第3話
「目の前の丘が、ヤマニト丘陵です。北側はリソレ川に面していて、そちらは断崖絶壁です。丘陵にのぼるには、丘陵の北西部で渡河して、そのまま北側のなだらかな斜面を登るか、南の急流を突破して、森林を抜けるしかありません」
マーストの説明を聞いて、エヴィはうなずいた。
今日のエヴィは、旅の途中ということもあり、茶の帽子に、黒の上着、長いズボンにマントという格好だった。ロバの背に乗り、馬を操るマーストの後ろにぴったりと貼りついて行動している。
依頼を受けた翌日、エヴィは、トゥクラスに従う形で、ノットハウの町を出て、戦地に向かった。あわただしいが、事態が切迫している以上、やむを得なかった。
目的地に近づいたところで、エヴィは戦場となっている丘陵を見たいと告げた。トゥクラスとマーストは危険なので避けるべきと忠言したが、エヴィは受けいれず、結局、三人はヤマニト丘陵に向かい、その斜面を北西方向からのぼっていた。
「丘陵の南側には、街道があって、それはラセニの町につながっています。一方、西側にも街道があって、そちらはリソレ川に沿って北上し、北の大国リズンに向かいます。馬で五日といったところでしょうか」
「丘陵を取られると、西と北の街道がどちらも危険にさらされるということか」
「上から丸見えですからね。商人の馬車なら、ひとたまりもありませんよ」
「軍人と猿は高いところが大好きだ。すぐに上から石を投げつけて喜ぶ」
「その言いよう、何とかならないか。エヴィ殿」
トゥクラスが口をはさんだ。エヴィの背後に貼りつくような位置で、馬に乗っている。言葉には刺がある。
「別段、望んで高いところを目指しているわけではない」
「これは失礼しました。殿下」
エヴィは頭を下げた。
「トゥクラス様は、軍人を大切に思っています。そのあたり、気にかけていただけると、助かります」
「心得た」
「それで、サクノスト軍ですが、現在は丘陵の半分を制圧しています。稜線の南側から、一部は街道へつながる森林に進出しており、農民が襲われる事件も起きています。頂上は味方が押さえていますが、持ちこたえるのは苦しいかと」
「今は休戦中だったな」
「はい。十日間。あと七日で期限が切れます」
「その間にどうにかするのが、こちらの仕事というわけか」
エヴィは丘陵を子細に見てから、ロバの首を街道に向けた。灰色の大地をゆっくりと下っていく。
季節は冬だが、海から温かい風が吹くこともあって、ヤマニト丘陵を取り巻く環境は穏やかだ。日射しがしっかりしていれば、出歩く時に外套を脱ぐこともできる。朝夕の冷え込みもゆるく、北のリズンから商人は少しこの温かさを分けてほしいと語るほどだ。
エヴィが進む斜面もやさしい日射しにつつまれていて、寒さを感じさせない。
「何とかなりそうか」
トゥクラスが背後から語りかけてきた。
「わかりませんね。サクノストが休戦を受けいれたのは、前線部隊に補給をおこなうためでしょう。食糧が尽きたら、それまでですから。その間に、こちらが戦線を整えることも考えていたでしょうが、それでも勝てると踏んでいると想像できます」
「増援が来ることがわかっていてもか」
「我らを侮っているのでしょう。一度、勝っていますから」
「嘗められたものだな」
「好都合です。今は時間が何よりも大事ですから」
蹄の音が響く。エヴィは軽く手綱を握った。
「できることはやりますよ。仕事ですから」
「私設外交官の面目躍如と言ったところか」
笑い声がそこで響いてきたので、エヴィは振り向いた。視線を向けると、トゥクラスは馬上で話をつづける。
「いや、私設外交官というのは、おもしろい制度だなと思ってな。こんなもの、他の国にはない」
「リズンに民間登用の外交官がいるのですが、それも官僚として国に雇われています。
「そうなのか」
「はい。それだけ『偉大なる交渉人』は重視されていたというわけですよ」
マーストが応じた。
かつては、ゴ・サミュも他国と同じように外交官を王宮で囲っていたのだが、今から三十二年前、サレーズが外交官を辞めると申し出た時、時の国王がその才能を惜しんで、民間にいても外交官としての役割を果たすことができるように新制度を創設した。それが私設外交官だ。
私設外交官は民間人でありながら、国家の交渉に参加し、自由に交渉する権限が与えられている。
無論、好き放題にやらせては、外交方針が混乱するので、交渉にあたっては国と契約を結び、交渉団の一員として行動することが義務づけられる。交渉団の長はたいてい貴族で、私設外交官は専門能力を活かして、他国との交渉を優位に進める。
現在、29人が登録されていて、そのうちの七人は国と長期契約を結んでいる。他にも貴族と契約を結び、隣国との関係を維持するために活動する人物もいる。
サクノストとは、『大いなる翼』ビットンが接触していたが、彼は南方の担当で、しかも病気のため、活動が低下していた。
「ばあさまは余計なことをしたよ。あのまま国に留まっていれば、こんな私設外交官制度なんて作らずに済んだ。外交は国が一元的に管理して、わかりやすかった」
「その代わり、民間の考えを吸いあげることはできず、勝手次第に暴走したかもしれない。制度さえしっかりしていれば、民間の息吹を知る者が加わるのは悪くないですよ」
「私設外交官はほとんどが貴族だぞ。民の意見など気にしてはいないよ」
エヴィがひらひらと手を振ると、マーストは顔を強ばらせた。
一瞬、空気が緊張したところで、トゥクラスが語りかけてきた。
「せっかくの機会なので、一つ聞きたい」
「何ですか」
「外交の心得。君は何に気をつけて、活動しているのか」
「色々ありますよ。一番、気にかけているのは、嘘をつかないことですね」
「虚々実々の外交の世界でか」
「だからです。嘘をついたら、すべてが終わりなので」
エヴィは、ロバの腹を軽く蹴った。走る速度があがって、街道を外れ、丘陵をさらに登っていく。ちょうど西側のゆるやかな一角から細い道を使って中腹に出る。
足をゆるめたのは、リソレ川の水面がエヴィたちの視界に飛び込んだあたりだ。大河の流れとその北側に広がる大地が見える。
「やっぱりそうか」
「どうした」
「いや、一つ確認したいことがありまして。それも終わりました」
エヴィは改めて、トゥクラスに顔を向けた。
「さっきの話ですが、外交は人の資質に寄るところが大きいのです。ちょっとぐらいの不利なら交渉術で五分に持っていってしまう。情報の使い方がうまければ、相手にこちらの手の内を知らせないまま、思ったとおりの落とし所に話し合いを持っていくことも可能です。外交団を組んで、複数で挑んでも、それは変わりません。人と人の話しあいによって成り立つ以上、個人の資質は大事なのですよ」
「それはわかる。私もリズンとの交渉では、何度も痛い目にあった」
「だからこそ、交渉において大事なのは誠意なのです。相手が信じられると思うからこそ思い切った交渉ができるのです。情報をうまく制御して、妥協点を見出すわけですが、その話し合いで嘘が混じっていたとしたら、どうですか」
「拠り所を失うな」
「何もかもが信じられなくなります。相手の話が嘘かどうか考えながらでは、交渉など成立するはずがありません。私だったら、席を立ちますね」
「最低限の条件を維持するために、嘘はつかないということか」
「これは他の外交官も同じです。舌先三寸の馬鹿は、見たことがありませんよ」
エヴィは周囲を見回し、ゆっくりと斜面に沿ってロバを進めた。その後ろをトゥクラスがついていく。
「だが、真実ばかり語っていても、交渉は成立しまい」
「そうです。だから、大事なことは言わない」
「言わない」
「そう。聞かれないかぎり、言いません。黙っています。知られなければ、ないのと同じですから」
「それは、嘘ではないのか」
「訊かれて違う答えをしたら、嘘です。だが、そもそも訊かれていなければ、嘘のつきようがないでしょう」
「ひどい話だ」
「賢いと言って欲しいですね」
エヴィは、マーストを見た。
「だから、どうやって要点を訊かれないようにするのかという交渉術が大事になる。嘘をつけない以上、質問されたら沈黙で応じるしかない。そうすれば当然見抜かれる。なかなか骨の折れる話さ」
「なぜ、その話を私に?」
「ここにいるからだよ。黙っていないで、話に加わってくれ」
マーストは苦笑し、トゥクラスは顔をしかめた。
「私は従者ですから。外交の詳しいことはわかりませんよ」
「思ったことをそのまま言ってくれればいいんだよ。それがヒントになる」
「交渉の結果がそれで変わると」
「そういうこともある。だから思ったことは、どんどん言ってくれ」
エヴィは、倒れた木材を避けて斜面を下っていく。
川から吹きつける風が砂塵を巻きあげた。いつしか陽も傾き、朱色の輝きが周囲を覆っている。
「では、行くか」
「御用邸は、すぐそこだ。日暮れまでには入れるだろう」
トゥクラスは南に広がる街道を見つめた。視線の先には、隊列を組む荷馬車の姿があった。
「サクノストの代表団はすでに到着している。本格的な交渉は明日からだ」
「さて、どうなるか。まずは、向こうの言い分を聞いてみようじゃないか」
エヴィはロバを止めて、西の空を見つめる。
冬の太陽はその下部が地平線に触れそうな所まで落ちていた。雲が右側を覆っているので、光はひどく弱い。
長く伸びた森の影が街道をつつむ。その先に、交渉の場である王室御用邸の建物を見てとることができた。
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