第5話 王妃の涙


 王と王妃は、科挙の開始から少し遅れて席に着いた。

 三年ぶりの文科の科挙。

 前回までは王はただ座っているだけで、摂政で実質的支配者であった祖母の大王大妃に全て任せていたが、今回は王自ら科挙の合否を決めることになる。


 一次は基本的な知能を試す知識問題、二次と最終試験は主に小論文だ。

 二次までは学問に精通した官吏たちが審査し、最終試験にはそこに王が加わる。

 お題はその時勢に合わせて毎回変えているが、王は知らない。

 毎回東派や西派の高官の息子たちが、なにかしら不正を行って科挙に合格していることを……


 東派の家紋出身である大王大妃は、不正を良しとしない清廉潔白な女傑であったが、実は他の審査する官吏が賄賂を受け取っていることも多々あった。

 大王大妃が亡くなった今、西派だけではなく、東派も堂々と替え玉を使い不正を働いている。


「————二次まで首席だったというのは?」

「華陽のアン知聲ジソンという者です、王様」


 内官からジフンが二次で書いた小論文を受け取ると、王はそれに目を通す。

 その隣で、ミオンはジソンを探した。


(あの一番後ろの席かしら?)


 皆、筆を走らせているため、ミオンの席から顔はよく見えない。

 昨夜から体調があまり良くなく、ミオンはジアンとよく似ているであろうジソンの顔でも見れば少しは元気になれるかもしれないと思っていた。


 現実は散々だが、ジアンに王妃になりたいという夢を語っていた頃が一番楽しく、幸せだったと思うミオン。

 頭の良いジアンが翻訳し、読み聞かせてくれた遠い他国の夢物語。

 その主人公たちのように、王に見初められ王妃となることを夢見ていたあの頃に戻りたい。

 そんな考えが、頭を過っていた。


「ジソン……聞こえる?」


 ぽつりと、小さな声でミオンはつぶやいた。

 昔から、小さな物音や声を聞き取れるほど聴力が良いジソンならば、この小さな声も聞き取って反応し、顔をあげてくれると思ってのことだ。


 だが、今この会場にいるのはジアン。

 順風耳のジソンではなく、千里眼のジアンだ。

 反応はない。

 誰一人として顔を上げる者はいなかった。


「ジソン……いないの? 聞こえていたら、顔をあげて」


 せめてジアンとそっくりなはずのジソンの顔でいいから、見たいと願うミオンだったが、やはり誰も顔をあげてくれない。

 しばらくして、解答を書き終えた何人かがちらほらと顔をあげていくが、その中にジソンはいなかった。


 ミオンがその顔を確認できていないのは、ついに最後の一人になった。

 一番後ろの席に座っている藍色の衣を着た男。


「————そこまで!」


 終了の銅鑼の音がなり、そこでやっと、その最後の一人が顔を上げる。

 鼻筋の通った高い鼻、少し憂いを帯びた大きな瞳で、男なのに花より美しいと言われた親友の弟。


「ジアン……?」


 その顔は、半年前に最後に見たジアンそのもので、ミオンの瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。



 * * *



(ミオンが……泣いてる)


 不利な状況を打破するため、わざわざしなくてもいい仕掛けを解答に施すのに夢中になっていたジアンは、終了の銅鑼がなるギリギリに筆を置き、顔をあげた。

 いつの間にか、王と王妃が席に着いたことに驚いたが、それ以上にジアンは、ミオンの涙に驚きを隠せない。

 会場の一番後ろと、離れてはいるものの視力の良いジアンにははっきりと見えた。

 それに————


(かなり痩せた?)


 男装するだけで簡単に男に見えてしまうくらいに体に凹凸が少なく、女にしては背も高いジアンとは違い、ミオンは小柄で女性らしい丸みを帯びた体型をしていた。

 それがこの半年会わずにいた間に、やつれてしまっているようだ。


 そして、王妃が泣いていることに、誰一人として気がついていない。

 隣に座っている王も、内官となにやら話をしている。


(大丈夫なの……? 半年前は、王妃になるって、あんなに喜んでいたのに……)


 王や王妃の顔をあまりじろじろと見ることは不敬にあたる為、ジアンは王妃と目が合っていることが他の者たちに気づかれる前に目をそらした。


「では、こちらに————」


 ジアンは解答用紙を係の官吏に提出する列の最後尾に並んだ。

 チラリと横目に再びミオンの方を見ると、先ほどよりいくらか近い分、はっきりとミオンと目が合う。

 声は聞こえなかったが、ミオンの唇がと動いた。

 ジソンではなく、ジアンだった。


(ミオン……私だって気づいている?)


 幼い頃に悪戯でジソンと入れ替わった時、その時ミオンだけが気づいて、本当によく似合ってると笑っていたのを思い出す。


(いや、まさかね……)


 順番が来てジアンは解答用紙を提出した。

 ジアンがジソンとして書いたその文章は、回収した官吏が提出された順番に上に重ねていったため、一番上になっていて、すぐに審査する王や学者達のもとに届けられる。


「それではこれにて、本日の科挙は終了となります。結果は五日後の昼、門前に張り出されるので確認するように」


 科挙を取り仕切っていた官吏がそう告げると、会場の門が開き、次々と科挙を受けた男達が出ていく。

 ジアンもその人の流れに乗って外へ。

 無事に科挙が終わったと、皆が一安心したその時だった————


「待て! 今科挙を受けた者達を取り押さえろ! 不正をした者がいる!」


 突然、王がそう叫んだ。

 心当たりがある西派の息子達や東派の替え玉達は慌てふためいていて、逃げるように門外へ走る者もいた。

 急な命令に戸惑いながらも、警備隊が慌てて門を閉め封鎖。

 門から出ていた者達も後を追われ、数人捕まった。


「紙だ! 解答用紙を隠し持っている者を捕まえろ!」


 すでに外に出ていたジアンは、警備隊に追われる前に町の様子が見渡せる高台の上へ登る。

 警備隊の動きを千里眼で把握すると、満足げにニヤリと笑った。


(よく気づいたわね……まぁ、あれに気づかなきゃ、王としては頭が悪いわ)



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