道場
翌日三人は駅で待ち合わせをして、そこから道場へは歩いて移動した。
道場は都内ではなく千葉県の市川市という所にある。市川市は東京都に隣接していて、現在は東京のベッドタウンという立ち位置だ。
ただその歴史は古く、昔墨田区のあたりが現在の渋谷や新宿のような繁華街だった時代には、結構な豪邸も立ち並んでいたそうだ。
また東京湾で漁業を営む網元の愛人屋敷などもあったとは聞いている。
道場から直近の駅は京成線という私鉄の『市川真間』という駅であったが、僕らは交通の便を考えてJR総武線の市川駅で待ち合わせて移動した。
東京の中心部と違って駅から5分も歩けば戸建て住宅が立ち並んでいる様な場所だ。昔あった大きな邸宅は解体され、敷地は分割されてやや安普請な現代住宅が所狭しと並んでいる。しかしながらそこかしこに昔ながらの立派な木造の門構えを持つ、屋敷と呼ぶにふさわしい邸宅も見受けられる。
茂木家の私道場もそんな面持ちだった。門の脇には立派な松の木が生えていた。
木製の門扉は開きではなく引き違い戸だった。門の上は瓦屋根になっている。中に入って踏み石を辿って奥へ進むと道場の入り口がある。
実はこの道場は先ほどの門扉をはじめ、この入り口も施錠は一切されていない。特に盗まれそうなものは置いていないという事かもしれないが、昔からそうなっていると聞いている。なので門下生というか、道場に籍を置くものはいつでも自由に出入りができた。
事前に連絡はしておいたが、平日の日中という事で予想通り人の気配はない。
道場入り口の引き戸を開けて、三人とも一礼して建物内に入る。流石ダニエルも武道を嗜んでいただけあって礼儀が分かっている。
三人は土間で靴を脱いで板敷部分に上がる。大きな道場ではないので、玄関部分から直接道場に入る形になっている。道場の横に付属する形で用具庫兼用の更衣室がある。
男女の別は無いので先にダニエルが着替えて、その後トキネさんが着替えに入った。ダニエルは上下とも白い道着を着ている。空手や柔道をする感じだ。道場とはいってもここは畳敷きではなく板敷きなのでやや違和感はある。
僕が通っていたころは上は道着であったが、下は袴だった。剣道着と同じだ。
「日本ではこのように小さな道場が住宅街にあるのが普通なんですか?」
トキネさんの着替えを待つ間ダニエルが僕に聞いてきた。
「よくは知りませんが、ここ以外では僕は見たことが無いですね。今では珍しいんじゃないでしょうか?」
「アメリカでは道場と言っても、ビルの中に畳を敷いただけだったりするのでとても興味深いですね」
そう言ってからダニエルは床に座って準備運動を始めた。
そうこうしているうちにトキネさんが用具置き場から出てきた。上は先日の深紅の道着で下は黒い袴を履いている。どうも口には出さないがあの道着を気に入っているようだ。
しかし初めて見る袴姿のトキネさんも凛としていて素敵だった。袴の折り目もキッチリ入っている。
「道場は板敷きとは言ってもバネがあるでしょう。体育館の床は固いし、海外の道場で単に床にフローリングを敷いただけの所も硬すぎて体には良くないですよ。イリヤにもそう伝えておいてください」
着替えながらもダニエルの話が聞こえていたのか、トキネさんは彼にそうアドバイスをした。そうして今度は僕の方を向いて話を続ける。
「ところで着替えに入った用具室で、普通の竹刀の他に短い薙刀のようなものが置いてありましたが、あれはなんですか?薙刀にしては反りもないし短いようですが…」
「ああ、あれはこの道場で稽古をしている回向院(えこういん)流槍術で使う短槍ですよ。普通の竹刀は1.2mくらいで薙刀は2m以上ありますが、丁度その中間ぐらいの長さですね」僕は答える。
「槍術とは珍しいですね。しかも短槍ですか…。槍術は近接戦には不向きで、遠距離の戦いに銃を使うようになった明治のころには、殆どの流派が消えてしまったはずです」トキネさんは言う。
「詳しい歴史は僕も知りません。短いとは言っても身長ぐらいありますからね。これで技を習得しても実戦で何の役に立つのかよく分からないんです。普段持ち歩く長いものなんてせいぜい傘ぐらいですよね。剣道の竹刀よりも短い」僕は答える。
「剣道も極めたところで、日本刀を持って歩くわけにはいかないので同じですよ。北原さんは型とかはできるんですか?」トキネさんにそう聞かれて僕は軽くうなずき、用具庫から共用の短槍を持ってきた。
「基本動作の1本目だけお見せします」
僕はそう言いながら、久しぶりに握る短槍の感触を確かめる。それは手で握る柄の部分は木製で、実際の刃に当たる部分は竹でできており、先端にはけが防止のための更に革製のたんぽと呼ばれるクッションが被せてある。このあたりは剣道で使う竹刀に似ている。
僕は道場の中央に進み、一旦短槍を前に置いて正座して呼吸を整えた。そうして立ち上がると短槍の刃先を下に向けて構える。
「あれは剣道でいう所の下段の構えですよね?」ダニエルはトキネさんに聞く。
「古武道や剣術では下段の構えは珍しくありませんが、現代剣道では足への攻撃は有効打にならないので、この構えを使う事はまずありません。それだけ回向院流槍術実戦的な武術という事なんでしょうね」
ダニエルとトキネさんの会話を横目にしながら、僕は型の動作に入った。右足を前に出して構えるのは剣道と一緒だ。
「一本目!!」
僕はそう言ってから左の後ろ脚を蹴って、右足で踏み込み短槍の先端を下方に突き出して左に振る。その後一旦槍を引いてから、
「エイッ、エイッ」
と発声しながら二度程正面を突く。その後上段に振りかぶって、
「エーイ」
と言いながら斜めに振り下ろした。
「なるほど」
トキネさんが呟く。
「最初に相手の足を狙って動きを止めた後、みぞおちの水月、下腹部の明星と人体の急所二か所を突いて、最後に首筋の頸動脈を切るわけですね。これは完全に人を殺すための技です。確かに現代社会では使いどころがないかもしれない」
トキネさんのその言葉をダニエルは興味深そうに聞いている。
「アメリカの軍用格闘術にもナイフ格闘術がありますが、自他ともに長い刃物を想定した動きはないので非常に興味深いです」
ダニエルは言う。
「一度手合わせしてみたらどうですか?」
トキネさんがダニエルに提案した。
なんてことを言うんだと思った僕の方を見て
「ここでは他流試合は禁止ですか?」
と聞いてきた。
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