第9話

「まったく、馬鹿なことをしてくれたものだ」


 御用邸に戻ったところで、エヴィは声を張りあげた。これまでとは違う大声で、トゥクラスもマーストも目を丸くしていた。


 三人が顔をあわせているのは御用邸の奥にある一室で、王族の私室として使われている。今回は事前の打ち合わせをおこなうための小会議室として利用しており、これまでもこの場で顔をあわせて交渉の準備を進めていた。


 円卓には地図や書付が並んでいて、一目で状況がわかるようになっている。


「ここで戦いを仕掛けるか。援軍は中途半端。食糧も矢玉も少ないところで無理に攻勢に出て勝てるわけがないのだろう。部隊の五割を失って、壊滅とは恐れ入る」


 エヴィは地図の一点を指で示した。


「しかも、こんなところに誘い込まれて。敵が南の街道から森林地帯に入ったから、後方を奪おうとして回り込んだのだろうが、それが誘いであることにどうして気づかないのか。道は細く、部隊は縦に伸びている。横から攻められれば、それでお終いだろうに」

「だが、森林地帯は騎馬には向かぬ。部隊も散らばっているから攻撃はむずかしいと思ったのだろう」

「だが、現実にはやられている。向こうは準備して仕掛け、我々はその掌の上で踊らされたということだよ」


 エヴィは、トゥクラスの反論を一蹴した。


 三人は敗報を聞くと、すぐにコーミットの屋敷を出て、御用邸に向かった。途中、連絡役の将兵と接触して、戦況について確認を取っていた。


 聞いた内容は最悪だった。ゴ・サミュの軍勢は無理に攻勢を仕掛けて敗北し、ヤマニト丘陵の戦いはサクノストが圧倒的な有利に立った。


「素人にもわかる失敗を犯すとは。コーミットの言うように、指揮官の質は最低のようだな」

「エヴィ様、その言い様はないかと」

「事実は事実だ。ごまかしたところで、何の意味もない」


 マーストは口をつぐんだ。その手が強く握られる。


「これで、すべての前提条件が狂った。我々は兵の大半を失い、サクノストは丘陵の南半分に完全に制圧した。稜線を越えて北側へ進出すれば、それで決着がついてしまうわけだが、我々にそれを食い止める兵力はない。できて時間稼ぎだ。おそらく、明日には、サクノストの代表団が交渉の再開を持ちかけてくるぞ。嬉々としてな」

「我々はどうすべきなのか」

「受けるしかないだろう。さもなくば力尽くで丘陵は取られる。むしろ、こちらから交渉を持ちかけてもよいぐらいだ。材料は乏しいが」


 そこで、扉が叩かれて、二人の女官が姿を見せた。マーストとトゥクラスに頭を下げると、お茶と食べ物を運び込んだ。


「なんだ、それは」

「知らないのか。ガトリタだよ。小麦と卵、牛乳、水、ふくらまし粉を混ぜて、鉄板で円盤の形に焼く。その上に蜂蜜をたらして食べる。甘くてうまい。大人も子供も大好きなおやつだぞ」

「知っているが、それ、十枚は重なっているぞ。どうするんだ」

「私が食べるんだよ。甘い物を食べないと、頭が回らないんだ」


 女官が一枚目を取って、小皿に置いて、それを切り分ける。

 エヴィはそれを端から食べはじめた。またたく間に二枚、三枚と消えていく。

 トゥクラスとマーストは、無言でそれを見ていた。


「さて、話をはじめようか。残念ながら、我々には時がない」


 五枚目を食べ終えたところで、エヴィが二人を見つめた。


「早々に対策を打ち出さなければ、丘陵はサクノストの手に落ちる。下手を打ったのだから仕方ないと思うが、君たちとしては、たやすくあきらめるつもりはないのだろう」

「無論だ。領土は手放せない」

「だったら、考えを述べたまえ。ああ、君に聞いているんじゃない」


 トゥクラスが話をはじめようとするところを、エヴィが制した。


「そっちだ。本物の第二王子だよ」


 エヴィの目はマーストに向いていた。


「な、何を……」

「とぼけなくてもいい。君が本物のトゥクラス王子で、こっちの大男がその護衛であることはわかっている。時間がないんだ」

 マーストは目を細めた。

 穏やかな表情は消え去り、代わって現れたのは怜悧な政治家の顔だった。

 立ちあがり、背筋を伸ばしてエヴィを見つめる姿も、先刻までとはまるで変わっていた。


「いつから気づいていた」

「最初からだよ。馬鹿者」

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