激しい頭痛を伴う全生活史健忘に関する興味ある一症例を巡って


ランバート博士の研究ノートのメモ書き

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 ドクター景山の見解には首肯しかねる点が多々ある。彼の主張した全生活史健忘の症例からの類推は、やはり早計だ。私が恐れているのは、我々の手抜かりのために、ひとりの人間の命を賭した成果たるこの純粋な結晶物を汚してしまうことだ。


 オオカミに育てられた少年というのともまるで違う。彼の目に私はどう映るのか......まるで済んだ水面のようだ。私には、そこに色を映すことさえ憚られる。事実今朝などは、ドクターエリンが艶々としたルージュを塗った粧いで彼と面会しようとしたのを見て、私は思わず声を荒げてしまった。彼女は不満げだったが、しかし、色による刺激でさえ、どのような悪影響を彼に与えてしまうか知れない。況してや女性の唇など、言語道断だ。




景山博士の日記

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八月十三日


 私の予想は恐らく正しい。

 所長の匿っていた間諜が程なく連行されていった事実からしても、彼らはきっと、我々が想像するよりも多くのことを知っているに違いない。

 そろそろ我々にも箝口令が敷かれるはずだ。我々が彼らにとって有益である今のうちに、これについては対策を講じなければならない。そうでなくても、今の我々の立場は、社会通念上胡散らしいものであることは確かなのだから。


 精神病理学的暗号化技術というアイディアは、私も若いころに考えたことがある。しかし、それは全く空想科学の域を出なかった。

 有機記憶媒体というアイディアは何も目新しいものではない。しかし、人間の脳をそのまま用いた記憶媒体というのは、SFの中だけの話だと思っていた。ただ、ディジタル変換に非毀損な情報ならいざ知らず、人間の脳のする記憶の全てをゼロイチで表現するということの無謀を考えてみると、この方法は合理的なのかもしれない。


 我々は記憶の忘却をするとき、たいていの場合、それは記憶そのものの消去をしているのではなく、単にその記憶へアプローチする経路を遮断しているに過ぎない。心的トラウマに原因する健忘にも、これに関係したメカニズムが見られる。また、そのようにして断絶された記憶を思い出そうと意識する場合に、激しい頭痛に襲われるという興味ある一症例と、類似の症状があの少年にも見られるのを鑑みて、これがもし情報セキュリティでいうところの機密性の保持のために意図されたものであるなら、恐るべきことだ。

 もし、トランスヒューマニズムの通信技術でいわれる、他者との段階的接続尺度のレベル5相当の接続強度がサムヤでは実現していたとして、有機記憶情報への不正なアクセスを痛みによってネットワーク分離するような仕組みが実装されているのだとすれば......こんなものは、到底人間の想像の及ぶものではない。まるで悪魔の所業だ。


 あの少年が一体如何なる情報を秘めているのか。如何にしてそれを引き出すことができるのか。通常の麻酔面接でそれが可能なのか......

 ランバートくんの言う通り、当然慎重は期するべきなのだが。

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