序章②
『魔物を呼ぶひみつの呪文を唱えてみない?』
遠のきかけた意識の片隅で、さっきリルが言っていた言葉が鮮やかによみがえった。
『まずは鏡を用意してね――』
リルの声に導かれるように、エマは赤い血だまりができた床に触れる。薄く伸びた血だまりには白銀の髪を振り乱して泣く子どものすがたが映っていた。
『中をじっとのぞきこんで――』
エマの頬を伝った涙がいくつも下方に落ちる。そのうち一粒が、とぷんと血だまりに吸い込まれて消えた。水滴を中心に波紋が広がる。雨が強く射したように大小の輪が次々生じ、今度は突然静かになった。
血だまりに映った自分のすがたに重なるようにして、若い男の背中が現れる。頬に触れた何かにきづいたようすで雫を指で拭い、男はエマを振り返った。
「おやおや、まあまあ」
教会に飾られた聖人の絵から抜け出したかのような、うつくしい顔立ちをした男だった。この国ではあまり見かけない黒髪に琥珀の眸をしている。緩やかに持ち上がった口元には蠱惑的な甘い微笑み。
「そんなところにいたのか、僕のお姫さま」
床一枚を隔てた向こう側から、彼は愉快そうに言葉を投げかけてくる。
いったい何が起きているのだろう。でも、確かに彼はエマを見つめ、エマに語りかけているようだ。
「おまえはだれ……?」
「それは貴女が決めるんだよ。ちいさくて愛らしいお姫さま」
ふしぎなことに、魔物につかまれていたはずの肩から痛みを感じない。あたりに充満した血の臭気もなくなっていた。それに視界が妙に明瞭だ。時空が切り離された別の場所で、エマと男だけが会話をしているみたいだ。
「わたしが決める……?」
「そう」
男は顎を引き、エマに一歩近づいた。
「貴女が僕の名を呼ぶ」
かつんと音がこだまして、足元に波紋がひとつ広がる。
「『はい』と僕がこたえる」
暗闇の中で琥珀の眸が獣のようにひかった。
エマの背筋に悪寒に似た震えが走る。目をそらしたいのに、そらせない。
「あとは姫さまの思いのままに。何がほしい? なんでも叶えてあげる」
「わ、わたしはおまえの名前なんか知らない……」
「嘘だな」
エマのまえにかがむと、彼は鼻歌でも歌いだしそうな声で断じた。
「知ってるよ。ほんとうは知ってるのに、知らないふりをしているだけ。そうでしょ?」
ちがうと首を振ろうとして、エマは愕然とする。
男の言うとおり、エマはなぜか男のなまえを知っている。誰に教えられたわけでもないのに、この男が何者なのかをエマはたぶんはじめから知っていた。
「……」
口にしようとして、ためらった。
何か決定的なことが起こる予感がしてこわい。
今なら引き返せると、エマに残ったわずかな理性が言う。
今ならまだ。でも――。
「……エ…」
「うん、なに?」
「……『クロエ』」
こんな暗い場所にひとり置いていかれるのはこわくて、すごくこわくてたまらなかったから、転がるように血だまりの向こうに手を伸ばした。
「クロエ! たすけてっ!」
直後、エマの肩をつかんでいた赤黒い塊が炎になって燃え上がった。
音階がおかしくなったチェンバロのような悲鳴が上がる。一瞬で燃え尽くされたそれは灰に変わり、四方に散らばった。
残った下半分の塊がすばやく動いて、薔薇の茂みに飛び込む。追うように走った銀の火花がばちばちと宙で弾け、薔薇の茂みでも火炎が噴き上がった。だが、焼け落ちた薔薇の残骸に赤黒い塊はいない。どこかへ逃げたようだ。
「意外とすばしっこいな」
頭上で息をつく気配があり、床にへたりこんでいるエマのまえに長身の影が射した。黒髪に琥珀の眸。口元にたたえられた甘い笑みには見覚えがある。
「『クロエ』……?」
「はい、エマ」
血だまりの向こうにいたはずの男は、ひょいとエマのまえにかがむと、屈託なく微笑んだ。
そのすがたは獣でも、女でも、老人でもなく――。
「会いたかったよ、僕のお姫さま。呼んでくれてうれしいな?」
◆◇
十一年後、オランディア王国北東部。
「……さま…姫さま」
雪がちらつくなか、列車はリルカの街に差し掛かろうとしていた。
まどろみの中にいた少女を男が起こす。
んん、と瞬きをする少女は十六、七歳か。
夜の底でひかりが瞬くような深青の眸がまず目を惹く。下ろした白銀の髪は後ろで編み込んで髪飾りをつけ、精緻なレースを使った白のドレスに、裾のほうに刺繍が入ったグレーのフードつきのローブをかけている。
となりに座る男は二十代半ばほど。異国情緒がある黒髪に琥珀の眸、甘やかな美貌には香りのつよい花のような艶やかさがある。男は糊の張ったシャツに漆黒の三つ揃えを着ていた。
兄妹か、あるいはどこかの令嬢とおつきの男か。
一見すると、判別ができない奇妙なふたり組である。
「おめざめですか、姫さま」
長い足を組み直し、男が惜しみなく微笑んだ。その手には一冊の本がおさまっている。移動中、うたた寝をしていた少女に対して、男のほうは暇つぶしに本を読んでいたようだ。
ちいさくあくびをして、少女がこたえた。
「すっごくいやな夢を見た。おまえの夢だ」
「光栄だなあ。次は肩でなく胸をお貸ししますよ。なんなら膝でも」
「結構だ。おまえの膝はごつごつしていて体温も低いし」
「はいはい。僕の姫さまは相変わらずつれなくて、悪口ばかりでかわいいな」
肩をすくめ、男は本を閉じる。少女にやられっぱなしだが、まるで意に介した風ではない。むしろ楽しげですらある。少女のほうも、男とのやりとりはもう忘れたようすで、列車の窓からなだらかに広がる海浜を見つめた。
「昔は眠るときも僕にくっついて離れない姫さまだったのにね?」
「……いつの話をしているんだ?」
「貴女が僕の膝丈くらいちいさかった頃だよ」
「覚えてない」
「またまた。ほんとうは覚えているくせにさ」
「覚えてないってば」
会話の応酬をするあいだも、少女は窓から目を離さない。海を見つめる横顔は精緻に整った人形のようだが、頬はわずかに紅潮していた。「海がすきなの?」と男が訊くと、「べつに」と首を振る。でも、すきそうだ。彼女はすきなものを素直にすきと言わない。言えない。そういう性格をしている。
海面すれすれを鳥の群れが飛んでいた。
白く力強い翼に少女は手を伸ばす。伸ばす。伸ばす。
届くまえに窓ガラスに指があたった。
ふん、と唇を尖らせ、少女は足元の荷物を持ち上げる。
海岸線が途切れ、列車が徐々に速度を落とす。市街地に入ったのだ。
「降りるぞ、クロエ」
「はい、エマ」
よどみない足取りで扉に向かった少女を男が追いかける。
男はクロエ。千年ものあいだ、ひとの世を渡る魔物である。
少女はエマ。《オランディアの聖女》の異名を持つ当代随一の退魔師である。
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