第8話 首席の特権


 ジアンがミオンと会っている頃、ジソンは新任式で吏部の官吏にはっきりと自分の希望する部署を告げていた。


礼部れいぶ……だと……?」

「はい、礼部司暦寮しれきりょうの……できれば観象課かんしょうかでお願いします」

「吏部でも刑部でもなく、礼部————それも、司暦寮!?」


 科挙の首席合格者には、特権がある。

 それは、自分の希望する部署へ必ず配属されるというのが他の合格者とは特に違うところである。

 もしその部署に空きがなければ、官吏を一人別の部署に異動させ無理やり空きを作ることまでしてくれるのだ。

 次席以下は希望の部署に空きがあればいいが、空きがなければ別の部署の所属となる。

 普通の首席合格者であれば、出世するには最短である吏部か刑部にを希望するのが一般的。

 この吏部の官吏は三浪して替え玉を使い、四位で合格しなんとか空きがあった吏部に入ることができ、今こうして新しい合格者の配属先の希望を聞いているところであった。


「司暦寮なんて入って、どうするつもりだ? あそこはどちらかというと、上を目指すには遠い部署だ。本当にいいのか?」

「いいんです。僕は静かな場所で仕事をしたいので……」


 司暦寮観象課は、その日の雲の動きや星の位置を観測したりする司暦寮内でも実に地味な仕事で、出世とも程遠い。

 妓楼ぎろうの女たちにもモテないし、自慢できない。

 一時、人員不足で手伝いに行ったことがあるが、あんな地味で退屈な仕事の何がいいのか、この官吏にはさっぱりわからない。

 その場にいた他の合格者たちも、東派の官吏たちが次々と不正で捕まりどの部署でも人員が不足している中で、わざわざ首席がそんなところを希望するとは……と、驚いていた。


「夜勤もあるんだぞ? いいのか?」


 それでも、生まれつき聴覚が優れているジソンには、むしろその方がありがたい。

 皆が皆が静まっている夜の方が、余計な音や声に悩まされることもないのだ。

 ジソン本人が眠ってしまえば、順風耳は関係ない。

 多くの人が活動する昼間に寝て、夜に仕事をするのがジソンの希望だった。


「ええ、夜勤の方がいいのです。それに、星や月の軌道はとても美しいと思いませんか?」

「軌道……?」


 それにジソンは、昔から月や星の動きを観測するのが好きなのだ。

 裸眼で遠くの細かな星まで見える姉を、何度も羨ましいと思っているくらいに……


 空には、まだまだ解明されていない神秘がたくさん詰まっている。

 月の満ち欠けを見るのも風情があり、しょくの日を算術で予測したりするのが趣味だった。

 しかしこの官吏はジソンの言っていることがよくわからず、首を傾げている。

 月や星なんてただそこにあるだけで、軌道がどうのこうの言われても、さっぱりなのである。


「————とにかく、礼部司暦寮で、お願いします」


 ジソンはこの天体に関心がなさそうな官吏に、どれだけ魅力的か語っても無駄だと判断し、これ以上同じことをなんども言わせるなと無言の圧をかける。


「あ、あぁ、わかった」

「ありがとうございます」


 男だが妙に美しいジソンに微笑まれて、官吏は少しぽっと頬を赤くしつつ頷いた。



 * * *



「突然だったのよ。本当に……」


 少し落ち着いたミオンが、ジアンに語ったのは廃位の原因となる出来事。

 科挙でジアンが書いた不正の告発に気がついたことがきっかけで、王との距離が少し縮まったような、そんな矢先だった。

 この日は、司暦寮から一年ごとに割り出した懐妊しやすい日として言われていた為、王が後宮に来る可能性があると準備をして待っていたミオン。

 大王大妃が亡くなってから王が王妃に会いに来るのは途絶えていたが、ここ数日の事を思うと、もしかしたら今夜……と少し期待していた。


「でも、あの夜、後宮にきたのは王様じゃなくて、司暦寮の巫女だったの……」


 何かに取り憑かれたかのように、「けがれている、不浄なり、不浄なり」となんども呟き、時に叫び声をあげながら突然王妃の部屋に入ってきた若い巫女。

 彼女は制止しようとする女官や宦官たちの声も聞かずに土足で王妃の部屋に押し入いると、驚いて固まっていたミオンの方を指差して、大声で叫んだ。


「『不浄なり! 呪詛を使うとは、王妃にあるまじ!!』と、そう言って、私の後ろにあった棚を倒したのよ」


 倒された棚の下に、見覚えのない紙が挟まっていた。

 黄色い紙に、朱色の墨で絵のような、文字のようなものが書かれた謎の紙。

 それが、何故か側室であるファヨン妃の部屋の前に埋めてあった呪いの人形に貼られたものと一致したのだ。


「そんな人形も、あんな紙も、私は見たことも触れたこともないの。でも、気がついたら私がファヨン妃に嫉妬して、呪い殺そうとしていた……ということになっていて…………」


 ミオン否定したが、祭祀課長のエギョは神託を受けた巫女が、王妃の非道な行為を暴いたのだと言った。

 さらに、その神託を受けたという巫女は、取り押さえられ後宮から出てすぐに血を吐いて死んだらしく、その姿があまりに奇妙であったことから王妃の言葉より、エギョの言葉を皆が信じたのだ。

 そして、自分の娘が王妃に呪われたと、ファヨン妃の父が騒ぎ立てる。

 西派の重臣たちは挙ってミオンを廃位すべきと訴え、王もそれに同意したのだ。


「なんとか流刑で止まったけど、それも西派の方々は不服みたいで死刑に…………私を死刑にしろって…………そう、訴える声もあるみたいで…………」


 話しながら、ミオンのその大きな瞳は再び、涙で歪む。

 ミオンと王の仲を心配して気を使っていた女官たちも、誰一人ミオンの言葉を信じてはくれなかった。

 突然、周りの人間全てが敵に変わったのだ。


「助けて……ジアン…………私、何もしていないの……何もしていないのに、死にたくない……!!」


 殺されるかもしれない恐怖と、人に裏切られた絶望感。

 ミオンは子供のように取り乱し、声をあげて泣き出した。


「ミオン……!」


 ジアンはミオンのこんな姿を見たのは、初めてだった。

 いつも品があって、にこにこと微笑んでいて、傷一つ、汚れひとつつかないように大事に、蝶よ花よと誰からも愛されてきたミオンがすっかり別人のようになってしまった。


「大丈夫、大丈夫よ。ミオン、私が助けるわ。絶対、あなたを死なせたりしない」


 ジアンは何度も繰り返しそう言い、ミオンを抱きしめる。


(ミオンをこんな風にするなんて、許せない……————絶対、許さない)


 慰める声は優しく、心はミオンを変えてしまった者たちへの怒りで激しく燃えていた。



【第一章 了】

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