【13】コックロビンよ、さようなら。(小鹿) その後のやりとり
【13】コックロビンよ、さようなら。(小鹿)
https://kakuyomu.jp/works/16817330648772750884
□小鹿さん:
梶野さん
今回もまた、しっかりと読み込んでいただいてのご感想、ありがとうございました
私、そこまで恐れられていたとは知らず……
梶野さんにとってのロビンにならないように、この返信からは気を付けます 笑
というわけで、お帽子は拾い上げて砂を払っておきましたので、お返ししますね
本作は、特に「ロビンからの手紙」を初読で読んだときと、二読目以降にサミュエルの内心を理解した上で読んだときとで、読み手の感情をいかに変化させられるかに注力して執筆した作品です
ですから、その核ともなる台詞「運命に抗いたまえ」に対して、梶野さんが反応を見せてくださったので、ひとまずの安心を得ました
150点との評定には、いささか拍子抜けもしており、また、お褒めの言葉にはくすぐったさも覚えておりますが、
今夜、じっくり読み返して&回答用の論文探して、お返事したためたいと思います
残念ながら、明日は一日私用のために、お返事は少し遅くなると思いますので、まずはお礼まで
ありがとうございましたー!
■梶野:
>小鹿さん
お疲れさまでした。
感想お待たせしてすみません。
まあラスボスは半分冗談ですが、再び参加いただいて光栄なのは本音ですよw
帽子はまあ、一応被っておくとしましょうか。富裕層じゃないしw
なるほど。確かにそういう意味では二読した上で感想書く私のスタイルを狙い撃ちですね。お見事でした。
まあタイトルからして、ロビンの手紙を見た時点でああなることは予想されましたが、返信がアオイ向けだったのだけは予想外で。でも確かに本人に返しませんよね、ああいう場合w
私は別に好きで辛口書いてるわけじゃないんです。美味しければ美味しいと言うだけというか、むしろ褒め千切りたいのが本音なくらいで。そこに至らない作品が多いってだけなんです。
今作は、何となく梶野をターゲットに入れて、計算して書かれてきた気がしたんですが、どうなんでしょ。流石に穿ちすぎですかね。まあ、それくらい私的には文句なしだったということで。
お返事、時間あるときで全然構いませんよ。この後も二人分は感想書かなければいけませんし。その後続くかはわかりませんが、まあこの感じだと早めに一息つけそうです。これはこれで。
こちらこそ、ありがとうございました。返信楽しみにしておきます。
□小鹿さん:
梶野さん
改めまして、ご感想ありがとうございました
疑問点などを含めた感想に対する返信を考えるなかで、曖昧だった設定が詰まってって、実に助けとなりました
その過程が案外、長引いてしまったことはご容赦ください
それでは、本編の中からご感想をいくつか拾わせていただきます
◇植民地政策の功罪
NHKの教育テレビにて以前、マイケル・サンデルの白熱教室が東京大学かどこかで開かれたさいの特番を見たのですが、
ある男子学生が、朝鮮に対する日本の植民地政策は、インフラを整えて生活水準を向上させたのだから、韓国は被害者ムーブばっかりしていないで少しは感謝してほしいと発言していて、おおぅと思ったものです
当時の私はまだ中学生くらい? 帝国主義の概念すら知らないころでしたが、強烈な上から目線をよく記憶しています
世界の発展を直線的に考えると、農耕中心社会では遅れていて、商業→工業(→21世紀ならIT)と上の階層に来れば来るほど、正しい進化を遂げた社会という見方ができます
このような階層的なモノの見方は、当時のパブリック・スクールの教育観にも見られ、
人格の完成は「善」を目指す道徳的判断の積み重ねに基づき、それは教育によって正しく導かれるという人格主義教育がありました
道徳的判断という個人の精神に、人格完成の要があると考えられているので、ある意味では徹底した平等論が見受けられます(平等だけど公平ではない)
植民地支配、人格主義的教育、いずれにしてもその危うさは、支配者(教育者)側に絶対的な善と方向性の決定権とがあること、被支配者(被教育者)との間に権力勾配が出来てしまうことなどが挙げられるでしょうか
本作に関連付けてまとめるならば、
「善意の押し付けよくない、互いの価値観を尊重すべし」
ですかね
多様性って大事なんですよ、ロビンくん
◇インディアについて
さて、今回も恒例、原語の発音をどのように音訳するか問題です 笑
インディアンと書くと、どうしてもネイティブ・アメリカンのイメージが先行してしまいますし、そも、インドをインディアと書くこと自体が異端ですからねぇ
ただ、「インド」って書くと、どうしても、
カレー、象さん、踊ろう! ジャワワワーン!!!
みたいな賑やかしいイメージがあるじゃないですか(偏見)
この物語としては、多雨、うだるような暑い夏、延々と続く茶畑と貧しい茶摘みたち……という少し陰鬱さも含めたイメージでアッサムを思い描いてほしくて
なので、インディアはインディアのまま残して、インディアンはインディア人としましょうかね
やはり「インディアン」の持つイメージ力は強すぎるようですので
なお、「インディア個人」は完全に表記ミスなので、ありがたく訂正させていただきます
◇ 一瞬、悲しみの情動を認めた。
「その口振りがやたら修辞的なところも癪に触る」とサミュエルに書かせるためにも、多少の詩的文体は残しておきます
代わりに、サミュエルの手紙をもう少し口語に寄せる余地はないか考えてみます
読み返すとわりと、サミュエルもいい勝負な文体で倍の長さもある手紙を書き綴っているので
ちなみに、ロビンの手紙冒頭にある「Be patient till the last.」とは、シェイクスピアによる『ジュリアス・シーザー』にて、恩師カエサルを暗殺した直後のブルータスが民衆の前に立ち、自身の弁明を聞きたまえ、それから私を裁きたまえと述べる冒頭の台詞です
本当、こういうところですよね 笑
独特な言葉遣いは、梶野さんご指摘のとおりですが、このやたらインテリジェンスで妙に詩的な文面は、大正から昭和初期の文豪、倉田百三の『愛と認識との出発』のうち、彼の友人である三之助くんからの手紙をまとめた章、「憧憬 ――三之助の手紙――」を参考にしています
https://www.aozora.gr.jp/cards/000256/files/2590_20695.html
彼らは中学以来の友人ながら、哲学的な方向性の違いから、百三が絶交を言い渡す形で一時、交友が途絶えています
そんな折に三之助が送ってくれた手紙の結びがこちら
「ああ愛する友よ、わが掌の温けきを離れて、蘆そよぐ枯野の寒きに飛び去らんとするわが椋鳥よ、おまえのか弱い翼に嵐は冷たかろう。おまえに去られて毎日泣いて待っている私のところへ、さあ早く帰ってお出で」
……本物は違いますでしょ?
私なんぞは養殖モンですわ
◇親の貧困が負の遺産として子供に受け継がれること
共産主義は歴史がゴニョゴニョですので 笑、福祉国家を目指しましょうかね?
学校は教育格差を拡大する装置でもあり、同時に、是正する機会でもあるので
一応ですが、当時1910年ごろのイギリスにおける就学率はほぼ100%、識字率も約98%だったそうです
けっこう高いじゃん、と思えるのですけれど、識字率とは「日常生活の簡単な内容についての読み書きができる」割合ですので、
彼らへと「学問」を与えてみると、「理解できる単語だけを拾い読みするので、たいてい文意を誤って捉える」とロビンが評したようになるのだろうと思います
親の文化的な裕福さが資本として子供に受け継がれ、教育機会や社会的地位の獲得に関与することを「文化的再生産」といいます
これをね、教室内で是正したいんですけどね、学校で教えられることを理解する能力は、どうしても文化資本の豊かさに依存してしまうので、難しいんですよね
文化資本ってサービス業(金銭と引き換えに提供されるもの)として成立してしまっていますし
昨今では英語問題でしょうか
小学校から英語科が導入され、高校や大学の各入試でも問題が難化、得点配分も高い傾向にありながら、英語嫌いや低得点層の割合は増加しています
圧倒的なフォロー不足を認識しながらも、社会科教師としてできることなど、英語圏文化に親しみを持たせることくらいですからねぇ
◇時系列について
ちょっと私自身も時系列を混同していたので整理し直しました
クリスマス 孤児院訪問、少女に贈り物
1月末 少女の失踪、出自を明かす
2月上旬 弁論大会
2月中旬 決裂
3月中旬 孤児院へ学習日課を指示(ロビン)
イースター休暇中、ロビンはドゥラモンド家の孤児院を訪問して、勉学を身に付ける難しさを実感し、また、グラハム博士のパーティーにも出席しています
博士のパーティーはイースター当日の4月11日になるので、「博士のパーティー」を「博士主催のイースター・パーティー」に変更
活動紹介と募金会を兼ねたパーティーですね
こういった慈善活動に寄付をするのも、ノブレス・オブリージュの一種です
最大の還元とか言われると、随分とデカいことをと引いてしまう気持ちもわかりますが 笑
◇ 思春期の激情
サミュエルのこの台詞は、思春期の歪んだ認知に基づく心理を記録しておくから、と自身の未熟さおよびその記録を免罪符にして、露悪を綴る言い訳を述べているので、あえて「思春期」と使いました
彼は幼少期から自身の感情を抑圧して過ごしてきたために、少し客観視点が強めでして、それゆえ、言葉選びに若干の違和感を覚えさせてしまうかもしれません
よく言えば、冷静で落ち着きがあると言えますが
◇サミュエルの両親
確かに父については言及していませんでした
サミュエルは父に関して何も知らないので
サミュエルの存在すら知らない父親は、どこかのお屋敷勤めの在印イギリス人(3世くらい)の設定です
なので、サミュエルはお祖母さんだけがインド人のクウォーターですね
サミュエルが養父に対して、生母の捜索を求めたのは、地理的問題にあります
屋敷がある州都カルカッタと生まれ故郷のアッサムとは、道によるものの、800〜1,000kmほど離れています(意外とインドは大きい)
勉強漬けで屋敷に軟禁状態のサミュエルに、母を訪ねる余暇は与えられるわけもなく、またサミュエル自身も、母のいる茶園の住所を知らないのです
なので、茶園の名前と母の名前をもとに、母を探して会わせてくれと願ったのですが、養父は一蹴した、と
ここらへん、小説内に書くには冗長なので、養父の不寛容に集約させてもよいかもしれませんね
なお、父・養母の表記に関しては、「お前の母はこの人だけだ」の「この人」がボウ夫人であることを明記するために養母と示したのですが、わかりにくいですかね
しかし、ここの(養母)をなくすと、誰のことだかわからなくなりますし
要検討とします
◇ ドゥラモンド家でのシーン
ご指摘の箇所、両文とも改訂しました
一文が長くなりがちなのは悪癖ですね 笑
主語は文頭に抜き出して、文中に主語の交代が起きないように努める
基本ですわ
◇スズチカ・アオイについて
梶野さんがスワロウを気に入ってくださるとは意外でしたが、なるほど、エンタメ性の観点からみると、初登場の台詞は作中一の大見得ですからね
東洋からの留学生(渡り鳥)たるオリエンタル・スワロウ、日本語名は青井鈴劤くんです
鈴劤は入学式早々に騒ぎを起こした咎で、サミュエルと一緒に校長室へ呼び出しを受けるのですが、校長先生はサミュエルに対して、鈴劤のチューター役になりなさいと言い付けます
(校長先生はサミュエルの血筋のことは知らないながらも、同じアジア出身同士、気が合うかもしれないと考えたわけです)
なので、サミュエルは監督生ではないものの、寮弟(ファッグ)のような直属の関係を鈴劤と結ぶことになり、ロビンとの決裂後はもっぱら鈴劤が友人となります
2話時点にてサミュエルの心を掴んでいるのは、当然に鈴劤です 笑
鈴劤は意外と機微に聡く、かつ傾聴力があるので、根底に陰気さと対人不審があるサミュエルには、気負わず話せる相手、ちょっとくらいなら本音を話してもいいかなと思える相手なのです
ロビン? あの子は目の前の事象を自分の理解できる因果に押し込めて解釈するので、サミュエルのケア要員(=友人)にはなれなかったようですね
これはお互いの性質に起因するので、大人にならないうちは、友情を築くことは難しいでしょう
本作は二話構成で完結していますが、草稿段階にてはさらに、「三、オリエンタル・スワロウからの手紙」「四、ロビンへの手紙」「五、ロビンからの返信」と続きがあり、サミュエルとロビンとが新たな形にて友情を築きなおすまでを描く予定でした
ですので、ご指摘いただいた鈴劤に対する設定や描写の少なさは、第3話以降を書くなかで補っていこうと考えています
それから、ロビン所有のノリタケ茶器の意匠(園亭、柳、燕)ですが、陶磁器はまとめて「china」と言われるけど、ノリタケは日本製なんだよなぁという、(サミュエル自身も含めての)東洋文化に対する解像度の低さを表したかったのが主で、絵柄はオマケなんです……!
燕はひとまず、スワロウたる鈴劤を思い出させるきっかけとして出すとして、
柳は燕と合わせて描くことが好まれる(柳燕図)から、園亭は柳の側にあって違和感ないアイテムだから、程度の理由で、暗喩を込めたわけではありません 笑
梶野さんの深読みは解釈としておもしろいので、どんどんしていただきたいです
ただ、変に深読みさせては混乱を招くので、園亭はなくてもいいかなぁ
ああ、シノワズリですが、私はそこにあまり詳しくないので、シノワズリっぽい雰囲気がお気に入りの絵を紹介して、お茶を濁しておきます
カゾラッティ『赤いカーペットに横たわる少女』(1912年)
◇ルサンチマンとの戦い
サミュエルの課題は、ロビンに対する親愛とルサンチマンとの葛藤です
誰もが経験する心境でしょうが、彼はまだ思春期の只中なので、その普遍性を理解できていない様子
梶野さんがロビンとサミュエル、両方の立場を理解できると言ってくださったならば、梶野さんがターゲットに入るように書いた甲斐があったものです
どうですかね、大人になるとルサンチマンの感じ具合は治まるものなのでしょうかね?
さてさて、以上です
今回は短めで 笑
本作は(も?)、少し思想が全面に出ているので、説教臭くないかしらと気にしていましたが、全体を通して物語として楽しんで読んでいただけたようで、大変安心しました
感想も、ほぼ褒め言葉が連なる様子に始めは拍子抜けし、忖度を疑い、逆に自身で改善点を洗い出す……という段階を踏みながら、
やはり、褒められるということは、創作意欲の肥やしになりますね、なんてにまにましながら、この文章を書いております
それでは、長々お読みいただきありがとうございました
■梶野:
>小鹿さん
>改めまして、ご感想ありがとうございました
>疑問点などを含めた感想に対する返信を考えるなかで、曖昧だった設定が詰まっていって、実に助けとなりました
>その過程が案外、長引いてしまったことはご容赦ください
こちらこそ、返信遅れまして申し訳ない。
たいした指摘は出来ませんでしたが、何かしらお役に立てたなら幸いです。
そして趣味全開の返信、楽しみにしておりましたw
>◇植民地政策の功罪
>NHKの教育テレビにて以前、マイケル・サンデルの白熱教室が東京大学かどこかで開かれたさいの特番を見たのですが、
>ある男子学生が、朝鮮に対する日本の植民地政策は、インフラを整えて生活水準を向上させたのだから、韓国は被害者ムーブばっかりしていないで少しは感謝してほしいと発言していて、おおぅと思ったものです
>当時の私はまだ中学生くらい? 帝国主義の概念すら知らないころでしたが、強烈な上から目線をよく記憶しています
私はわりとその男子学生に近いスタンスですが、まあ歴史なんて視点を変えれば万華鏡みたいに見方が違ってきますし、それで当然とも思っています。
日本の植民地政策(併合)が欧米よりマシだったのは事実ですが、それが善意で行われたものなんてファンタジーは信じてませんから。あれはあれで日本の都合で進んだ政策ですから。
>世界の発展を直線的に考えると、農耕中心社会では遅れていて、商業→工業(→21世紀ならIT)と上の階層に来れば来るほど、正しい進化を遂げた社会という見方ができます
>このような階層的なモノの見方は、当時のパブリック・スクールの教育観にも見られ、
>人格の完成は「善」を目指す道徳的判断の積み重ねに基づき、それは教育によって正しく導かれるという人格主義教育がありました
>道徳的判断という個人の精神に、人格完成の要があると考えられているので、ある意味では徹底した平等論が見受けられます(平等だけど公平ではない)
ふむふむ。西洋教育史って感じですね。
そっち方面は全然知識ないので、拝聴するばかりです。
世界名作アニメの学校シーンを思い出しますw
>植民地支配、人格主義的教育、いずれにしてもその危うさは、支配者(教育者)側に絶対的な善と方向性の決定権とがあること、被支配者(被教育者)との間に権力勾配が出来てしまうことなどが挙げられるでしょうか
なるほど、確かに。
「教育を与える」といっても、施政者に都合の良い教育になりますからね。これは現代でも、どの国でも同じだと思います。特に歴史教育は、やはりその国の主観で教えられると聞いた気がします。
>本作に関連付けてまとめるならば、
>「善意の押し付けよくない、互いの価値観を尊重すべし」
ですかね
>多様性って大事なんですよ、ロビンくん
ごもっともw
英国人は特にそういうのが苦手なイメージあります。
>◇インディアについて
>さて、今回も恒例、原語の発音をどのように音訳するか問題です 笑
>インディアンと書くと、どうしてもネイティブ・アメリカンのイメージが先行してしまいますし、そも、インドをインディアと書くこと自体が異端ですからねぇ
あ、やはりそうなんですか。
正直、私が知らないだけで海外ではこちらが主流なのかまで思ってましたw
>ただ、「インド」って書くと、どうしても、
>カレー、象さん、踊ろう! ジャワワワーン!!!
>みたいな賑やかしいイメージがあるじゃないですか(偏見)
擬音ww でも確かに。
>この物語としては、多雨、うだるような暑い夏、延々と続く茶畑と貧しい茶摘みたち……という少し陰鬱さも含めたイメージでアッサムを思い描いてほしくて
>なので、インディアはインディアのまま残して、インディアンはインディア人としましょうかね
>やはり「インディアン」の持つイメージ力は強すぎるようですので
いいと思います。
インディアンはどうしてもね……ネイティブアメリカンと呼ばれて結構経つはずなんですがw
>なお、「インディア個人」は完全に表記ミスなので、ありがたく訂正させていただきます
了解です。
>◇ 一瞬、悲しみの情動を認めた。
>「その口振りがやたら修辞的なところも癪に触る」とサミュエルに書かせるためにも、多少の詩的文体は残しておきます
代わりに、サミュエルの手紙をもう少し口語に寄せる余地はないか考えてみます
>読み返すとわりと、サミュエルもいい勝負な文体で倍の長さもある手紙を書き綴っているので
なるほど。言われてみれば確かに。
>ちなみに、ロビンの手紙冒頭にある「Be patient till the last.」とは、シェイクスピアによる『ジュリアス・シーザー』にて、恩師カエサルを暗殺した直後のブルータスが民衆の前に立ち、自身の弁明を聞きたまえ、それから私を裁きたまえと述べる冒頭の台詞です
>本当、こういうところですよね 笑
ああっ、引用だったのか!
しまった、自動翻訳せずにググっておけばよかった!w
>独特な言葉遣いは、梶野さんご指摘のとおりですが、このやたらインテリジェンスで妙に詩的な文面は、大正から昭和初期の文豪、倉田百三の『愛と認識との出発』のうち、彼の友人である三之助くんからの手紙をまとめた章、「憧憬 ――三之助の手紙――」を参考にしています
>……本物は違いますでしょ?
>私なんぞは養殖モンですわ
確かに、「これぞ文学」って感じですね。
小鹿さんが養殖とは思いませんが、本家の凄さは伝わります。
私はこの手紙の言葉遣い、それこそ萩尾望都とかの昔の少女漫画作品(結構手紙のやり取りが多い)ぽいなあと思っていましたが、多分、そちらの漫画の方もこういった作品を元にしてるんだな、と思い至りました。こっちが源流か!w
>◇親の貧困が負の遺産として子供に受け継がれること
>共産主義は歴史がゴニョゴニョですので 笑、福祉国家を目指しましょうかね?
>学校は教育格差を拡大する装置でもあり、同時に、是正する機会でもあるので
ベーシックインカムとか、実用できるんでしょうかねえ。
資本主義の利点を生かしつつ問題を抑えるには、福祉国家くらいが妥協点という気もしますが、北欧含めて案外成功してなくて、まだ模索段階という気がします。いうて日本も案外、福祉レベルは高いですし。保険制度とか。
何かで見ましたが、結局国策としての教育は、一番リターンの多い投資なんだそうです。日本は教育関係の予算が少なすぎるそうで。さもありなん。
>一応ですが、当時1910年ごろのイギリスにおける就学率はほぼ100%、識字率も約98%だったそうです
>けっこう高いじゃん、と思えるのですけれど、識字率とは「日常生活の簡単な内容についての読み書きができる」割合ですので、
>彼らへと「学問」を与えてみると、「理解できる単語だけを拾い読みするので、たいてい文意を誤って捉える」とロビンが評したようになるのだろうと思います
ほうほう。日本だとひらがなだけ読める、みたいな感じですかね?
日本の教育だと「読み書き算盤」でしたが、もしかして算盤が重要だったのかも、とか思いました。
>親の文化的な裕福さが資本として子供に受け継がれ、教育機会や社会的地位の獲得に関与することを「文化的再生産」といいます
>これをね、教室内で是正したいんですけどね、学校で教えられることを理解する能力は、どうしても文化資本の豊かさに依存してしまうので、難しいんですよね
>文化資本ってサービス業(金銭と引き換えに提供されるもの)として成立してしまっていますし
まあ、教師の人数も時間も有限ですからねえ。
効率を考えるほど、格差は開いていくわけですし。
それを超える補正には塾が必要で、塾には金が必要で……というところでしょうか。
問題が複雑すぎて、解決策が想像さえできません……
>昨今では英語問題でしょうか
>小学校から英語科が導入され、高校や大学の各入試でも問題が難化、得点配分も高い傾向にありながら、英語嫌いや低得点層の割合は増加しています
>圧倒的なフォロー不足を認識しながらも、社会科教師としてできることなど、英語圏文化に親しみを持たせることくらいですからねぇ
ううむ。現場の生の声。
日本の英語教育って、色々変わってきてるとは聞きますが、効果があったという話はあんま聞かないんですよねえ。
>◇時系列について
>ちょっと私自身も時系列を混同していたので整理し直しました
>クリスマス 孤児院訪問、少女に贈り物
>1月末 少女の失踪、出自を明かす
>2月上旬 弁論大会
>2月中旬 決裂
>3月中旬 孤児院へ学習日課を指示(ロビン)
>イースター休暇中、ロビンはドゥラモンド家の孤児院を訪問して、勉学を身に付ける難しさを実感し、また、グラハム博士のパーティーにも出席しています
ふむふむ。やはりバタバタと連続してますね。
そりゃそうですよね。リアルで考えたら。
>博士のパーティーはイースター当日の4月11日になるので、「博士のパーティー」を「博士主催のイースター・パーティー」に変更
凝り具合が凄いw
>活動紹介と募金会を兼ねたパーティーですね
こういった慈善活動に寄付をするのも、ノブレス・オブリージュの一種です
>最大の還元とか言われると、随分とデカいことをと引いてしまう気持ちもわかりますが 笑
福祉が根付いてるという意味ではいい習慣なんですけどねえ。
精神が伴ってるかどうかはちょっと疑問ですが。施しめいていてw
>◇ 思春期の激情
>サミュエルのこの台詞は、思春期の歪んだ認知に基づく心理を記録しておくから、と自身の未熟さおよびその記録を免罪符にして、露悪を綴る言い訳を述べているので、あえて「思春期」と使いました
>彼は幼少期から自身の感情を抑圧して過ごしてきたために、少し客観視点が強めでして、それゆえ、言葉選びに若干の違和感を覚えさせてしまうかもしれません
>よく言えば、冷静で落ち着きがあると言えますが
なるほど。
ここは私も微妙なラインなので、いいと思います。
>◇サミュエルの両親
>確かに父については言及していませんでした
>サミュエルは父に関して何も知らないので
ああ、そういう理由か。
一人称だとこういうところはどうしようもないですね。
>サミュエルの存在すら知らない父親は、どこかのお屋敷勤めの在印イギリス人(3世くらい)の設定です
>なので、サミュエルはお祖母さんだけがインド人のクウォーターですね
だいたい想像通り。
>サミュエルが養父に対して、生母の捜索を求めたのは、地理的問題にあります
>屋敷がある州都カルカッタと生まれ故郷のアッサムとは、道によるものの、800〜1,000kmほど離れています(意外とインドは大きい)
>勉強漬けで屋敷に軟禁状態のサミュエルに、母を訪ねる余暇は与えられるわけもなく、またサミュエル自身も、母のいる茶園の住所を知らないのです
>なので、茶園の名前と母の名前をもとに、母を探して会わせてくれと願ったのですが、養父は一蹴した、と
>ここらへん、小説内に書くには冗長なので、養父の不寛容に集約させてもよいかもしれませんね
ああ、母の住所知らなかったんですね。
とはいえ説明されないとわからないので、「養父の不寛容」で解決が一番かと思います。
>なお、父・養母の表記に関しては、「お前の母はこの人だけだ」の「この人」がボウ夫人であることを明記するために養母と示したのですが、わかりにくいですかね
しかし、ここの(養母)をなくすと、誰のことだかわからなくなりますし要検討とします
文脈的には十分読み取れますけどね。
私の疑問も、養母より養父でないことでしたし。
むしろ「この人」が余計な気が。
父の台詞なので「この人(養母)」という表現になるのはわかりますが、ここを父の台詞にしなければ、無理に(養母)にせずに済むのでは、と。
例えば「養母の手前、一切、母の話を禁じた。」みたいな。
養母と書けば、ボウ夫人であることは間違いないですから。
>◇ ドゥラモンド家でのシーン
>ご指摘の箇所、両文とも改訂しました
>一文が長くなりがちなのは悪癖ですね 笑
>主語は文頭に抜き出して、文中に主語の交代が起きないように努める
>基本ですわ
小鹿さんほどの人でも悪文になることがあるというのが、文章の奥深さであり難しさだなあ、とw
>◇スズチカ・アオイについて
>梶野さんがスワロウを気に入ってくださるとは意外でしたが、なるほど、エンタメ性の観点からみると、初登場の台詞は作中一の大見得ですからね
>東洋からの留学生(渡り鳥)たるオリエンタル・スワロウ、日本語名は青井鈴劤くんです
いやあ、あのキャラは出色の出来ですよw
アオイは青井でしたか。まあ葵じゃないですよね。
>鈴劤は入学式早々に騒ぎを起こした咎で、サミュエルと一緒に校長室へ呼び出しを受けるのですが、校長先生はサミュエルに対して、鈴劤のチューター役になりなさいと言い付けます
>(校長先生はサミュエルの血筋のことは知らないながらも、同じアジア出身同士、気が合うかもしれないと考えたわけです)
>なので、サミュエルは監督生ではないものの、寮弟(ファッグ)のような直属の関係を鈴劤と結ぶことになり、ロビンとの決裂後はもっぱら鈴劤が友人となります
ああ、やっぱり膨大な設定があった。
そうじゃないかと思ってましたw
>2話時点にてサミュエルの心を掴んでいるのは、当然に鈴劤です 笑
>鈴劤は意外と機微に聡く、かつ傾聴力があるので、根底に陰気さと対人不審があるサミュエルには、気負わず話せる相手、ちょっとくらいなら本音を話してもいいかなと思える相手なのです
うむ、想像通りw
>ロビン? あの子は目の前の事象を自分の理解できる因果に押し込めて解釈するので、サミュエルのケア要員(=友人)にはなれなかったようですね
>これはお互いの性質に起因するので、大人にならないうちは、友情を築くことは難しいでしょう
まったく同感です。
>本作は二話構成で完結していますが、草稿段階にてはさらに、「三、オリエンタル・スワロウからの手紙」「四、ロビンへの手紙」「五、ロビンからの返信」と続きがあり、サミュエルとロビンとが新たな形にて友情を築きなおすまでを描く予定でした
>ですので、ご指摘いただいた鈴劤に対する設定や描写の少なさは、第3話以降を書くなかで補っていこうと考えています
おお!
実は私も感想で「アオイからの手紙を三話目に加えた構成の方がバランスがいいのでは」と書こうと思ったんですが、今の時点でもバランスは神がかってるし、蛇足になる可能性もあるかなあと書かなかったんですよ。やはりそういう構想があったんですね。
これは、読みたい!w
>それから、ロビン所有のノリタケ茶器の意匠(園亭、柳、燕)ですが、陶磁器はまとめて「china」と言われるけど、ノリタケは日本製なんだよなぁという、(サミュエル自身も含めての)東洋文化に対する解像度の低さを表したかったのが主で、絵柄はオマケなんです……!
穿ち過ぎたw
>燕はひとまず、スワロウたる鈴劤を思い出させるきっかけとして出すとして、
>柳は燕と合わせて描くことが好まれる(柳燕図)から、園亭は柳の側にあって違和感ないアイテムだから、程度の理由で、暗喩を込めたわけではありません 笑
>梶野さんの深読みは解釈としておもしろいので、どんどんしていただきたいです
>ただ、変に深読みさせては混乱を招くので、園亭はなくてもいいかなぁ
園亭はロビンの方でも出てたので、絶対暗喩だと思ってました!w
>ああ、シノワズリですが、私はそこにあまり詳しくないので、シノワズリっぽい雰囲気がお気に入りの絵を紹介して、お茶を濁しておきます
>カゾラッティ『赤いカーペットに横たわる少女』(1912年)
見てきました。
いい絵ですね。私も好みのやつです。
絵画鑑賞ってほとんどしないんですが、こういう趣味がセンスを育てるんだろうなあと。少しは芸術に触れておかねば。
>◇ルサンチマンとの戦い
>梶野さんがロビンとサミュエル、両方の立場を理解できると言ってくださったならば、梶野さんがターゲットに入るように書いた甲斐があったものです
>どうですかね、大人になるとルサンチマンの感じ具合は治まるものなのでしょうかね?
たまたまですが、見事にターゲット中心でしたねw
私の場合はなんでしょうね。「清貧」の精神を馬鹿みたいに信じてたというか。大学の社会学で「豊かさとは何か」みたいな講義を受けて、それを確信してしまった気がします。
生来の貧乏性にはルサンチマンが機能しないというか、物欲が生まれないまま大人になったというか。今も貧乏生活ですが、食うのと趣味に困らなければハッピーですし。その代わり食えなくなるとハングリーモードに入ります。生きる為なら恥とか気にしません。
なので、ルサンチマンは克服したというより元より無縁だったのかも。
すまんなサム。
>さてさて、以上です
>今回は短めで 笑
いえいえ。
今回も堪能させていただきましたw
>本作は(も?)、少し思想が全面に出ているので、説教臭くないかしらと気にしていましたが、全体を通して物語として楽しんで読んでいただけたようで、大変安心しました
いえいえ。本心から楽しめましたよ。
感想書くのが超楽でした。
>感想も、ほぼ褒め言葉が連なる様子に始めは拍子抜けし、忖度を疑い、逆に自身で改善点を洗い出す……という段階を踏みながら、
やはり、褒められるということは、創作意欲の肥やしになりますね、なんてにまにましながら、この文章を書いております
忖度とか、私には一番無縁な奴ですw
今回も壮絶なバトルを予想して身構えてましたが、いい意味で想像を裏切られました。私の趣味を想定して仕上げて来られたのなら完敗と言うしか、とか思ってましたから。
というか、その厳しい姿勢。
それがあるからこそ、ここまでの作品が書けるんだなあと改めて感じました。感想企画で他作品を読んでいるとなおのこと。
私も及ばずながら、見習いたいところです。
>それでは、長々お読みいただきありがとうございました
こちらこそ、ありがとうございました。
作品の続き、楽しみにしています。
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