最終話

 閉院後、いつものように雄一は院内に残っていた。しかし今日はノートを取り出してはいない。犯人が自分を狙っていると分かった今、そして無言電話の犯人が捜索されている今、下手な行動をすると自分に危険が及ぶのは必至だった。だが彼の脳内は快楽を求めて暴れている。もはや無言電話は雄一にとっての麻薬だった。普段はしない貧乏ゆすりが止まらない。むしろ段々と激しくなってきている。禁断症状が出ているのが自分にも感じられた。せめてコーヒーのルーティンだけは外さないようにと考え、診察室でコーヒーを飲んでいたのだが、それも意味を成していない。彼はいつもより早く帰宅することを決め、カップに残ったコーヒーを一息に飲み干した。


 プルルルル、プルルルル


 デスクの上の電話が突然鳴り響いた。この時間に電話がかかることなど滅多にない。尾高は電話をじっと見詰めた。


 プルルルル、プルルルル


 なぜかコール音は留守番電話に移行しない。こちらが出るまで鳴り続けるのだろうか?

 ついに雄一は折れた。彼はあえて受けて立つことにした。


「もしもし?」


 ………………………………。


「もしもし?」


 ………………………………。


「もしもし? 聞こえてますか?」


 ………………………………。


 一切の返事がない。電話の相手も、雄一のように無言を決め込むつもりのようだ。


「この時間に一体何の用ですか? お答えいただけないなら電話を切らせてもらいますよ」


 そう言いながら雄一は親機の通知画面に目を遣った。通知画面に表示された番号は、三宅の自宅のものだったのだ。

 雄一は犯人に問いかけた。


「君が三宅さんを殺したのか?」


 何も返事がない。雄一は次第に怒りを募らせた。


「何か言ったらどうなんだ? 何も言わない方が君の不利になるんだぞ。僕が警察に今すぐ電話したらどうなるか分かってるね?」


 それでも答えがない。イライラはさらに募る。


「答えないつもりか? どういう了見なんだ?」


 ………………………………。


 声どころか息のする音すら聞こえないストレスはついに最高潮に達した。


「大概にしろ! 一体お前は誰なんだ!」


 ブチッ、ツー、ツー、ツー


 ついに一切の返答もなく電話が切られてしまった。雄一はそのままの勢いで警察署に電話した。三宅の事件の担当刑事に繋いでもらうと、刑事は嬉しそうな声で電話口に出た。


「いやあ、先生でしたか。実はちょうど私からもお伝えしたいことがありましてなあ」


「刑事さん、犯人が病院に電話をかけてきました。今三宅さんの家にいるんです」


 これを聞いた刑事は不思議そうに言った。


「それはあり得ませんよ。犯人ならもう捕まりましたからね」


 耳を疑った。犯人は自分と電話で話していたではないか。


「そんなはずはありませんよ! さっきまで電話で話を……」


「いや、確かに犯人は捕まっています。私がそちらの病院から帰っている最中に連絡が入りましてね、犯人が別の場所に空き巣に入ろうとしたところを他の刑事が見つけたんです。やつも三宅さんの事件のことはおおむね認めています。夜中の犯行が上手くいったんで、調子に乗って今度は昼の空き家を狙ったんだそうです」


「では殺したのも?」


「本人は首を絞めて気絶させただけだと言ってますがね、まあ無理があるでしょう。それから、無言電話の件についても否定しています。これに関しては信じていいでしょう。昼間に入られた家のご主人に確認したら、夜中に電話が来たことはないということでしたから」


 雄一は放心して電話を切った。では今まで自分と話していた人物は一体誰だったのだ? 一体どんな目的で自分に近づいてきたのか?


 プルルルル、プルルルル


 再びコール音が鳴り響いた。通知画面には三宅の電話番号が表示されている。

 雄一は電話をそのままにして診療所を出た。彼が向かったのは三宅の家だった。



 三宅の家には規制線が張られたままになっていた。刑事は見張りをつけると言っていたが、犯人が捕まったからか警察は一人もいなかった。雄一は規制線を跨いで家の中へ入った。今の彼に恐怖心はない。とにかく犯人の正体を犯人の正体を知ることだけが彼の目的になっていた。

 しかし家中を探しても犯人と思われる人物は見つからない。そこで雄一は電話を探すことにした。電話は居間と思われる部屋に置かれていた。機会に疎いのか、今時珍しい黒電話のデザインになっている。

 雄一は受話器を耳に当てた。ところが全く発信音がしない。試しに自分の病院へかけようとしたが、反応もしない。

 よく見ると、電話線が切られていた。


 ジリリリリ、ジリリリリ


 突然鳴り響いた音に雄一は驚いた。そして音の正体に気づくと、彼はさらに衝撃を与えられた。電話線が切られたはずの黒電話から、その音が鳴り響いていたのだ。

 雄一は持っていた受話器を投げ捨て、三宅の家を出た。どこに犯人はいるのか? もしかすると自分の後をつけているのか? 雄一は夜と言うことも忘れて叫んだ。


「どこにいるんだ! 出てこい!」


 すると今度は彼の服の中から振動が伝わった。自身のスマートフォンである。すぐに彼は画面を確認した。スマートフォン内の電話帳には入っていない番号――しかし電話帳の番号以上にしっかりとその頭に記憶された番号がそこには表示されていた。

 ついに犯人は雄一のプライベートにまで踏み込んできたのである。

 雄一はもう一度三宅の家に入った。今なら犯人がいるかもしれないと思ったからだ。しかしその期待も虚しく、犯人は電話の前にはすでにいなかった。スマートフォンの着信も止まっていた。家の中をくまなく捜すが誰もいない。彼の思考力が段々と弱っていく。

 三宅の家を出た雄一はフラフラだった。もうすぐ日付が変わる。いつもなら、この時間から無言電話で患者たちを振り回し始めている。だが今の彼は無言電話で振り回される立場になっていた。

 再びスマートフォンが震えた。画面を確認する。そこに表示されていたのは三宅の自宅の番号ではなかった。『公衆電話』とだけである。思いつく公衆電話は一つしかない。彼は無我夢中であの電話ボックスへ向かった。

 目的地に着くとスマートフォンの着信が切れた。そこには誰もいない。雄一はゆっくりと電話ボックスに近づいていった。


 プルルルル、プルルルル


 電話からコール音が鳴り響いた。絶対に聞こえることのない公衆電話のコール音――そんな疑問も今の雄一にはない。彼は電話ボックスに辿り着くと、受話器を耳に当てた。


 ………………………………。


 もちろん返事はない。沈黙が続く。


 ………………………………。


 とうとう雄一が根負けした。その場に跪くと、泣きながら電話の相手に詰問した。今の彼には自尊心など微塵もない。


「なあ、教えてくれ。お前は一体誰なんだよ! 教えてくれ!」


 ………………………………。


 何度も何度も、同じことを問い詰めた。しかし彼の哀願の叫びも、ただ夜の冷たい空気に溶け込むだけであった。これ以降も、一切相手の声が聞こえることはなかった。





 最近の雄一は看護師やスタッフたちに、どのような用事があっても電話をかけてこないように注意した。この理由を知る者は誰一人いない。

 彼はスタッフが帰るとすぐに病院を出る。深夜に無言電話をかけることもしなくなった。固定電話は取り払い、寝る前にはスマートフォンの電源も切った。少しでも自身の不安を取り除くためである。

 しかしそれも無意味だった。深夜になると必ず――



『公衆電話』



 ――プルルルル、プルルルル――

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