【増量試し読み】聖女と悪魔の終身契約

水守糸子/富士見L文庫

序章①

「エマ」

 リルの声は鈴の音に似ている。

 教会で司祭さまが祈祷のときに使う、ちいさな二連の鈴だ。


「エマ。エマ」

 だいすきな声。いつもそばにいた声。

 ずっと聴いていたい。


「エーマ。エマってば!」


 すこし乱暴に肩を揺さぶられて、エマはぱっと目をひらく。

 自分とうりふたつの少女の顔が視界に飛び込んできた。


「もう、やっと起きた!」


 こちらをのぞきこんだリルはぷうと頬をふくらませている。


「あれ? わたし寝てた?」

「ええ、わたしの肩に頭をのせて、それはもうぐっすりと」


 なだらかな肩をすくめ、呆れた風にリルが息をつく。

 言われてみれば、首のあたりが寝違えたみたいにすこし強張っている。ふたりでいつものように離宮の物置部屋で遊んでいるうちに疲れて眠ってしまっていたらしい。


 リルは六歳になるエマの双子の妹だ。

 顔はうりふたつだが、なんにでも好奇心旺盛なリルと、常にひとの背に隠れがちなエマは双子とは思えないほどちがう。ただ、ふしぎと気は合って、王都から離れた丘陵に立つ白亜離宮と呼ばれる宮殿で、ふたりはいつだって一緒に遊んでいた。


 ふたりの母親であるマリアはオランディア王国の王妃だったが、出産後は体調を崩し、エマとリルは王女でありながら王宮での暮らしをほとんど経験することなく、母とともに離宮に移り住んだ。


「ね、エマ?」


 カンテラに集まるちいさな蛾を手で追い払いつつ、リルは深青の眸を意味深に細めた。口元ににんまりと笑みをのせている。経験上知っているけど、こういうときのリルはろくなことを言わない。


「魔物を呼ぶひみつの呪文を唱えてみない?」


 案の定、物騒なことを言い出したリルに、「えぇ……?」とエマは眉根を寄せた。


 オランディアの子どもたちは、幼い頃から寝物語代わりに魔物にまつわる伝説を多く聞かされる。

 いわく彼らは獣のすがたをしており、夜になると子どもを狩りに出かけるとか。いやいや、うつくしい女のすがたをしていて、男をたちまち魅了するとか。あるいは賢者然とした老人で、ひとの願いを叶える代わりに魂を奪うとか。たくさん話がありすぎて、逆にほんとうはどんなすがたをしているのか、わからなくなるけど、こわいことにはちがいない。


「やだよ。こわいよ……。もしほんとうに現れたらどうするの?」

「現れるわけないじゃない。エマったらこわがりなんだもの」


 リルはつまらなそうに唇を尖らせた。エマからすると、リルがどうして自信満々に

「現れない」と言いきれるのかが謎だ。この妹は昔から根拠のない自信がなぜかある。


「……方法だけ聞く。どうやるの?」

「簡単よ」


 ぱっと笑顔になり、リルはエマに耳打ちしてきた。糖蜜に似た甘い香りがエマの鼻をくすぐる。


「まずは鏡を用意してね――」


 物置部屋の壁に立てかけられた、ふたりの身長ほどはある古い鏡を見つけ、リルがエマを鏡のまえへと引っ張る。曇りがちの暗い鏡面に、白銀の髪に深青の眸をしたふたりの少女が映った。


「中をじっとのぞきこんで――」


 リルの手が鏡面をなぞるように動く。


「そして、そこに現れたもののなまえを呼ぶのよ」

「えっ、どうやって?」


 そもそも呪文じゃないじゃない、と思いつつ、エマは尋ねた。鏡の中に急に魔物が現れるのもこわいが、エマは退魔師でも魔女でもないし、すぐに魔物のなまえがわかるはずがない。


「んー、確かに。どうやるんだろう?」


 言われてきづいたらしく、リルは首をひねった。

 なんだ、やっぱりいつものつくりばなしだった、とすこし安心して、「もう部屋に戻ろう?」とエマは妹の手を引っ張る。もうすぐお昼寝の時間だ。エマがきちんと寝台に戻っていないと、エマ付きの侍女が離宮中を探し回るはめになる。


「まだ遊びたーい」


 リルは駄々をこねたが、ひとりで置いて行かれるのはいやだったらしく、存外おとなしくエマについてきた。起きたらふたりでおやつを食べよう、と約束する。寝台の脇机に隠してある、菫の花の砂糖漬けが入った菓子器(ボンボニエール)。お菓子は三つあるからふたつはリルにあげよう。エマはおねえさんだし、ちょっとだけがまん。


 微笑み、エマはリルと手をつなぎあう。


 

 けれど、次に目を覚ましたとき、となりで手をつないでいたはずの妹はいなくなっていた。


「リル……?」


 リルがエマを置いてどこかに行くことはあまりないので、奇妙に思う。冷えてしまった手を握り込み、エマは昼寝をしていた寝台から下りた。


「リル、どこー?」


 扉をあけて、午後の薄くなりはじめた陽が射す回廊をひとり歩く。この時間、いつもなら夕食の準備や部屋の掃除で使用人たちは回廊を行き交っているのに、今日はひとの気配がまるでない。丘陵らしいごうごうと唸る風だけが離宮の窓を叩いている。


「おかあさま?」


 体調がよいときは、ときどき侍女を連れて中庭を歩いている母のすがたもなかった。それにどこからか嗅ぎ慣れないにおいがする。なんだろう。中庭の錆びた鉄の門扉がこんなにおいを発していた気がする。神経に障るいやなにおいだ。


 においは回廊を進むごとにどんどん強くなっていく。

 自分たちがさっきまで遊んでいた物置部屋の扉がなぜかひらきっぱなしのまま、風で揺れていた。出て行くときに確かに閉めたはずなのに、まさかリルがひとりで遊びに行ったのだろうか。


「リル? いるの……?」


 半開きの扉から部屋の中をおそるおそるのぞきこむと、


 ――ぐしゃっ!


 何かが潰れるような音が爆ぜて、エマの目のまえに赤黒い塊が落ちた。

 思わず立ち止まったエマの爪先に赤い飛沫がかかる。


(……これ、血?)


 びくっとして顔を上げると、薄暗がりの中、母のマリアと、灰色のローブを着た男が鏡のまえに立っているのが見えた。

 男のことは知っている。数日前に離宮にやってきたオランディア聖庁所属の退魔師だ。


 離宮へは旅の途中で偶然立ち寄ったらしい。片目に眼帯をした男で、これまでたくさんの魔物を祓ってきたと言っていた。「あのひとかっこいいね」とエマが浮き立つと、「ええー、エマって趣味わるい……」とリルが胡乱げな顔をしていたっけ。


「王女殿下?」


 退魔師の男は驚いた風に目をみひらき、エマを見つめた。

 銀の杭を持つ彼の手がエマのほうへと伸ばされ、しかし肩をつかむまえに手首ごと断ち切れて床に落下する。直後、左手、左脚、右脚もぜんぶばらばらに落ちた。まるで人形の関節の糸が見えない力でいっせいに断ち切られたかのようだ。


 声にならない悲鳴がエマの咽喉を震わせる。


「エマ!」


 マリアが険しい顔で叫ぶ。


「こちらに来てはだめっ!」


 その下腹部から鮮血が霧のように噴き上がる。


 

「はあ……はあ……はあ……」


 自分の呼吸の音がうるさい。


「はあ……ううっ……」


 息が上がり、ばくばくと心臓が暴れ馬のように打ち鳴った。


「……リル……リル、どこお……?」


 おそろしいものから逃げながら、人気のない回廊を妹を探して走る。

 こんなに長く走り続けたことがエマにはなかった。息ができない。足がもつれる。


 そのとき、後ろから何者かに足首をつかまれ、エマは転倒した。大理石の床に思いきり身体を打ちつける。床に爪を立てようとしたが、赤い線を引き、ずるずると後ろに引っ張られた。


「やだあっ!」


 かぶりを振り、足をばたつかせる。目も鼻も口もないおぞましい塊がエマの左足首をつかんでいた。涙を滲ませ、必死に身をよじりながら、エマは床を這う塊を見つめる。


 これはいったいなんなのだろう。

 獣ではないし、うつくしい女でも、賢者然とした老人のすがたでもない。聞かされていた話とはぜんぜんちがう。でも、エマにはわかった。


 これは魔物だ。

 これが魔物だ。


「神さま……」


 がくがくと身を震わせ、エマは手を組み合わせる。


「おねがいです、わたしたちをたすけて……おねがい……おねがい……」


 いつも礼拝で使うロザリオは寝室に置いてきてしまっていた。組んだ手に額をくっつけて祈っていると、左足首の拘束がわずかに緩んだ。なんとか身体を起こそうとすれば、今度は肩をつかまれて引き倒される。誰の血なのかわからないものがびしゃびしゃと頭上から降った。熱くて、ひどいにおいだ。


「だれか……」


 しゃくり上げ、エマは虚空に向かって手を伸ばす。

 神さまじゃなくても、誰でもいい。誰でもいいから――

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