第二章 新人官吏と未熟な王

第9話 花より美しい新人官吏



 礼部れいぶ司暦寮しれきりょう観象課かんしょうか

 主に、天体の動きやその日の天候などを記録するのが仕事である。

 吏部や刑部といった、官吏の花形ではなく、科挙の下位合格者が希望先に空きがなく回されて来るのが、この観象課だ。

 そこに、なぜか今年は首席合格者がやって来る。


「はぁ……なんで観象課うちに?」

「なんでと言われても……本人が希望しているのだから、仕方がないだろう?」


 観象課長・ホン日烽イルボンは吏部からその知らせを聞いた時は、何かの間違いかと思った。

 二十歳の時に最下位でなんとか合格し、この道二十年。

 出世とは程遠いこんな誰も来たがらないところに、そんな頭のいい男が来るなんて聞いたことがないからだ。


「まったく、東派の人間が減ってどこも人手不足だというのに、なんでまたこんなところに来るんだか……王様にも何かの間違いじゃないかと言われてしまったくらいだ。まったく、吏部管理課うちに来て欲しいくらいだったのに……」


 吏部の管理課長は丸々と出っ張った自分の腹を撫でながら、ブツブツ文句を言っていた。

 この二人、実は同期。

 新人の頃は同じくらいの体型だったのだが、うまく出世し見ての通り私腹を肥やした管理課長は丸々と太ってしまって、若い頃の面影は全くない。

 逆にイルボンの方は若い頃と違ってあまり陽に当たらないせいか、肌は青白く病人のように痩せている。


「とにかく、だ。管理課長の俺が直々に観象課ここに来たのは、一つ忠告をしに来たからだ」

「忠告?」

「その首席、妙に顔がいい」

「…………は?」


 何を言い出すかと思えば、顔の話。

 イルボンは何を言ってるんだこいつ……と、眉間にしわを寄せる。


「まぁ、会えばお前もわかると思うが……観象課ここは官吏も下働きも男だらけだが、隣の祭祀課には女が多いだろう?」

「そりゃぁ、まぁ、祭祀課は巫女が多いからな。それがどうかしたか?」

「風紀の乱れがないように、しっかり監督するようにな」

「…………は?」

「あの顔、おそらく女も男も惑わす。非常に危険だ。気をつけろよ」

「…………は?」


 そう言って、管理課長は眉間にしわを寄せたまま立ち尽くしているイルボンにくるりと背を向けて、観象課の部屋から出て行った。


「…………いや、意味がわからない。どういう意味だ……? 何に気をつけろって?」


 言いたいことだけ言っていなくなった同期に、一人文句を言っているイルボン。

 すると、管理課長とは別の入り口から入れ替わるように、新人官吏が二人入って来た。


「すみません、観象課はこちらでしょうか?」

「え、ああ、そうだが……」


 イルボンはその新人官吏の一人を見て、今度は目が飛び出るほどに驚く。


「今日からお世話になります、太姮テハンと————」

「————アン知聲ジソンです」


 鼻筋の通った高い鼻、少し憂いを帯びた大きな瞳が印象的で、男とも女ともとれる中性的な顔立ち。

 何より、普通人間の顔は左右非対称であるはずが、この顔は絵に描いたように眉も目も唇も左右対称に見える。


 算術を使う司暦寮の官吏からしたら、長さを測ってその均衡の良さを証明してみたいと思えるくらい美しい比率の顔————


 花より美しい男が、そこにいた。



 * * *





 幻栄国の貴族の男は、外出時必ず黒笠をかぶる。

 つばの広さや材質は様々だが、もう何年も前から続いている風習だ。

 普段外出することがあまりないジソンも、官吏として働くからには通勤のためにこれから毎日外へ出なければならない。

 ジソンの美しい顔は、下を向いて歩いていればつばの広いその黒笠のおかげでまじまじと見ないと気づかれることは少ないが、不意に顔を上げた時に見られると厄介なことになる。


 誰か一人がジソンの顔の美しいことに気がつくと、それはぜひ見て見たいと後をついて来られることがあるからだ。

 まったく同じ顔をしているジアンは、隠していない分逆に目立たない。

 この双子の顔は、男としては美しいが、女としては「美人だね」程度。

 男が美しい顔をしているから、その違和感に人は惹かれるのかもしれない。



(うーん、ついて来られてるなぁ……)


 官吏になって一週間が経ち、今日からやっと念願の夜勤。

 人々が家に帰る時間に出勤し、人々が家から出る時間より前に帰宅するのだが、その出勤途中、うっかり若い女に顔を見られ、しかも目があってしまった。

 このまま司暦寮に入るまでついて来そうだ。


(二人……いや、三人か)


 ちらりと傘越しに後ろを確認すると、興味津々な顔で若い女が三人いた。


(まったく、どうしようかなぁ……)


 これが嫌で、ジソンはあまり外に出歩くことはなかった。

 しかも、女たちはジソンに気づかれないように小声で話しているが、順風耳で聴覚が優れているジソンには丸聞こえである。


 司暦寮は目前だが、この女たちを撒くにも通い慣れていない道。

 どこをどう通ればいいかまで、把握できていない。


(ええい、一か八か!)


 近くにあった立派なお屋敷の塀をよじ登り、すとんっと綺麗に地面に着地する。


「あっ! 行っちゃった!」

「もう! さっさと声をかけないからよ!」

「だってぇ……恥ずかしいじゃない」


 超えた塀の向こうから、女たちの大きな声が聞こえる。


(なんだ、声をかけたいなら早くそうだと言ってくれればよかったのに……まぁ、声をかけられても困るけど……)


「誰だ! 人の家に勝手に……!」


 男の声がして、顔を上げるとそこには見るからに高い位の貴族の老人が立っている。

 庭の池の鯉に餌を撒いている途中のようだった。


 勝手に他人の家の庭に————しかも門からではなく、塀をよじ登って入って来た不審な男を老人は睨みつける。


「申し訳ありません。人に追われていまして……失礼を致しました」

「人に追われていただと……? 犯罪者じゃぁないだろうなぁ」

「いえいえ、ただのしがない官吏です」

「官吏? 官吏ならもうとっくに家に帰っている時間だろう! 嘘をつくな!」

「嘘じゃありませんよ、これから司暦寮で夜勤なのです」


 すでに薄暗くなり始めていたため、老人はこの不審な男の顔がよく見えず目を細める。

 よく見ると、なんとも美しい顔をした若者だった。


「そうか……司暦寮の————!」


 実はこの老人の息子や孫は現役の官吏。

 司暦寮に花より美しい新人官吏が入った、と孫たちが話していたのを思い出した。


「驚かせ申し訳ありません。お詫びに、一つ良いことをお教えします」

「なんだ?」

「今日は、とても月が綺麗ですから、ぜひ東の空を見上げてください」

「月————?」


 言われた通り東の空を見上げると、いつもより月が近くに大きくあるように見える。


「おお、これはんと大きな————」


 老人が感心している間に、花より美しい新人官吏は門から出て行った。



(急がなきゃ……遅刻なんてしたら、せっかく代わってもらったのにジソンの名前に傷がつくわ)







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