第11話 未熟な王


 祭祀課の太鼓が響く少し前、幻栄国王・ヨン馨才ヒョンジェは後宮を抜け出した。


(ダメだ……)


 新王妃・ユクファヨン

 長年側室だった彼女が、廃妃となったチェ美音ミオンに代わり正室に上がってから、初めての夜。

 司暦寮が指定した、王と王妃にとって一番良い日。


 それは、ミオンがファヨンに呪いをかけていた————などと、衝撃的な出来事の後で、ヒョンジェは心を痛めていた。

 内官からも、今夜くらいは王妃様とお過ごしくださいと年を押され、あるじが代わったこの部屋へ来たのはいいが、入った瞬間、強烈な吐き気に襲われた。


(くさい……!)


 ファヨンが王のためにと用意した酒と食事は、精がつくといわれているものばかりが並んでいて、そこへさらに何処か異国から取り寄せた調味料か薬も混ざっている。

 生まれつき、嗅覚に優れているこの王は、その匂いに耐えられなかった。

 また、もともとファヨンが普段から使っているお香の匂いも、通常の人間であればなんとも思わないだろうが、ヒョンジェにとっては強烈だった。


 どんなに美しかろうと、この国一番の美女と謳われていようと、ヒョンジェにとっては地獄だ。

 ファヨンとは一番歳が近く、旧知の仲であったが、歳を増すごとにその匂いがきつくなっていく。

 西派の重鎮の娘である彼女は、正室になれないのなら、せめて正室より早く子供が欲しいと言葉には出さないが必死なのだ。

 もう一人の側室も、ファヨンほどではないが白粉の匂いがきつく、こちらの方は年のせいもあり、今すぐにでも子供が欲しいとせがんで来る。


(本当に……どうしてこんなことに……)


 ミオンは不快に思うような匂いもせず、早く子供が欲しいと急かすこともなく、ただ王から訪ねて来るのをじっと待っているような王妃だった。

 だからこそ、打ち解けるのに時間がかかったが、ヒョンジェは確かにミオンに好意を抱きつつあった。

 科挙の場で、あの不正の告発に気づく聡明さ、仲の良い友人について語る声も聞いていて心地がいい。

 だが、ミオンは呪詛で人を殺そうとしていた恐ろしい女だった。


(見誤った……やはり、お祖母様の言っていた通り、俺には人を見る目がない。情けない……)


 まつりごとの全てをほとんど担っていた大王大妃が亡くなり、初めて自分で選んだ首席官吏も、なぜか礼部————それも、司暦寮に行ってしまった。

 彼の不正を暴く正義感に感動し、きっとこの未熟な王の力になってくれるだろうと思っていたが、期待はずれもいいところだ。

 王として人を見抜く力もない自分があまりに情けなく、涙がこぼれそうになる。


(この歳で……大の男が泣くなんて、またお祖母様に叱られる————『大きいのは体だけですか!』って……ああ、でも、もう、そのお祖母様もいないんだった)


 亡き祖母を思うと、さらに悲しくなって来た。

 その時、ドンっと祭祀課の太鼓の音が耳に入る。


(太鼓……? 今日は何の日だ?)


 涙がこぼれないように空を見上げると、そこには大きく綺麗な満月。

 ヒョンジェはその美しさに心を奪われ、少しでも月に近づきたくて、気づけば大きな池があり、美しい庭園の東宮殿とうぐうでんまで来てしまった。

 まだ父と母が存命だったころ、少しの間だけ王子として過ごした場所。

 いつ世継ぎが生まれてもいいようにと、常に手入れをされているこの東宮殿はヒョンジェにとって大切な場所だった。


(母上は……この庭から見える月が一番好きだと言っていた。池の水面に映るもう一つの月も美しいと、父上も————……)


 父も、母も、祖母も、皆自分を置いて行ってしまった。

 たまに訪ねて来る姉たちは、子供はまだかと聞くばかりで、ヒョンジェがどれだけ淋しい思いをしているかなど、慮ることもない。

 ヒョンジェは涙でぼやける視界を何度も袖で拭い、月を見上げる。



 ————その時だった。


「うわっ……!」


 背中にどんと何かがぶつかる。


「すまない、月を見ていて気がつかなかった。大丈夫か?」


 驚いて振り向けば、そこには見覚えのない若い男。

 月明かりの下でも十分にわかるほどに、美しい顔をした官吏だった。


「————王様!!」


 後宮を抜け出したヒョンジェを探しに、ナム内官たちがぞろぞろと橋の向こう側からこちらへ向かって来る。

 その声がするまで、ヒョンジェは食いいるようにその官吏の美しい顔を見つめていた。



 * * *




(————王……さま?)


 内官がそう呼んでいた。

 どこかで見覚えがあるとは思ったが、まさか王だとは思わなかったジアン。

 科挙の際、ミオンの隣に座っていた王の顔を見はしたが、王の顔よりもミオンの涙に驚き、心配ですっかり忘れていた。

 確かにあの時、王の椅子の上にいた人物だ。


 座っているところしか見ていないため、ジアンは気がつかなかったが、王はかなり背が高い。

 女としては背が高い方のジアンが首を痛めそうなくらい見上げてしまうのだから……


「王様、なぜ東宮殿に? 王妃様とのお勤めはどうされたのですか!!」


 背の高い王の体が死角となり、内官たちはまだジアンの姿が認識できていない。

 腰を曲げ、頭を下げて早足でこちらへ向かって来るナム内官は、橋を渡り切ったところでやっとジアンの存在に気がついた。


「王様、そちらの方は、どなたです……?」

「うん、それは、私も聞きたい。なぜこんな夜に、東宮殿に人がいる? 何者だ?」


 王は、一瞬ナム内官に視線を移した後、再びジアンに視線を移す。

 ジアンは一歩後ろにさがり、一礼し、名前を名乗った。


「礼部司暦寮観象課の新人官吏・アン知聲ジソンと申します。王様とは知らず、失礼をいたしました。申し訳ありません」

「ジソン……? ああ、君が、あの首席の————!!」


 通常なら就任式で王から直々に辞令を渡されるのだが、廃妃のこともあり王は出席できず、今回は吏部長が代役を務めた。

 新人官吏たちは王の顔を知らず、また、王も新人官吏たちの顔を知らないのだ。


「そうか、それで、どうしてここに……?」

「それは————」


(どうしよう、ミオンの無実の証拠を探ろうと考えて、道に迷ったなんて言えないわ————)


 王がどういう人物か知らないが、ミオンの廃位を決めたのは王だ。

 その決定をした張本人に、なんの証拠もなく、廃位を撤回しろなどと言えるわけもない。

 それに、聞けばここは東宮殿。

 新人官吏が気軽に立ち寄っていい場所ではない。


「……月が……」

「……月が……?」

「今夜は満月で、月がとても大きく、綺麗だったので……月を追いかけているうちに、迷ってしまいまして……」


 王はジアンの発言に、目を丸くして驚いている。

 ジアンが同じ理由でここへ来たのが、なぜか嬉しくて————王の口元が緩んだ。



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