第145話 ムズムズ

 朝の時間ってのは、どうも速足で過ぎていく。予定のある日の朝なんかは、それこそ一瞬で過ぎていっちまうもんだ。とくに女にとってはな。


「リディ、ご飯の前に髪を梳かしましょう。そんなボサボサで街に出たら笑われてしまうわ」

「んっ……」

「ちょっとエル! なんでここで服脱ぎ始めるのよ!?」

「おはようございます、クロエ。わたくし、朝のシャワーは欠かせませんの」

「そんなことしてたら遅れちゃうわよ!?」

「誰かー、あーしのハンドクリーム知らない? あれが無いと手があれちゃうんですけどー!」

「知らないわよ、使ったものはちゃんと片付けなさいと何度も言ったでしょ?」

「そうだけどー……。って、ベルベルはなんでまだパジャマなのさ?」

「リディの世話を焼いていたから……」


 オレは、ドタバタ聞こえる騒音をバックミュージックに、一人で優雅に朝食を取っていた。まるで戦場のような慌ただしさだな。女の身支度は時間がかかるのは知っているが、それは決してノロノロと準備をしているからではない。本当にやることが多いのだ。オレみたいに着替えて終わりというわけにはいかない。


「はぁー……」


 食事の最期にズズッと熱いお茶を啜ると、深い溜息が漏れる。少女たちの声で鳥のさえずりは聞こえないが、まぁ、優雅な朝と称してもいいだろう。オレはいい気分のまま椅子から立ち上がる。


「姉貴、飯美味かった」

「それはよかったわ。で? アベル、あんたは支度しなくていいの?」

「必要な物は、事前にギフトの中にしまってあるさ」


 今回は、初めてのレベル4ダンジョンの攻略だ。いつにも増して周到に準備したと言ってもよい。何度もチェックしたからな。足りない物などは無いはずだ。


 軽く胸を張って答えるオレに、姉貴は頭が痛いとばかりに右手で頭を押さえた。


「そうじゃなくて、身だしなみのことよ。ヒゲも剃り残しがあるし、頭には寝癖があるし……」

「べつにいいだろ。オレはべつに舞踏会に行くんじゃねぇんだ。行くのはダンジョンだぜ? 誰も気にしねぇよ」

「……それ、クロエたちに言ったら怒られるわよ?」


 オレにもそれくらいの分別はあるつもりだ。朝の短い時間で一生懸命身だしなみを整えてる少女たちに向かって、こんなことは言えない。


 まぁ、オレの本音としては、誰に見せるわけでもないのに、よくあんなに頑張って容姿を磨こうなどと思えるな。脱帽する思いだ。


 オレの考えなど、姉貴にはお見通しなのだろう。オレを半目で呆れたように見ていた。


「まぁ、いいわ。一回座りなさい。髪を梳いてあげるから」

「べつにいいって」

「アベル、あんたはあの子たちのリーダーなんでしょう? リーダーだったら、自分の身だしなみくらいちゃんと整えなさい。あんたがそんなんじゃあ、あの子たちまで軽く見られちゃうわよ?」

「ぐっ……」


 たしかに、そうかもしれねぇ。姉貴の言葉には一理も二理もあった。実力はさておき、だらしない格好をしている奴より、容姿が整った奴の方が優秀そうに見えるだろう。そいつの本当の実力なんて目に見えるもんじゃないからな。


 面倒だ。本当に面倒だが、気付いちまった以上、やらないわけにもいかねぇわな。


 オレは観念して椅子に座り直すと、姉貴が後ろにやってきて、どこから取り出したのか、櫛を使ってオレの髪の毛を梳かし始めた。


「あんたも元はいいんだから、身だしなみを整えることを覚えないと、クロエたちに嫌われちゃうわよ?」

「冒険者は、見てくれよりも実力の方が大事なんだよ」

「身だしなみもちゃんとしてて、それで実力もあるのが一番でしょ?」

「そりゃ……そうだが……」


 姉貴には口で勝てそうにねぇな。思えば昔っからそうだった。いつもマル姉ちゃんには口で負けてばっかりで……。


「ん?」


 マル姉ちゃんって誰だ?


「どうかしたの?」

「いや……」


 姉貴か? マル姉ちゃんって姉貴のことか?


 たしかに、姉貴の名前はマルティーヌだが……。なんで、オレは姉貴のことをマル姉ちゃんなんて呼んでるんだ?


 普通なら姉ちゃんだけでいいはずなんだが……。オレに他に姉なんて居ないから、呼び分ける必要も無いはず。


 姉貴のことを、姉ちゃんと呼んでいた記憶はあるんだが……。それから、なんだか姉ちゃんと呼ぶのが気恥ずかしくなって姉貴って呼び始めたっけか。


 姉ちゃんと呼ぶ前は、オレは姉貴をマル姉ちゃんと呼んでいたのだろうか?


 なんだか頭の奥がムズムズするような……?


 なにか、思い出すべきことだという自覚はあるのに、それを拒んでいるなにかがある気がするような……?


 なんだろう、吐き気がする。


「はい、できたわよ。次からは自分でやりなさいよ?」

「あぁ……」


 優雅な朝はどこへ行ってしまったのか、オレは今にも吐き出しそうになり、洗面所の方へと向かうのだった。


 そして、少女たちの戦場を目撃する。皆、忙しそうにパタパタと動き、広い洗面所は所狭しと埋まっていた。


「ぁ……。叔父さん? なんか顔が青いよ? 大丈夫?」

「あぁ。大丈夫……」


 ちょっとギクシャクしているが、オレはクロエと話すことができた。イザベルとの話があった次の日から、クロエと以前のようにとはいかないが、マシに話せるようになっていた。


 イザベルには感謝だが、いったいどんな魔法を使ったんだ? いざという時のためにイザベルに教えを乞うべきかもしれないな。



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