転機
少女は影と、頻繁に会うようになった。
話し相手として、遊び相手として。
その日もまた、彼女は井戸のそばで影の名を呼ぶ。
「影法師、いる?」
「ああ、ここに」
どこからともなく黒い霞が集まって、井戸のふちに腰かける少年の姿を形作った。
「今日はどうした? しょんぼりして」
「……私って、かわいくない?」
またか、と影は額に手を当てる。
「まーた何か言われたんだな」
初めて出会った日、彼女が泣いていたのも原因は同じ。
これまでにも、同じようなことはあった。そしてその度に影法師は、彼女の話を時間が許す限り聞いている。
「いい加減、どうにかした方がいい」
「そうじゃないの」
少女の言葉が、影のそれを遮る。
彼女は、そういう話がしたい訳ではなかった。
「影法師は、どう思う?」
「……あぁ、そういうことか」
意図を察した影は、こっちへおいでと手招きをする。その足元には、水の入った桶がひとつ。
覗いてみるよう言われた少女。水面に映る自分の顔は、眉がへの字を描いている。
影の黒い手が、そんな彼女の顔を覆った。
「少し、待ってな。良いものを見せてやるよ」
十数えるくらいの間の後に、手が退かされる。
その向こうにあったのは、いつも見慣れた彼女の顔ではない。化粧をした女の顔が、代わりに映っている。
少女が自分の顔に手を当てると、水面の像もそれに倣う。誰か、別人の顔が彼女の物として映されている。
「どうだい、大人になった自分の顔は」
「これが……?」
言われてみれば、母の顔に似ているようにも思える。だが、言われなければ気付かないほどに自分の顔とはかけ離れている。
綺麗だとは思うが、成長した自身の顔だと言われても信じられない。
「本当にわたしの顔なの?」
「そうだよ。化粧はさせたけど、俺が予想した『こうなるかもしれない』という顔さ」
「あなたの『予想』なのね」
「信用してないなぁ?」
影の手によるこの予想、まったく根拠のないものという訳ではない。
「最初に会った日、言っただろう。物として、人と長い時間を過ごしてきたって」
育ち、老いる多くの顔を見てきた。そんな経験に基づく予想が、水面に映るこの顔。
「お世辞に、こんな手間をかけたりしないさ」
「あなたの言うことは信じたいけど……」
そうするには予想と今の顔との、違いが大き過ぎた。
母親もきれいな人ではあるが、自分がそうなると思うことができない。
「……照れくさいからやりたくなかったが、しょうがない」
再び振られた影の手、その向こうには術の解けた元の顔。
「自分の目が、人より大きい自覚はあるか?」
真っ黒な指が、彼女の目を指す。
言葉を聞かずとも、呆気にとられた顔を見れば答えを聞く必要はない。
「そうかしら?」
今まで、自分の顔を人と比べて見たことなんてない。
少女は水鏡の像を見つめながら、自身のまなじりに触れる。
影は指で、自身の口角を上げた。真っ黒な顔で分かりづらいが、笑みの形を作っているのだと彼女には理解できた。
「笑ったり、泣いたり、何を考えているのかはっきりと顔に出るのさ。目は口ほどにものを言うって言葉、あるだろ」
笑った顔、怒った顔、悲しい顔、驚いた顔。自分で色々と表情を変えてみる。
すぐそばにあっても、見えることのない自身の顔。こうして確かめても、影の言葉が本当なのかは分からない。
「俺は、そういうところが良いと思う。……最初にあった日、あの日見たお前の笑顔は『雲から顔を出した月』のようだった」
「ほめてくれてるの?」
「それ以外の何だって言うんだ? 繰り返すけど、お世辞を言ってるつもりは無いよ。面食いってのとは違うけど、顔にはうるさいんだ」
「……元気でたわ。ありがと、影法師」
「そりゃよかった。さて、今日は何をしようか」
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