ラスト・フラワー

アハハのおばけちゃん

第1話 白いリコリスと赤いヒガンバナ


   ※


「それでは、最後の花を頂こう」

 

 いつの間にか、瞳を真っ赤に光らせていた。

 やつは、薄い笑みを浮かべて言った。


 夜のはじまり、田村のおばあちゃんの家の中。今居る縁側の長い廊下は、外からの頼りない月明かりだけで薄暗い。


「ラスト・フラワー」


 目の前、床に両ひざをつき。右腕に抱える田村のおばあちゃんのお腹に左手をかざす。   


 やつが、静かに、低くはっきりと言った。


 僕は、腰が抜けたまま、床にお尻をつけたままで。田村のおばあちゃんのお腹に、やつの左手がしずんでいくのを見つめた。


 豆腐に包丁を入れたときの様。音は聞こえず、血は流れず。やつの左手が、すっぽりとお腹に収り。


 その間、やつの右腕の中、目を閉じて身体を伸ばしている。田村のおばあちゃんは、穏やかな笑みを浮かべていた。


 僕は、十三年生きてきて、初めて見た光景に口を開くことが出来ず。

 目の前で起きた手品の様な現象に、固まることしか出来なかった。


「このご婦人、九十年生きて、天寿をまっとうしただけはある。久方ぶりに、とても美味そうな、食べ応えのあるものを頂けそうだ」


 やつが、とても明るい声で言い。田村のおばあちゃんのお腹から左手を抜いた。


「最上(もがみ)にちか。とても綺麗な花だろう」


 やつが、教えていないのに、僕の名前を呼び。右腕に田村のおばあちゃんを抱えたまま。血に濡れていない、光っている左手を向けてきた。


 僕は、やつの左手に握られているものに目が釘付けになり。


「……すごく、綺麗だ」


 ぼそりと、口からもらした。


 やつの左手に握られているのは、一本の花。


 まっすぐな緑の茎の上、細く白い花弁たちが王冠のように開き。薄暗い中でじんわりと光る姿は、目が離せないくらい綺麗だ。


「ご婦人の最後の花は、白いリコリス。赤いリコリスは、日本ではヒガンバナと呼ばれ、秋の訪れを知らせる花だ。最上にちかでも、知っているだろう」


 やつは、突然に思える説明をしたあと、笑んだ顔を向けてきた。


 僕は、なぜか、とても苛立ちを感じ。やつは、綺麗な花に顔を向け、笑みを消した真面目な表情を浮かべて続けた。


「白いリコリスの花言葉は、『思うのはあなた一人』『また会う日を楽しみに』。ご婦人、大丈夫だ。こんなに綺麗で美味そうな花を育てたのだ。先に逝かれたご主人と、天国で会えるだろう」


 やつは、明るい声で言ったあと、花を食べはじめた。


 僕は、とても驚き。むしゃむしゃと茎まですべて食べ終えるのを、ただ見ているしか出来なかった。


「ご婦人。貴女の最後の花、とても美味で、久方ぶりに満たされるものだった。天国まで、よい旅路を。天国で、転生するまでの間、ご主人と幸せに」


 やつが、明るい声で言ったあと。田村のおばあちゃんが、やつに食べられた花の様にぼんやりと光りはじめ。


 慌てて、そばにかけよる前。


「にちかちゃん。光太郎(こうたろう)さんに、今までよくしてくれてありがとうと言っておいてね。にちかちゃんも、今まで、ありがとう。最後まで、ありがとう」


 田村のおばあちゃんが、目と口を閉じたまま言い。僕が口開く前に、光らなくなった。


 やつが、「最上にちか」と言い。田村のおばあちゃんを床へあお向けに寝かせ。


「警察に連絡をしなさい。警官がここに来たら、光太郎に言いつけられ食事を持って合鍵で家に入り、姿を探すとご婦人は廊下に倒れていたと。真実を話せばいい」


 田村のおばあちゃんの両手を胸の上で重ねながら言った。

 やつに、僕は何から言えばいいか分からず、少ししてから口を開いた。


「……警察が来たら、……お前がしたこと、言うぞ」


 僕は、情けないけれど、震えている声で言い。やつは立ち上がり、僕を見下ろして言った。


「目上の人間に向かって、お前とは。十三歳にもなって、礼儀がなっていないぞ。光太郎に言って、怒ってもらおうか」


 そう言ったあと、やつは、にやりと聞こえてきそうな笑みを浮かべ。

 僕は、とても苛立ちを感じたけれど、口を開けず。改めて、じっと、やつの姿を見た。


 ベストとネクタイを着けた細身のスーツ姿。140cmの僕よりもだいぶ背が高く、手足が細く長い。

 真っ黒で前髪を額の真ん中で分けた、スーツに合わせているのだろう髪の毛。白くて背に対して小さい、面長で女の人みたいな顔。


 やつは、若いサラリーマンぐらいの歳で、誰から見てもイケメンと言われるだろうなと思い。


 スーツを着て必要以上にきちんとした雰囲気をまとっているのに。なんで、とてもうさん臭く見えるんだろうと思ったとき。


「最上にちか。今は、私に見惚れている場合ではない」


 僕は、少しして、言われた意味が分かり。


「早く、警察を呼んだほうがいい。ご婦人を、すぐに焼いてもらったほうがいい」


 否定の言葉を吐く前。やつが、今日の天気を言うみたいに言い。僕は、苛立ちで上がった温度が下がるのを感じた。


「ご婦人は、二日前に死んでいた。生き物の身体は、死ねば、すぐに腐ってしまう」


 僕は、言われたことに、口の中が苦くなり。やつは、薄っすらとした笑みを浮かべて、僕におかまいなしに続けた。


「冷房がつけっぱなしで幸いだった。六月は、何でも腐りやすい。人間も腐りやすい。腐った死体を見ずに済んで、良かったな。どの時代でも、初めて見た人間は、数日食事がとれなくなる」


 僕は、言われたことを頭でくり返したあと、全身がとても冷たくなり。やつは、笑んだまま続けた。


「ご婦人は、自分が亡くなったことに気が付かず、二日床で眠っていた。そのまま眠り続けていれば、魂の残滓(ざんし)が地上に捕らわれ。天にのぼることが出来ず、天国へ、ご主人の元へ向かえなくなっていた」


 訳の分からないことを言い。やつは、苛立ちを感じる笑みを浮かべたまま続けた。


「死んだことを自覚出来ないものが、生き物の中には一定数いる。特に、生に怠慢な人間が多い。そういった、地上でさまよう死者の魂を導き、ふさわしい世界に送る。それが、とても面倒くさい、ここ十年私に課せられた仕事だ」


 先ほど見た、光る白い花と正反対。僕を見下ろすやつの顔は、出来れば見たくない、とても嫌なものに見える。


 僕の気持ちなど、どうでもよいのだろう。やつは、嫌な笑みを浮かべたまま、訳の分からない話を勝手に続けた。


「安心するといい。私は、さまよえる死者の魂だけを導き、最後の花をもらう。生きている人間には、手出しが出来ない。最上にちか、君には手を出さない。出せないと、私に課せたものに決められている」


 やつは、口を閉じて、やっと嫌な笑みを消したあと。僕の目の前に、片ひざをついてしゃがみ。僕の左手を冷たい左手で握ってきた。


 僕は、やつの予想していなかった行動に、固まり。

 いつの間にか、赤黒く光っていた。やつの瞳から目が離せない。


「最上にちか。約束どおり、三年後、十六歳になるまで待とう」


 何を言っているんだと、口を開けず。僕は、歌を歌っている様な、やつの楽しそうな声を黙って聞くしかなかった。


「私の名前は、鈴谷(すずや)あすも。明日香(あすか)と約束した、対価を頂く為に。これからは、私がそばに居よう。最上にちか、十年待った私に、対価を差し出すときがきたぞ」


 何を言っているのか。どうして、十年前、三歳のときに事故で死んだ母さんの名前が出てきたのか。


 頭に浮かんだ質問は、口から取り出すことが出来ず。

 僕は、やつの、鈴谷あすもの、三日月みたいな真っ黒い口を見つめるしか出来なかった。


    ※


 小鳥の声が聞こえて、瞼をゆっくり開き。見慣れた天井が見えて、上半身を起こした。


 カーテンを閉めていない窓から朝日が差し込む、明るい自分の部屋。僕は、ベッドの上で寝ていたのが分かり、ぼんやりした頭で思った。


 薄暗い、田村のおばあちゃんの家の廊下。非日常な光景を見せた、やつと居たこと。


 あれは、悪い夢だったんだ。そう思ったとき、左手の甲がちりっと痛み。


 僕は、顔を向けて、かちんと固まった。


「にちか、起きてたのか。おはよう」


「……幸雄(ゆきお)、……これ、何だろう」


 僕は、すごく驚いたまま、部屋に入ってきた幸雄に左手の甲を見せた。


「汚れたり、怪我をしている様には見えんが。どうかしたのか」


 ベッドのそばに立った幸雄が、じいっと見てから言い。僕は、左手の甲を自分に向け、見えているものを伝えた。


「……赤い、……王冠みたいな、もようがあるだろ」


「言っているものは、俺には見えない。にちか、寝ぼけてるのか」


 僕は、中二なのに、少しも声変わりをしていないことがコンプレックスだ。

 同じ歳なのに、とっくに声変わりがすんでいる。幸雄が大人みたいな低い声で言い。


 僕は、瞼を閉じて、ゆっくり開き。左手の甲に五百円玉ぐらいの赤いもようがはっきり見え、「なんで」と小さくもらした。


「顔色が悪い、体調が悪いのか。昨日は、大変だったからな」


 僕は、左手の甲を見つめたまま。幸雄がいつもより低い声で続けた。


「田村のおばあさん、二日で見つけてもらって良かったと思う。冷房はついていたらしいけど、今の時期はご遺体が傷みやすいから。状態がよいうちに、にちかが見つけてよかった」


 幸雄が言ったことを、頭の中でくり返したあと。


『冷房がつけっぱなしで幸いだった。六月は、何でも腐りやすい。人間も腐りやすい。腐った死体を見ずに済んで、良かったな。どの時代でも、初めて見た人間は、数日食事がとれなくなる』


 やつが、幸雄と同じようなことを言い、嫌な笑みを浮かべていたのを思い返してしまった。


 あれは、悪夢ではなかったのかと思い。


「……おい、何すんだ! おい! 降ろせよ!」


 突然、幸雄の両腕に身体を収められ。ベッドから水平に浮き。

 僕をいきなり抱いた幸雄に声を上げた。


「顔色がとても悪い、体調が悪いんだろう。光太郎さんに見てもらって、病院に行こう」


 幸雄は、僕より35cm背が高く、とてもがっしりしていている。同じ歳で中学二年生なのに、大学生や社会人に見られる。

 声と姿に性格が正反対。近所に住んでいて幼稚園からずっと一緒の幸雄には、勝手に、コンプレックスを刺激されてしまう。


 特に、今のように、体格差を見せつけられてしまうと、とても苛立ちを感じる。


「降ろせよ! 自分で歩けるから!」


「無理をするな。おたふく風邪になったとき、俺に同じことを言い。階段から落ちて、大きなたんこぶを作っただろ」


「それ、小五のときだから! もう、子供じゃないから!」


「まだ、子供だろ。俺もついていってやるから、病院行くぞ」


「お前も、子供だろ! お前は、学校行けよ! てか、降ろせよ!」


 幸雄は、僕の言うことを聞かず。僕は、二階の自分の部屋から一階の居間まで、子供みたいに運ばれてしまった。


「幸雄君、すまないな。にちか、朝からうるさいぞ。幸雄君に、いつまで世話をやかせ迷惑をかける気だ」


 居間の低いちゃぶ台の前に座り、新聞を両手にしている。じいちゃんが、眉間にシワをよせた顔を上げ、しゃがれた声で言い。


「光太郎さん。起きていたんですが、よく分からないことを言って、顔色が悪くなったんです。昨日のことで、体調が悪いんだと思います。だから、自分が運んできました。うるさくして、ごめんなさい」


 僕が口を開く前。幸雄がていねいに説明して、僕を静かに畳の上に降ろした。


「にちか。顔を洗って、朝ご飯を食べて、学校に遅れず行きなさい」


 じいちゃんが、新聞に顔を向けて言い。


「にちかは、病院に行ったほうがいいと思います。俺、つきそいます」


 僕が返す前に、幸雄が言い。じいちゃんは、新聞に顔を向けたまま、いつもより重い声で言った。


「幸雄君。君も、朝ご飯を食べて、学校に遅れずに行きなさい。にちか、さっさと用意をしなさい」


 居間の空気がぴしりと張りつめ。幸雄は「はい」と返して、僕は洗面所へ慌てて向かった。


 じいちゃんの言うことは、絶対。十年前、この家でじいちゃんと二人暮らしになってからのルール。

 僕だけじゃなく、幸雄にも、この近所に住むすべての性別男の人間には適応されている。


 じいちゃんに、逆らえる、敵う人間なんか居るんだろうか。

 いないだろうなと思いながら、ばしゃばしゃと顔を洗い。顔を上げてタオル掛けのタオルで水気をふき、瞼を開いて、驚いた。


 目の前、洗面台の鏡には、目を真ん丸にしている自分の顔が映り。前髪をさわる左手の甲には、赤いしるしが映っていない。


 ゆっくり、左手の甲を顔に向けると。赤いしるしが見え、驚き。

 僕は、鏡に映すと見えず肉眼では見えることを、何度も確認して分かった。


 赤いしるしは、ハンドソープで洗っても、タオルでこすっても消えず。タトゥーのように皮膚に描かれている様に見え。


 どうして、こんなものが左手の甲にあるのか。そして、昨日、初めて出会った、やつは何者なのか。


 僕は分からないまま、二階の自分の部屋で制服に着替え、鞄を持って居間に戻った。


「にちか。支度が遅いぞ。早く、食べなさい。幸雄君、待ちくたびれているぞ」


 じいちゃんは、新聞に顔を向けたまま言い。僕は、テレビを見ている幸雄の向かい、じいちゃんの隣に座り。

 ちゃぶ台の上に用意された朝食を見つめ。ちゃぶ台の下にしている、左手で箸を握ることが出来ず。


「左手の赤いヒガンバナは、幸雄君には見えない。誰にも見えないから、安心しろ」


 じいちゃんが、とても小さく言い。驚き、顔向けると。


「昨日のことは、すぐに分かる。さっさと食べて、行ってこい。幸雄君も、テレビを消して、食べなさい」


 じいちゃんは、新聞に顔を向けたまま、いつも通りの声で言った。


 老眼鏡をかけたじいちゃんの横顔は、いつも以上に真面目なものに見え。言うとおりテレビを消した会話に気付いてないだろう幸雄と、いつも通りおいしい朝食を食べた。


「ごちそうさまでした。朝から、光太郎さんのオムレツが食べられたって、父に自慢しますね。最近、父は忙しくて、光太郎さんの店に行けないと愚痴ってます」


「季節の変わり目だからな。寺の住職は忙しいだろう。昨日は、田村さんに丁寧にお経をあげてくれていたから。お礼に、この土日にでも、にちかに出前をさせよう」


「ありがとうございます。光太郎さんの、ハッシュドビーフのオムライスが食べたいそうです」


 朝食を食べ終え歯磨きをしたあと、玄関にふたりで降りると。幸雄は大人みたいに、じいちゃんと世間話をはじめた。


「幸雄君。口が悪くて、負けん気が強くて、まだまだ子供のにちかのことを、頼む」


 幸雄が「はい」と返して、僕はディスられたと思い。


「にちか。幸雄君に、これから、何でも相談しろ。お前が迷惑をかけたぶんは、じいちゃんが何とかするから。ひとりで、何とかしようとするな」


 僕は、また、ディスられたと思い。「返事は」と言われて、しぶしぶ「はい」と返した。


 「いってらっしゃい」と言われて、「いってきます」と玄関を出て、僕は幸雄と坂を下り出した。


 僕が住んでいるのは、じいちゃんがひとりで営む、小さな洋食屋が一階にある古い家。

 北野坂という地域で、兵庫県神戸市の中心駅である三ノ宮駅や繁華街から近い場所にある。


 この辺りは山と海が近くて、海側と山側には観光地がたくさんあり。山側の北野坂には異人館が集まる通りがあり、平日でもにぎわっている。


 観光地から近いけれど、じいちゃんと住む家の辺りは静かな住宅街で、じいちゃんの店に来るお客さんは常連さんがほとんど。


 異人館の裏に住んでいた田村のおばあちゃんは、常連さんのひとりで、僕が神戸に来てからずっとかわいがってくれていた。

 二日に一度は店に来ていたのに、ここ三日姿が見えず。昨日、じいちゃんに弁当を持たせてもらい、家を訪ね。


『にちかちゃん。光太郎(こうたろう)さんに、今までよくしてくれてありがとうと言っておいてね。にちかちゃんも、今まで、ありがとう。最後まで、ありがとう』


 田村のおばあちゃんに、最後の、優しい言葉をもらった。


「にちか。本当に、大丈夫か。顔色が悪い、今から引き返すか」


 昨日のことを思い返していると、隣から聞こえ。僕は、現実に戻り、左手の甲を見ると赤いしるしがあった。


「……幸雄。……田村のおばあちゃん、……本当に、死んじゃったの」


 僕は、足を止め。じいちゃんが『赤いヒガンバナ』といったもようを見つめて言った。


「田村のおばあちゃん。とても、安らかな顔だったらしいな。親父が言ってた」


 少し先で足を止めた、幸雄が固い声で言い。僕は、顔を上げた。


「警察と一緒に、親父も田村のおばあちゃんの家に駆けつけたろ。にちかが、すごく冷静に説明してたって、褒めてたぞ。家に行って、見つけて、すぐに警察に電話したの。すごいよな」


 幸雄は、僕の正面に立ち、僕の頭に軽く大きな手を乗せて続けた。


「俺なら、パニックって、すぐには電話出来なかったと思う。えらかったな」


 幸雄が僕に向ける言葉、保護者のような優しい視線。いつもなら、子供あつかいされていると感じて苛立っている。


 今は、知らない、自分の昨晩の行動を聞いて固まるしかなかった。


「いつもより大人しかったけど、取り乱したりしてなかったって。昨日の夜、家に戻ってきた親父から聞いた。すごく、心配だった。にちか、大きくショックを受けて、いつもと違う風になってたんじゃないかって」


 僕は、嫌に心臓が鳴りはじめているのを感じ。幸雄は、僕から手を離して、じっとこちらを見つめて言った。


「大丈夫か。さっき、光太郎さんも言ってたけど。何かあれば、俺に、何でも言ってこいよ」


 僕は、何から話せばと思い。


「おはよう。にちか」


 口を開く前に、うしろから聞こえてきた。知っている声に、温度が下がった。


「にちか。光太郎から、すぐに家に戻るよう伝言を預かってきた」


 僕は、うしろを向けず。声の主がうしろから隣に立ち、ふふっと笑んだのが分かった。


「昨晩のこと、左手の赤いヒガンバナのこと。今から、知れるぞ」


 楽しそうな声が聞こえ、隣に向くと。今日は、黒い瞳。


 やつは、鈴谷あすもは、僕に向けてにやりと嫌な笑みを浮かべた。

 

    ※


「にちか。どうした、入って来ないか」


「……何で、ここに来た。……じいちゃんが、呼んでたんじゃないのか」


 僕の名前を、勝手に呼び捨てにする。やつへ、僕は、出せる一番低い声で言った。


「ここに来たのは、ご婦人から、この家を譲り受けたからだ」


 僕を、通学路から、田村のおばあちゃんの家の前に連れて来た。

 鈴谷あすもは、嫌な笑みを浮かべ、僕が口を開く前に続けた。


「大丈夫だ。ご婦人は、私がきちんと送った。化けて出ることなどないから、安心しなさい」


 そう言ったあと、鈴谷あすもは立派な門の中に入り。怖がってなどいない、勝手にはいるなと言うため。僕は、ぴしりとしたスーツの背中を追った。


「ご婦人は、とてもよい家に住んでらした。こんなよい家は、なかなかないものだ」


 田村のおばあちゃんの家の中に入って、鈴谷あすもの少しうしろを歩き。

 僕は、そのとおりだと思ったが、お前が言うなと思った。


 一年中緑と花があふれる、きちんと手入れされた広い庭。外国にあるような、古いけれど立派な家屋。


 田村のおばあちゃんの家は、とても立派で、家主と同じように温かく感じる。


「先に亡くなったご主人は、貿易関係の仕事で海外によく行かれていた。海外で見た家に感銘を覚え、結婚する際に模した家を送り。亡くなるまで、ご婦人に尽くし続けた」


 鈴谷あすもは、背中を向けたまま、僕も知らなかったことを言いながら進み。


「ご婦人の、最後の極上の花。育てたのは、ご主人とも言えるだろう。女性と花は、手をかけるほど美しく、美味くなる」


 家屋の前に立って、意味の分からないことを言い。鍵のかかっていなかった扉を開いた。


「……おい。……勝手に、入るな」


「にちか。譲り受けたと言ったろう。そして、目上の人間に対しての言葉遣いがなっていないな。光太郎に怒ってもらおう」


 僕が返す前に、鈴谷あすもは玄関に入り。靴を脱がずに段差を上がり、廊下をすたすたと進んでいった。


 僕は、驚き。靴を脱いでそろえ隅に置いてから、「待てよ」と段差を上がり。


『いらっしゃいませ。ご主人様のお客様』


 声をぴたりと合わせ、目の前に現れた。ふたりに驚いた。


 白いシャツに黒い蝶ネクタイとベスト、黒い半ズボンに白いハイソックス姿。

 結婚式に出席するような、おそろいのきちんとした服を着ている。ふたりの男の子の容姿に、僕は固まった。


「ご主人様のお客様。ご主人様にお伝え願いますか。お客様を連れてくるのなら、お伝え下さらないと困りますと」


 はきはきと言った、左に立つ男の子。黒い髪の頭の左右には、三日月を半分に切って下に向けたような角。瞳は、晴れた空みたいな青。


「ご主人様のお客様~。ラムは、眠いけれど~。お掃除ちゃんとしてました~。ご主人様に~、ほめてもらえるよう言ってください~」


 のんびりと言った、右に立つ男の子。白い巻き毛の頭の左右に、うずまき貝のような角。瞳は、鈍い金色。


 僕は、産まれて初めて見る容姿をしたふたりに、口を開くことが出来ず。


「タウ、今度からは、ちゃんと連絡をしよう。ラム、偉いな、タウとふたりでお茶の用意をしてきてくれないか」


 いつの間にか、ふたりのうしろに立っていた。鈴谷あすもが言い。

 ふたりは『承知しました』と背中を向け、廊下の奥へと消えた。


「にちか。いつまで、そこに立っている。全てを答えてやるから、ついてきなさい」


 あっけにとられていた僕は、我に返り。昨晩から偉そうな、鈴谷あすもを見上げて言った。


「……じいちゃんが、呼んでたんだろう。どうして、お前から聞かないといけないんだ」


「先ほど、光太郎に許しを得て、ここに連れてきた。人が集まる、さまよえる魂が集まる学校に、今の状態で行かせるのは危ないと言ってな。自分以外には見えないものが、学校ではよく見えるだろう」


 じいちゃんと、幸雄しか知らないこと。何で、お前が知ってるんだと言う前に、


「あれは、さまよえる魂、死んだ人間の残滓だ。にちか。お前は、自分以外には見えないものに、狙われてるようになってしまった。昨晩、私が、にちかの左手の甲に忠誠のしるしを刻んだからだ」


 鈴谷あすもが言い、にやりと笑って続けた。


「昨晩、私が、婦人の最後の花を食べたように。頭から、ばりばりと喰われたければ。学校に向かうといい」


 ふっと小さい笑い声を残して、鈴谷あすもは背中を向けて行ってしまい。固まっていた僕は、少ししてから、「待てよ」と追いかけた。


 玄関から、田村のおばあちゃんが倒れていた縁側の廊下を進み。居間に入って、僕は驚いた。


「庭と家の外観を変えないなら、部屋の中は好きに変えていいと。ご婦人に了承を得ている。靴で家の中を歩くこともな」


 鈴谷あすもが、僕に振り返って言い。僕は、思ったままを言った。


「……なんで。……こんな、変な部屋にしたんだよ」


 田村のおばあちゃんは、豪華な家に住んでいた。けれど、僕から見ても質素に暮らしていて、部屋の中はいつも整えられすっきりとしていた。


 今居る居間は、僕の知るものではなく。派手な家具に装飾品、動物のはく製が置かれ。そこかしかに置かれた花瓶から、花の匂いが強く漂っている。


「にちかは、もう少し、教養を身に着けたほうが良さそうだな。これから、美しいとは何かを、じっくり教えてやろう」


 呆然としていると、鈴谷あすもがあきれたように言い。僕は、なるべく強い声で返した。


「……部屋を、こんなにして。……お前は、最悪だな」


「にちか。明日香の子供だけあって、無礼極まりないな。同じ歳頃のときと、恐ろしいほど似ている」


 鈴谷あすもは大きく息を吐いてから。部屋の真ん中に置かれた、大げさなソファセットに座り。


 「向かいに座りなさい」と言われて、しゃくだったが、言われたとおり浅くかけた。


「にちか。とりあえず、私の話を黙って聞きなさい。訳が、何ひとつも分かっていないのだから」


 長い足を組んでから、鈴谷あすもが笑みを浮かべて言い。僕は、変わった部屋くらい、強い苛立ちを感じた。


「昨日の夜、この家を訪れ、廊下に倒れているご婦人を見つけた。べそをかいているときに、私が現れ、ご婦人の魂をお送りした。ここまでは、覚えているだろう」


 言い方にひどくムカついたが、首を縦に振った。


「そのあとで、私は、しるしを刻んだ。左手の甲に、赤いヒガンバナが見えるだろう。しるしは、普通の人間には見えない」


 僕は、左手の甲にある赤いしるしを見ながら、腹が立ってくるのを感じた。


「私が勝手にしるしを刻んだと、腹を立てているかもしれないが。光太郎に許しを得ている」


 僕は、言われたことに、とても驚き。


「昨日の夜、にちかと入れ違いに店に赴き。ご婦人を送ること、にちかにしるしを刻むことを伝えた。光太郎は、よろしく頼むと言った」


 顔を上げると、鈴谷あすもは笑みを消した顔で続けた。


「これから、私と居るのなら。しるしは必要なものだ。安心しろ。左手にある、忠誠のしるしがあれば。私が助けることが出来る」


 僕は、言われている意味が分からず。


「光太郎は、全てを知っているが。にちかには、私のことを言ってこなかった。私は、十三歳の明日香と出会い、今までにちかを見てきた」


 「嘘だ」ともらすと、鈴谷あすもはにやりと笑って続けた。


「三歳のときに、交通事故で父親とともに死んだ母親。明日香のことを、どれだけ覚えている」


 僕は、返すことが出来ず。口の中が苦くなったのを感じながら、目の前の低いテーブルに視線を落とした。


「私は、明日香が成長していき、光太郎の息子と出会いにちかが産まれ、最後の時まで見ていた。にちかが、光太郎とふたりで暮らすようになり、幼なじみの三隈(みくま)幸雄や店の常連の人間にかわいがられ。明日香のことを、忘れて生きてきたのを知っている」


 僕は、どうして、そんなことを知っているんだと思い。ひざの上の両手を強く握り、何も言えなかった。


「事故と両親を亡くしたことから、思い出せないのは仕方がない。そう言ってもらい、今日まできちんと育てもらった。光太郎を、どう思っている」


 僕は、何でお前にと思いながら。狭くなっているのどから、じいちゃんへの気持ちを言った。


「……大事な、家族だと思ってる。……大人になったら、恩返ししたいと思う」


 住宅街の中にある、古い二階建ての家。一階で小さな洋食屋をやっているじいちゃんの腕は、有名ホテルで磨かれたもの。

 小さな店はいつも満席。お客さんは、じいちゃんの料理を楽しんで、満足気な顔で帰って行く。


 小学生の頃から、店の手伝いをしてきた。僕は、本人には言ったことがないけれど、じいちゃんみたいな料理人になりたいと思っている。


「……じいちゃんが、動けなくなる前に。……調理師免許をとって、一緒に店をしたい」


 じいちゃんは、もうすぐ七十歳で、ふだんは歳を感じさせないけれど。

 僕を引き取ってくれたときから、病院に行ったり薬を飲んでいること。心臓が悪いことを知っている。

 


 僕が、幼稚園から一緒の幸雄にも言ってない、夢を口にしてしまったあと。


「にちか。夢を叶えたいのなら、私と契約をしなさい」


 向かいから聞こえてきた。静かな重い声に、顔をゆっくり上げた。


「光太郎を生かしたければ。私と、契約をしなさい」


 鈴谷あすもは、にやりと嫌な笑みを浮かべて続けた。


「十分後、光太郎は、店でひとり倒れる。店は準備中で、開店は数時間後。客に発見される頃には、昨日のご婦人と同じ状態になっているだろう」


 僕は、どくんと大きく胸が鳴り。どくどくと、嫌に高鳴っていくのを感じた。


「私は、人間の死期は分かるが、止めることは出来ない。一度死んだ人間を、生き返らせることも出来ない。ただ、今生に漂う、死者の魂を送ることしか出来ない」


 鈴谷あすもが、ひとの気も知らずに、訳の分からないことを言い。

 僕は、昨日の夜からのこと、今言われたことを頭の中でぐるぐると考え。自分に起こっていること、鈴谷あすもを信じられないまま。ぼそりと言った。


「……契約って、何だ。……じいちゃんを、どうする気だ」


「にちか。これから、私の仕事を手伝ってもらおう。私は、光太郎に何も出来ない。生きているものに干渉することはない。死者の魂を送ることしか出来ない。」


「……仕事って、何だ」


「私と契約をすると、言いなさい。すぐに、救急車を向かわせる。搬送する先は、腕のいい医者が居る病院だ。私が頼めば、光太郎の手術をしてくれるだろう。その医者でないと助からない」


 僕は、じわりと両目に涙がうかんだけれど。ぐっとがまんして、はっきり言った。


「僕は、お前と、契約をする」


 鈴谷あすもが、にやりと、本当に嫌な笑みを浮かべたあと。僕は、左手が痛み、顔を向けて驚いた。


「明日香の子供。最上にちか。十年前に明日香と交わした約束どおり、契約成立だ」


 左手の甲にある、赤いヒガンバナ。じわりと光り、どくんどくんと胸のように皮膚の下で脈打っている。


 僕は、自分に起こっていることに、頭が真っ白になり。


「明日香、賭けは私の勝ちだ。約束どおり、三年後までは待とう。女性と花は、手をかけるほど美しく、美味くなる」


 歌うように、鈴谷あすもが言い。顔を向けると、全身の温度が下がった。


「にちか。これからは、私がそばに居る。私の仕事を、よく手伝ってくれ」


 鈴谷あすもの瞳が、黒から真っ赤に変わっていて。左の手の甲のしるしのように光っている。


 楽しそうな笑みを浮かべた顔へ、僕は、思ったままを口にした。


「……お前は、人間じゃないのか」


 鈴谷あすもは、ふっと小さく笑ってから。赤黒い瞳を光らせて答えた。


「私は、悪魔。真の名前は、アスモデウス。人間よりもたくさんのことが出来る存在だ。にちか、悪魔の私の為、これから働いてもらうぞ」


 僕は、今言われていることを、理解が出来ず。


「……何でもいいから、じいちゃんを助けろ」


 訳が分からないまま、思うままを口にすると。


 悪魔が、にやりと嫌な笑みを浮かべ、瞳をとても細くした。


第1話 白いリコリスと赤いヒガンバナ 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る