第34話 金魚の間


 金魚の間に入れられて、いつでも逃げられるように高さの確認をしたジアンが最初にしたのはとにかく窓を開ける事だった。

 何か変な事をされたら、いつでも叫び声が出せるように……という理由もある。


 金魚の間の窓からは、離れに向かって伸びている無駄に長い廊下を優雅に歩いているチュンユと、口元に赤い布を巻いた下女の姿が見える。

 鳥安楼の下女は顔に傷のあるものや、顔立ちが残念な者も多いため、客に醜いものをできるだけ見せないようにしているらしい。

 チュンユが出禁にしたあの老人は、下女の赤い布をはぎ取って無理やり顔を見ようとしたり、チュンユが舞を踊っている最中に使う香炉の香りが気に入らないと文句を言ったり……とにかく酷い行いをした。

 チュンユは目や耳だけでなく、香りでも客を楽しませようと季節や曲に合わせて自ら選んでいる。


 これから王とあの問題だらけの王弟候補の前で舞うのだろうと思いながら、ジアンは視線を窓の外からフィジェに向けた。


「————……それで、話とはなんです? フィジェ様」

「フィジェでいい。急に敬語とかやめろ、気持ち悪い」

「そうはいきません。一応、王族の方なので」


(おもいっきり蹴ったり、殴ったりしてしまったけども……)


「何も気にすることはないのに……俺とお前の仲じゃないか」

「どういう仲ですか!? 誤解されるようなことを言わないでください!」

「わかった。わかった。とりあえず、そこに座れ」



 言われた通り窓の前に座ると、すぐ横に金魚鉢が置かれていた。

 フィジェは懐から小さな包みを取り出すと、中に入っていた麩を砕いたものをその金魚鉢の中に入れる。


「俺は別に、王弟になりたいとは思っていない。ただ、あの二人のどちらかが王弟の座に就くことだけは許せない」


 赤い金魚はパクパクと口を動かしながら、水面に浮かんだ麩を食べる。


「考えたくもないが、あんな奴らが王弟になって、兄上に本当に王子が生まれず、王位を継ぐことになったらと考えただけで虫唾が走る。なんとしてでもあの二人を王弟にはさせたくない。そう思ってわざわざ華陽に戻ってきたんだ」


 フィジェは元々、幼い頃は華陽に住んでいた。

 だが、ムンジェやリョクジェが問題を起こしてばかりいるこの華陽は居心地が悪い。

 父が亡くなってから、フィジェは放浪の旅に出ていた。

 そこで出会った身寄りのない子供や、山賊に襲われて困っている村の人たちを助けたり、震災があれば復興の手伝いをしたり……華陽では母親の身分の低いと他の王族や高官貴族たちに蔑まれてきたからこそ、放浪の旅はとても充実しているものであった。


 だが、どこにいても噂は耳に入る。

 西派と東派の高官たちが、王弟を決めるべきだと進言したこと。

 ムンジェかリョクジェかで、たまたま立ち寄った酒屋で官吏たちがもめているのを見ている。


「確かに、あのお二方は相当問題があるようだけど……でも、どうしてそこまで嫌っているんですか? 同じ王族なのに……」

「俺もガキの頃は、そう思っていたよ。兄上もあの二人も、歳がほとんど変わらないし、一緒に育ってきたからな。家族だと思っていた……でも————」


 フィジェは長い前髪を上にあげ、額をジアンに見せる。

 長いまつ毛で縁取られた、奥二重だが横に幅の広い大きな目。

 瞳の色が左右で違う。

 左は色素の薄い灰色がかった薄茶色をしていて、凛々しい眉の上には額から斜めに傷跡があった。


「兄上が王座に上がって、数年経った頃だ。兄上が剣術の稽古に姿を見せる日がなくなると、それまで兄上に媚びへつらっていたあいつらは、一番小さかった俺を標的に嫌がらせを始めた」


 額の傷は、その時受けたものである。

 小さいのによく食べるのが可愛いと、王族の姉たちはいつもフィジェを可愛がっていた。

 それが気に食わなかったのだろう。


 最初は、単なる嫌がらせだった。

 写本に落書きをされたり、履物を隠されたり……だが、フィジェが剣術の師匠であるジアンの父にその才能を見出されたことも重なって、リョクジェとムンジェは、誰も見ていないところで結託し、二人でフィジェの体を痛めつけた。

 誰かが周りにいるときは、仲の良い従兄弟同士のふりをして……


 フィジェの額に大きな傷ができて初めて、大人たちは事態に気がついた。

 だが、加害者である二人の母親は怪我をするようなフィジェが悪いのだと突っぱねた。

 生意気な態度をとったのだろうと。

 二人を怒らせる等な行動をしたのだろうと。


 悔しかったフィジェは、剣術に熱心に励み、十歳の時、剣術大会でムンジェ、リョクジェだけでなく、なんと大人まで負かして優勝。

 それから二人はフィジェに嫌がらせをすることはなくなった。


 その後、父親が亡くなるとフィジェは放浪の旅に出る。


 そこで聞かされた、王族たちの起こした事件の数々。

 特にひどいのはやはりあの二人。

 リョクジェは地方で豪遊する度に現地女性に無理やり手を出し、ムンジェはうまい話があると持ちかけて、庶民から金や土地をだまし取る。

 やはり性根は変わらないのだと思っていた時、王弟の話を耳にした。


「あんな奴らが王弟だなんて、この国が滅ぶ。兄上はあいつらが改心すると信じているようだが、そんなことは絶対にない。だから、ジアンに協力してもらいたい」

「わ……私に?」

「そうだ。チュンユの話じゃ、お前の双子の兄であるアン官吏は、科挙を首席で合格した秀才。ジアンも同じく頭が良く、なおかつ、なんでも見通せる目を持っていると聞いた」


(チュンユ……余計なことを!!)


「俺も似たようなものを持っている。そういう特殊な能力を持っている人間は、見たらわかるんだ。纏っている空気の色が違うからな。ジアンのは綺麗で、とても特殊だからすぐにわかる」


 フィジェが合簡でジアンと互角に渡り合えたのは、その特殊な能力のおかげだった。

 良いものが纏っている空気の色が見えるのだから、一番良ものを引けばいい。


「あの二人からは、淀んだ汚い色の空気しか見えない。あんなのが王弟になるなんて馬鹿げてる。阻止さえできれば、王弟になる気は無かったが……俺は決めたぞ————」


 フィジェはジアンの頬を指先で優しく撫でたあと、そっと顎に手を添える。


「————俺はジアンと結婚するために、王弟になる」


 吸い込まれるような、フィジェの不思議な瞳から目が離せず、ジアンの思考が停止する。

 なぜか頭がぼーっとする。


 いつの間にか、触れそうなほど近くに来た鼻先。

 互いの唇が重なるまで、あとわずか————



「きゃあああああああああああああああああ!!!」



 ————というところで、女の悲鳴が聞こえた。


 その悲鳴に驚いて、二人並んで窓の外を見る。

 長い廊下の向こう————離れの方から聞こえた悲鳴。


 何事かと、ぞろぞろ人が集まって行く。

 その時、夜空では星が一つ流れた。


 ジアンとフィジェも、金魚の間を出て離れの方へ向かう。

 王たちに何かあったのかと、離れの襖を開けるとそこには複数箇所刺され、血まみれで倒れているチュンユ。


 そして————


「兄上、一体何が……————えっ……?」


 ————血まみれの短刀を手に持った王が立ち尽くしていた。

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