茂木琢磨
回向院流槍術
山ガール
その日の午後も喫茶「乃木坂」で、僕はいつものように文章を打っていた。
今書いているのはネットニュースに流す為の『夏の暑さ対策と扇風機の活用法』という記事だ。あの夜の闇カジノでのひと騒動が夢だったかと思うくらい店の中はいつも通りの平穏さだった。ただ以前と一点違うのは、店の中にダニエルがいる事だ。
僕はいつものように三つあるテーブル席の真ん中のテーブルに陣取っているが、奥のテーブルがダニエルの常駐場所になってしまった。
イリヤはあの騒動の後数日のうちにアメリカに帰国したが、ダニエルは今はどこにいても仕事ができるとか言ってビザなしで滞在できる約3か月間は日本に滞在するらしい。今もテーブルの上で熱心にノートパソコンのキーボードを叩いている。
時たまスマホで話したり、ノートパソコンを使ってリモート会議をしたりしている。普通であれば『他のお客様のご迷惑になりますので…』と注意されるところだろうが、何せ普段は彼のほかには僕とトキネさんしかいない。
滞在しているホテルでやればいいと思うのだが、どうも彼もこの店が気に入っているようだ。いや、店というより彼の目的はトキネさんだろう。僕と違った視点である事を祈るが、暇さえあればしつこく稽古をつけてくれと彼女に懇願している。
当初は盛んに弟子入りさせてほしいと言っていたが、かなり強めに拒否されたので、それはもう諦めたようだ。
今日もまたダニエルは空いたコーヒーカップを持ってカウンターに歩み寄る。そうしてカウンター越しに中にいるトキネさんに話しかけた。
「ミス小佐波、いつになったら稽古をつけてくれるんですか?」
そう、以前彼はトキネさんをミズで呼んでいたが、どうも独身だと分かった今はミスで呼んでいる。トキネさんも否定しない。
吉森大臣という玄孫の存在からして、結婚経験者であることは否めないが、現在独身である事は確かだろう。
トキネさんはカウンターの中から、空になったダニエルのカップにコーヒーのおかわりを注ぎながら
「そうですね。弟子入りはともかく、ほうちゃんのところで稽古ぐらいつけるって言っちゃいましたからね…」
と、困惑気味に答えた。ほうちゃんと言うのは昔馴染みだという三船豊水氏の事だが、彼の屋敷でひと騒動あった時に確かにトキネさんはそんな事をダニエルに言っていた。
ダニエルはトキネさんの心が動いたその隙を見逃さない。
「明日の店休日なんてどうですか?何か予定があるなら仕方ないですが…」ダニエルが畳みかける。
そういえばこの喫茶『乃木坂は』週休三日だ。その休みの三日の間、トキネさんがどこで何をして過ごしているのかを僕は全く知らない。
プライベートの話なので、一度誘ってふられている身としては聞くに聞けない。僕は心の中でガッツポーズをとった。ダニエル、グッドジョブだ。これでトキネさんの週末の行動がわかるかもしれない。
「まぁいつもの如く山籠りの予定でしたけど、明日はどこも天気悪そうだしつきあってもいいですかね…」なるほど、トキネさんは週末は山籠もりを…ん?山登りではなくて?
「トキネさん毎週末山籠もりしているんですか?」
思わず僕は口にしてしまった。
「えーと…観光も兼ねて全国各地の山に登って、人気(ひとけ)のないところでハンモック張って泊まるだけです。こういうのを山ガールって言うんですよね?」
いや、トキネさん。山ガールは人のいない森の中でハンモック泊したりしませんよ。熊や猪が出たらどうするんですか…そう聞こうと思ったがやめておいた。恐ろしい答えが返ってきそうな予感がした。
「しかし稽古をつけると言ってもどこでやりましょうか?またほうちゃんの家にお邪魔しましょうか?でも雨が降ったら庭を荒らすの嫌がられるでしょうね…」トキネさんが言う。
「あ、僕がおあつらえ向きなところを知ってますよ。親類が私道場を持っていますが、平日なら日中は使っていないはずなので…使っていいか聞いてみましょうか?」
ダニエルには邪な考えはないかもしれないが、二人きりにするのは何か嫌だったし僕には同行するいい理由ができる。
「それってもしかして茂木家の?」
トキネさんが僕に聞いてきた。以前祖母の旧姓が茂木であった事から、僕自身乃木将軍との関りがあることをその時彼女から知らされた。
「そうですよ。僕も良く小さい頃は祖母に連れられて行ってました」
僕は答える。
「北原さん、なんか前に心得があるような事をおっしゃっていたのはその事ですね。でもなんで渋谷の事務所では足がすくんでたんですか?」
トキネさんにそう言われて僕は赤面した。刃物にビビッて動けなくなっていたことは彼女にはバレていた。闇カジノで震えているところは車の影で見えなかったかもしれない。
「いや、言われるままに小さい頃はそこで稽古なんかをしてたんですが、今はさっぱりです。何といっても実戦経験が全く無いので、どう使っていいのか今も昔も全く分かりません」
僕はそこのところは正直に白状した。トキネさんは少し考えてからこう言った。
「逆にそれは興味深いですね。普通に考えて柔道でも剣道でも、全く使い方が分からないという事は無いと思います。茂木家の私道場であれば古武術の一派なんでしょう。静子さんの実家筋でもあるし、それは私も是非ともお邪魔したいところです」
静子さんというのは僕の祖母の祖母のそのまた母親に当たる。トキネさんとは旧知の仲だという事だ。しかし期せずしてトキネさんの関心をひくことができたようだ。ありがとう静子おばあちゃん。
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