プロローグ

 その女が担いでいるものがなんなのかをニコライは知っていた。写真でなら見たことがあったからだ。それは日本刀と呼ばれる剣だ。日本軍の兵隊がもっている変な形をしたサーベルとは違う。もっと長い。しかしそれは女の体格には不釣り合いにも見えた。ただ実物を見るのは初めてなので、日本刀とはそういうものなのかもしれない。崩れ落ちた屋根から日の光が差し込んでいる。ロシア兵の死体の山を目の前にし立つその女の姿は、禍々しくもあり神々しくもあった。口元には軽い笑みを浮かべているように見えた。


 前に祖母からポルドニッツァという魔女の話を聞いたことがある。まだ日の高いうちに現れて働く人々を切り刻む。しかしポルドニッツァが持っているのは大鎌のはずだ。彼女は日本刀を持っているのだから日本兵なのだろう。なぜ一目見て女だと思ったのかは分からない。


 彼女が身に纏っているそれは軍服なのだろうか?日本軍には女性の兵士はいないと聞いていたし、見た事のない形であった。下半身部分はスカートのようにも見える。ただその服は彼女が切り殺したロシア兵の返り血で真っ赤に染まっていた。ドレスの様だと表現するには、同じ赤でもどす黒くて重い。頭に被り物はしていない。束ねた髪がほどけたのか、腰まではあるだろう長い髪は、ガラスの割れた窓から吹き込む風に棚引いている。所々血で固まった髪は重りのように彼女の体に貼り付いていた。


 風が吹く音以外は静かなその廃墟の中で、動く存在は自分と彼女しかいなかった。既にうめき声すら聞こえない。たまたま順番が最後になっただけで、自分の命もここまでかとニコライは覚悟する。と、その瞬間彼女と目が合った。先ほどまでの薄気味悪い笑みと違ってその目はもう笑ってはいない。ニコライは落ちている銃を拾おうかとも思ったが、蛇に睨まれたカエルの様に動くことはできなかった。背中に嫌な汗が流れる。


 ニコライは正式には軍隊に所属できる年齢ではない。軍に憧れて荷物持ちとして勝手についてきただけだ。それでも部隊のお古の銃は与えられていた。しかし今日は戦闘になるとは聞いていなかったし、荷物運びの邪魔になるので携帯をしてこなかった。その事をこの状況を前にしてニコライは酷く後悔した。いや、仮に銃をもっていたとしても引き金をひけるとは思えなかった。飛び交う銃弾の中をダンスを舞うかのように動いては、次々と大男たちを切り捨てていく彼女の姿をニコライは見てしまったからだ。彼がこの廃墟の様な建物に入った時には既に死体の山だった。生き残った兵士たちは女に向かって銃撃を繰り返すが、その手足も胴も頭も、大道芸人がピンでお手玉をするように宙に舞っていった。そうして最後はニコライだけになったのだ。


 目が合ったのはほんの一瞬だったのだろう。しかしそれはニコライには無限の時にも感じられた。彼女とはかなり離れていて本来見えるはずはないのだが、その眼の奥になんとも言えない深い海の様な藍色を感じた。彼女は自分の方に向かってくることは無く、傍らに落ちていた鞘を拾うと、刀を一振りして血を払ってから鞘に納めた。そうしてニコライとは逆側を向いて一歩また一歩と歩き始めた。ここでやはり足元に落ちている銃を拾って、背後から撃てばその女を殺せるだろうか?そんな事は考えるまでもなく不可能だ。本能がそう言っている。ニコライにはただただその後ろ姿を見送る事しかできなかった。

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