器でもなさそうだ。ここを攻めるに当たっても地元とろくに打ち合わせすることなく兵を動かし、その後の手配も怠っている。君たちが切り崩していたから、この攻勢はうまくいったが、下手をしたら大敗北を喫していた。そんな運だけの男に、この地域を取られてしまってもいいのか。そこまで覇気のない領主とは思えないが」
「伯爵様を批難することは許さない」
「感想を述べただけだよ。だが、失礼だと感じたのであれば、謝罪する」
エヴィは淡々と話をつづける。
「それで、どうする」
「密偵が方針に口を出すことはできない」
「冗談を。君は、十年もこの地で暮らして土地の情勢を完璧につかんでいる。その言葉を伯爵様が聞かぬはずはないさ。有能ならば、なおさらね」
男は沈黙する。だが、それは長くつづかなかった。
「考えさせてくれ」
「答えは早めに頼む。引き伸ばすのは厳しいのでね」
「今日中には」
「結構だ」
エヴィは背を向けた。そこに声がかかる。
「待て」
「何だ」
「一つ、聞きたい。お前は、この前、会った時から、俺のことを疑っていたように思えるが、どうか」
「そうだよ。密偵だと考えていた」
「なぜ、そう思った」
「簡単だよ。戦いがはじまっているのに、逃げようとしないなんて、よほどの変わり者か、何が目的があって留まっているのかのどちらかだ。君は変わり者のふりをしていたが、そうでないことは話していてわかった」
「不自然なところはなかったはずだ」
「君は食糧を貯めこんでいて、戦いがはじまったらこもっている言ったんだよ。並の漁師ならさっさと逃げる。何も持たずにね。貯めこんで留まろうとしていることこそ、戦局を最後まで見届けるという意思の表われじゃないか。危険を冒す価値がどこにあるかと考えれば、おおよその見当はつく」
エヴィは扉を開けた。
かすかに笑い声が聞こえたような気がしたが、それは強烈な風と砂埃にかき消されて、うまく聞き取ることはできなかったし、エヴィもそのことにかまおうとはしなかった。
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