一章 聖女の来訪とリルカの魔獣 ①
一
クロエはエマのことをよく嘘吐きだと言う。
腹立たしいけれど、当たってはいる。エマは嘘つきだ。しかも平然と嘘をつく。
白銀の雪が舞うなか、エマが馬車から降り立つと、教会の広場に集まっていたひとびとからは歓声が上がった。エマをひと目見ようと押し合いへし合いして警官に怒られる者、エマを目に映すなり滂沱の涙を流す者、地に伏して祈りの言葉をただ繰り返す者。
反応はまちまちだが、一貫して彼らの目によぎるのは熱っぽい信仰心だ。
「ようこそ、リルカへ。お待ちしておりました、《オランディアの聖女》さま」
エマを迎えたのは四十過ぎの男で、ノークスと名乗った。リルカの市長だ。
数か月前から魔獣の襲撃に悩まされているリルカの街に、エマは退魔のために呼ばれた。
「《オランディアの聖女》が来たなら、もう安心ね」
「これまでも無傷で魔物を祓ってきたんだろう?」
「聖女さまにはとくべつな加護があるんですって。ちかづくと、魔物のほうが勝手に燃え上がって滅びるのよ」
そこかしこで交わされる囁き声の中を、エマは背筋を張って歩く。雑音など何も聞こえないかのような足取りは超然としていて、ひるがえる白銀の髪はひかりの帯をまとっている。まるで宗教画から抜け出た聖女そのものだ。
聖堂には、正面の巨大な薔薇窓からひかりが射している。堂内を進み、白百合が生けられた祭壇のまえに立つと、エマは緩やかにドレスを広げてかがんだ。背後で聖堂の扉が閉められる。集まっていたひとびとの喧騒が遮断され、水を打つような静寂が落ちた。
「主なる神さま――」
手を組み合わせ、エマは祈りの言葉を唱える。
エマの声は高くも低くもなく、教会の鐘のようにふしぎとよく通る。
あ、と壁に並んでいた若い助祭が驚いて声を上げた。
「花が……」
祭壇に飾ってあった百合の蕾がゆっくりひらき、甘い香りがこぼれだす。
微かなどよめきが聖堂を包む中、エマは祈祷を終えた。
「神はわたしたちとともに在ります」
ドレスの裾をふわりと揺らして立ち上がると、エマは誰ともなく告げた。
落ち着き払った声が少女らしい容貌とちぐはぐで、それなのに、すべてを含めて《オランディアの聖女》なのだと思わせる存在感が彼女にはある。オランディアにおいて、退魔師は聖職者である。だからかもしれない。
「裁きはくだり、悪しき魔獣は必ず祓われるでしょう」
息をのんで聞き入る司教たちの横で、エマの相棒だけが声を出さずにわらっていた。
「やりすぎだ!」
部屋のドアを閉めるなりエマは言った。
ノークスが用意した部屋は、天蓋つきの豪奢な寝台が鎮座し、調度も舶来の一級品がそろえられている。厚意はありがたいのだが、この部屋は一日だけでよいな、と思った。落ち着かない。
「なにが?」
エマがローブを脱ぐのを手伝いながら、クロエが尋ねた。皺にならないようハンガーに吊るして、ブラシをかける。
「百合の花」
ノークスが用意したのか、窓辺にも一輪の白百合が飾られていた。この時期に咲いているということは、温室で育てている高級品だろう。
花瓶から抜いたそれをクロエに突きつけると、「おや、くれるの?」とわざとずれたことを言った。それから、視線を冷たくするエマに観念した風に肩をすくめる。
ブラシを置いたクロエがぱちんと指を鳴らすと、閉じていた百合の花がみるみるひらき、芳香を放った。簡易な魔術なら、クロエは息をするように使う。
「僕のかわいい姫さまがより神々しく見えるように、ちょっと演出しただけじゃない?」
「若い助祭がきづいて、ぽかんとしていただろう」
「オランディアの聖女伝説に一文が加わっただけだよ。いまさら、いまさら」
手から抜き取った白百合を、クロエはエマの髪に飾った。かわいーい、と軽薄な賛辞を寄越す。黙っているときは気品や教養を感じさせないでもないけれど、クロエはひとたび口をひらけば、ろくなことを言わない。
「いいか。いつも言っているけど、余計なことは何もするな」
「余計なことって? たとえば?」
「おまえの場合、荷物持ち以外の何もかもだ」
「それだと何もできなくなっちゃわない?」
つまらなそうにつぶやくクロエを軽く睨むと、エマは髪に挿された花を花瓶に戻した。ついでに髪飾りも取って、長椅子のうえでごろんと芋虫のように丸まる。聖堂で見せた超然としたすがたはもうどこにもない。ノークスたちがその場にいれば、聖女さまはどうされたのだろう?とあわてふためいただろうが、クロエは慣れたもので、濡らしたハンカチをエマに差し出した。
「相変わらず、ひよわな姫さまだなあ」
「ひよわじゃない」
「ひよわでしょう。言い逃れできないくらいひよわでしょう?」
「うるさい」
額に触れようとしたクロエの手をぺしりと払い、エマはハンカチを受け取った。
熱で頭がぼうっとして、身体が鉛のように重い。
ただの風邪や疲れならある意味よいのだが、エマの場合、これが平常なのだ。ふつうにいつも、体力が尽きかけている。エマはよく無表情で無愛想だといわれる。超然としていると勘違いされることもある。もともとの性格もあるけれど、ひよわのせいでもある。泣いたりわらったりするのは結構体力がいるのだ。ひよわでもあかるいひとは、きっともとが爆発的に陽気にちがいない。
数か月前から出没するようになった魔獣を祓うため、エマは王都からリルカの街にやってきた。
オランディア聖庁に上がった報告によると、最初の犠牲者は街の外れに住む十六歳の薬師の少女、サラ=オーガストンだったという。彼女は街の共同墓地で、首を切り裂かれた無残なすがたで発見された。そばには獣の毛が落ちており、数日後にも再び同様の死体が見つかったため、野獣のしわざではないかと考えられたが、ほかに痕跡が見つけられないまま、三人目の犠牲者を出したあと、つい先日、夜間に街の巡回をしていた警官が襲われた。
一緒に回っていた警官は、夜闇から飛び出した黒い獣らしきものを見たと証言した。それは銃で撃たれてもびくともせず、ひとりを噛み殺したあと、暗がりにまた消えたのだという。襲撃場所にはやはり数本の獣の毛が残されており、街の司祭が聖水につけると、ぶくぶくと泡を立てて濁った。魔のものを示す証だ。
すぐにリルカ市長はオランディア聖庁に専門の聖職者――退魔師の派遣を要請した。こうして遣わされたのが「オランディアの聖女」ことエマと相棒のクロエである。ちなみに聖庁から連絡が入ったとき、エマはめずらしくちょっと元気で、唯一の友人とお茶をしていた。今はご覧のとおりである。
この仕事がすきな人間なんてあまりいない気がするけれど、給金をもらっている以上、依頼が入れば受けざるを得ない。それにエマが追う「白亜離宮の魔物」の情報は、聖庁にいたほうが入りやすい。
「クロエ」
長椅子に身を預けたまま、エマはクロエを呼んだ。
陶器が触れ合う音がしている。お茶を淹れているのかもしれない。
「街に入って何か感じたか?」
「んー、とくに何もー?」
「聖堂でも?」
「そうだね」
湯が注がれる音のあと、薬草の澄んだ香りがふわりと漂ってくる。
クロエは旅に出るときにも十数種類の薬草を携帯していて、エマの体調にあわせて薬草茶を調合する。今は解熱作用があるものを淹れているのだろう。こういうものこそ簡易な魔術を使えばいいのに、クロエいわく、こういうものだからこそ手順を踏んで行うほうがよいらしい。そのこだわりがエマにはよくわからない。とりあえず、クロエが淹れるお茶はおいしい。
「蜂蜜はひと匙?」
「ふた匙」
とろりと黄金の蜜を溶かした薬草茶を、身を起こして受け取る。
息を吹きかけると、数種の薬草の香りが鼻をくすぐった。一口飲む。
「どうです?」
「……ふつう」
悪態をつくと、「つまりおいしいってことだね」とにやにやされた。
「うぬぼれるな。ふつうだ、ふつう」
「うんうん」
「うれしそうな顔をするな」
もう一口飲むと、カップを膝のうえに下ろして、エマは窓からリルカの街を見下ろした。
家々のあかりが夜闇に無数に灯っている。魔獣が四人もの人間を襲撃したなんて嘘のような静けさだ。エマが来たことで、ノークスをはじめとした街のひとびとは安心したようだが、エマだけはすこしも安心していない。街のどこかにひそんでいる魔獣を見つけ出さなくては襲撃がやまないとわかっているからだ。
ほんとうはああいう見世物みたいな祈祷を皆のまえでやりたくはないのだけど、オランディア聖庁を統べる聖爵(せいしゃく)ナターリエは、街に入ったときの祈祷と、街から去るときの祈祷だけは退魔師たちに必ずやらせる。ひとびとから恐怖や不安を取り除くためだという。
――もう大丈夫。神はわたしたちとともに在る。悪しき魔物は必ず祓われる。
そういう自分でも信じていないことをもっともらしく言うのは、うんざりとする。けれど、もう何年も続けているので、言葉は勝手によどみなく出てくる。祭壇のまえで心にもない言葉を口にするエマを、クロエはよく嘘吐きだとわらった。
「あしたはどうするの、姫さま?」
「まずは犠牲者の確認だな。あとでノークスに市警に取り次ぐよう伝えておいて」
「着いて早々、よく働くねえ」
「いつかこの仕事で稼いだお金で、自分の家を買うのが夢だから」
「今もあるじゃない。王都に」
「あれはひとに借りているものだから、わたしのじゃない」
自分の力で手に入れた家というのが大事なのだ。間取りも調度も好きにできる。
どんな家を買うかはもう決めていた。おおきな家。日当たりのいい家だ。
空にしたカップをテーブルに置くと、エマは再び長椅子に横になった。
となりに腰掛けたクロエが、乱れた髪を軽く梳いてくる。うすく目をひらくと、エマは身体をすこし動かし、男の膝のうえに頭をのせた。「ごつごつして嫌なんじゃなかったの?」とからかうようにわらわれる。きらいだ。でも、ないよりはいい。言葉にするのが億劫で、まどろみに身をゆだねて瞼を閉じた。
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