宇宙と譜面

振矢瑠以洲

宇宙と譜面

「今終わったところだよ。今回も間違いなくだめだね。今までになく猛練習したんだけどな。だからそれなりに自信はあったよ。本番前まではね。でもいざ本番になると両手どころか体中が震えてね。頭が真っ白になってしまった感じだった。そりゃー必死に練習したから、身体が覚えているわけだから意志とは関係なく身体は動いてくれたよ、特に両手がね。身体が僕の意志とは関係なく動いていた感じだった。身体が勝手に演奏していた感じだった。まああれだけ練習したものだから、無意識のうちに両手が動いていたんだろね。でも僕の意志は全く飛んでいた。僕の両手は他人の両手のようだった。他人の演奏しているのを傍から聞いているような感じだった。コンピューターか機械がかってに演奏しているような感覚よりもまだマシだったけれどね。だから演奏には僕の心はまったく介在していなかった。無味乾燥なつまらない演奏であったことは間違いない。今回も一次通過さえ程遠いのは間違いないね」

 符美雄(ふみお)は、電話での通話を終えると、スマホをポケットに入れてから、ソファーに座った。ホールを玄関口に向かって歩いている人が疎らになってきている。符美雄の前を歩いていく人はほとんどが符美雄と同じように一次審査を受けた者であることは間違いなかった。ホールを歩いている人の数が疎らになったからか、符美雄が座っているソファーの反対側の壁に飲料水の自販機があることに気がついた。符美雄は突然喉の乾きを覚えて、自販機の所まで歩いて行った。

 冷えたコーラがこれほど美味いのかと感動して、いっきに飲みほしてしまった。空き缶を自販機脇の空き缶回収ボックスに入れたときでした。符美雄の前を符美雄位の年頃の青年が通り過ぎて行った時、鈍い音がした。A4位の封筒が落ちた音だった。あの青年が落としたものであることは間違いなかった。

 符美雄は急いで封筒を拾い、玄関口のところで追いついて、その青年に呼びかけた。

「この封筒落としましたよね」

 符美雄の声と同時にその青年は立ち止まり、振り向いて、符美雄の顔を見てからその封筒を見た。

「それは君が持っていて。君にあげるから」

 全く予想していなかった青年の言葉に返す言葉を失ってしまい、呆然と立っていた。青年は玄関の方へ向きを変えたと思ったのもつかの間、またたく間に玄関口から外に出たと思いきやいつの間にか姿が見えなくなってしまった。

 今まで経験したことのない出来事で、次にどうしたらいいものか考えが定まらずその場にしばらく立っていた。取り敢えずもと座っていたソファーに座ることにした。

 あらためて手に持った封筒を見つめた。一センチ位の厚さはあるだろうか。中になにが入っているのだろうか。感触から言って書類のようなものであることは間違いないように思えた。開けて中を見ても危険なことはないだろうと直感的に感じた。

 封筒は糊付けされて封をされていないので直ぐに中身を見ることができた。思った通りA4用紙が数十枚重ねて入っていた。中身の用紙を取り出して、捲ってみると、用紙に印刷されているものがすべて楽譜であることが分かった。その瞬間、家に持ち帰って、実際にピアノで弾いてみたい衝動に駆られた。


 題名は書かれていないが、数曲の作品であることが分かった。どの曲の譜面も今まで見たことのない譜面であり、有名な曲ではないことは直ぐに分かった。有名な作曲家のものでないことも直ぐに分かった。どの曲もハ長調かイ短調で書かれており、符美雄でも初見で弾けそうな曲に思えた。

 符美雄が最初に選んで弾いた曲はイ短調の曲であった。譜面を最初に見た時の印象通り初見で難なく弾くことができた。悲しい曲であった。これほど悲しい曲は聴いたことのないほどの悲しい曲であった。弾いている間に今まで経験した覚えのない悲しい映像が去来した。

 次に選んで弾いた曲はハ長調の曲であった。最初に選んで弾いた曲とは別世界の曲であった。ピアノでこれほど明るく楽しく優雅な曲は今まで聴いたことがなかった。この曲を弾いている間も映像が浮かんだが、最初に弾いた曲の時に経験した映像とは異質のものであった。符美雄にとって全く縁のないような別世界の映像であった。至福の世界。望んでも到底叶うはずのないような世界。初めから諦めていたような世界であった。

 次に選んだ曲。とはいっても、符美雄はただ重なっている順番通りに弾いただけのことであるが、どうやら最後の曲のようであった。最初捲って見た時は単なるハ長調かイ長調の曲であると思っていたが、実際弾く段階になって、途中から次々と変調されていることが分かった。

 3曲めの楽譜を演奏している時、悲しい時と嬉しい時の映像が、押し寄せる海の波のようにいっきに押し寄せてきた。その一場面一場面がなんとすべて符美雄がこれまで経験してきたものであった。人は死ぬ直前にこのようにいままで経験したことの全ての思い出を一瞬のうちに思い出すということを何かで聞いたことがあるが、このようなことではないかと一瞬のうちにふと思った。

 3曲めの演奏を終えてみるとまだ最後の一枚の用紙が一番下にあることに気がついた。その最後の一枚は楽譜ではなかった。新聞の切り抜きが貼られてあった。その新聞の切り抜きの記事には写真も載っていた。その写真に映っている人物は楽譜の入った封筒を落としたあの青年であることに符美雄は直ぐに気がついた。その記事の内容はその青年が作曲コンクールで優勝したことの内容であった。その記事を読んでその青年の名前と住所が分かったので、翌日その青年の家に行くことを符美雄は即断した。


 その青年が住んでいると思われる家は、洒落た洋館であった。さぞかしいい所のお坊っちゃんで、幼い頃から恵まれた音楽環境にいたのだろうなと思いながら、符美雄は玄関の扉が開くのを待っていた。扉が開くと同時にあの青年の母親らしき人の顔が現れた。

 応接室に案内されて、ソファー座った後、その青年の母親と対峙した。その青年の母親に符美雄はこれまでのことを説明した後、例の封筒を渡した。楽譜を最後のページまで捲って、最後の新聞記事が目に入ると、彼女はしばらくその新聞記事を見つめていた。

「この新聞記事の写真は確かにあの子ですが、でもこの記事の内容はあり得ません。このような賞を受賞したことなどないですから。それよりもあの子は作曲をするような音楽教育など一切受けていませんから。確かにあの子は音楽が好きで専門的に勉強したいと言っていましたが、将来病院の後を継いでもらいたいと思っていた父親の猛反対にあって諦めました。音楽に関しては趣味程度のことしか許してもらえなかったのです。そして決定的なことはあの子はもうこの世界には存在していないのです。昨年交通事故で亡くなっているのです。ですからあの子がこの楽譜を渡したなんてあり得ないです」

「でもこの記事はどういうことなのでしょう」

「おそらくあの子の友達が遊び半分で作ったものだと思います。このような記事はパソコンを使っていくらでも作れますから。あの子にはそのような友達がいたようですから」


 洋館を後にして家に向かって行ったのであるが、途中からの記憶がなかった。朦朧とした意識の中、背後から肩を叩かれて気がついた。ホームに入ってくる電車の音に驚いた。その時、一次審査を終えて、電話をした後、このホームとホームに入ってくる電車のことだけを考えていたことに気がついた。背後から肩を叩かれなかったらどうなっていただろうかと思うと、身体が震えた。振り向いたが、背後には誰もいなかった。手にあの封筒を持っていた事に気がついて、ホームのベンチに座って中身を取り出すと、音符が書かれていない五線譜の束が入っていた。取り敢えず順番に捲ってみたが、全て音符が書かれていない五線譜であった。ただ最後の用紙だけは五線譜ではなかった。それは息を飲むほどの美しい宇宙の写真であった。

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宇宙と譜面 振矢瑠以洲 @inabakazutoshi

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