第33話 名前


「ジアン……?」


 ジアンは厠に行くと言って席を外すと、廊下でこちらへ向かうチュンユとすれ違った。


「……あれ? どうして今日も男装しているの?」

「あ、いや……今日はその……事情があって……————って、なんで私だってわかったの?」

「わかるわよ。あのジソンくんが妓楼になんてくるわけないし……それに、数日前に会ったばかりじゃない」

「それは……そうね」


(王様の命令じゃない限り、ジソンがこんなに騒がしいところにくるわけがないわ……)


 順風耳を持つジソンにとって、妓楼なんてうるさすぎて耐えられない。

 今だってジアンの耳にも各部屋から酔っ払いの笑い声や遊女たちの奏でる楽器の音、歌があちらこちらから聞こえているのだから……


「それより、実は近いうちにジアンに会いに行こうと思っていたのよ」

「え? 私に?」

「ジアンがあのクソジジイを倒してくれたおかげでね、あれから来なくなったの。それまで毎日懲りずに通ってたんだけどね」


 チュンユはあの老人が相当嫌いなようで、言葉遣いが汚くなっているが、とても晴れやかな笑顔である。


「もう二度と近づかないようにって、誓約書も書かせたわ」


 チュンユは嬉しそうにその誓約書を袖口から出して見せた。


「え、持ち歩いてるの?」

「うん。もしまた来た時の保険よ。念のためね」


 その誓約書には、約束を破って鳥安楼にまた来た場合、全財産と持ち家と土地を全て売り払うとまで書かれている。

 一番下に書かれた名前はペク賭博ドバク

 まさにあの老人にふさわしい名前だった。


「すごい名前……でも、家も土地も持ってるってことは、どこかの貴族だったの? 名前も苗字もペクだし……白家といえば、亡くなった大王王妃様と同じじゃない?」

「そういえばそうね……私も詳しくは知らないけど、白家と言っても色々あるでしょう? 確か、大王王妃様の叔父さんだったかしら? 先々代の王様の時に起きた謀反に関わっていたとかで、国外追放になったって有名な話もあるし……」

「ああ、そういえばそんな話があったわね」


 それはまだ先々代の王————つまり、現在の王の祖父がこの国を治めていた時代。

 その王妃であった後の大王王妃ペク陽女ヤンニョとの間に、まだ嫡男が生まれていなかった頃。

 他国との戦によって王が負傷し、死亡したという噂が流れ、その気に乗じて謀反が起こった。

 しかし、確かに王は負傷し、とこに伏せってはいたが死んではいない。

 謀反はあっという間に失敗に終わったが、その謀反に白家の人間が関わっているということで問題になった。

 当時ヤンニョも王妃の座を追われる可能性があったのだが、妊娠が発覚。

 その子供が現王であるヨン馨才ヒョンジェの父親である。


「賎民から平民に上がると苗字をつけれるでしょう? それで白を選んだ人だっていると思うわ。なんて言ったって、あの大王王妃様に憧れている人はたくさんいるんだから」

「そうね、確かに、同じ安家でも全然関係ない家とかあるし……」


 流石に龍家は王族と決まっているが、それ以外は自由だ。

 大王王妃は先々代から現王の成人まで長いことこの幻栄国を支えて来た女傑。

 特に年寄りたちからは人気が高い。

 若かりし頃の先々代の王と共に戦場に出向いた事だってある。

 また、ジアンが贔屓にしている書店の店主は、幼い頃に先々代の王と大王大妃に偶然助けられた事があるらしい。

「お二人のあの勇ましい光景は、忘れられない」と何度も語っていた。


「あ、そういえば、あの方とはその後どうなったの?」

「あの方……?」

「家まで送ってくださったんでしょう? どうなの? 口付けくらいはした?」

「……は!? 急に何言ってるの!? チュンユ」

「してないの? じゃぁ何、手を握ったとか……?」

「いやいやいやいやいや!! 変なこと言わないでよ!! 何もないから!!」


 ジアンは全力で否定したが、チュンユはニヤニヤしている。


「————求婚したが、強烈な蹴りとかかと落としを食らったぞ」

「ひやああっ!?」


 いつの間にか背後にいたフィジェに後ろから抱きつかれるジアン。

 チュンユは扇子でだらしなくにやけてしまう口元を隠しながら尋ねる。


「よかったわね、ジアン。フィジェ様、鳥安楼の遊女から人気なのよ?」

「そういう問題じゃ……っ!! ちょっと、離して!!」

「なんだ、やっぱりジアンじゃないか。この俺が見間違えるはずないと思ったんだ」

「げっ……!」


(しまった! 今、私、ジソンだったの忘れてた!!)


「————チュンユ、これから奥の部屋に入るんだろ?」

「ええ、呼ばれていますからね」

「じゃぁ、伝えておいてくれ。俺たちは先に帰ったって」

「えっ!? ちょっと、何を勝手に————」

「いいから。二人きりで話があるんだ。一緒に来い」


 ジアンは抵抗しようとしたが、ヒョイっと体を持ち上げられ、まるで人さらいにあったかのように肩に担がれる。


「離してってば!! 王命できてるのよ!! こっちは!!」

「うるさいなぁ……どうせ王命を受けたのは弟のアン官吏の方だろう? 兄上を騙しているのがバレてもいいのか?」

「う……っ」


(それは困る……)


「金魚の間が空いてます。そちらをお使いになって」

「おう! 悪いな、チュンユ」

「いいえ、ごゆっくり〜♡」


 痛いところを突かれて、おとなしくなったジアン。

 フィジェに担がれたまま、空いている別の座敷に連れ込まれてしまった。








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