第62話 薩摩示現流
しかし膝蹴りも鎖もトキネに到達することは無かった。トキネは両腕は耳に当てたままで、両足を横に180度開いて股割の体制になった。傍から見ると急激に身長が半分になった感じだ。草壁の挟み撃ちは空を切って自身が丸まった状態になった。トキネは股割の状態のまま一旦背中側に寝そべる。そうして次の瞬間には脚を閉じて膝を曲げて、落ちてくる草壁の体をねらい打つ…。
そこで立会人のサタジットが割って入った。左手でトキネの膝を捉え、右手で草壁の体をはじき飛ばした。草壁は丸まったままでボールの様にリングに落ちてからゴロゴロと転がった。
「勝負あり!!」サタジットがそうコールした。
「ふう、危なく大切な新婦に怪我をさせてしまう所でした。止めてくれてありがとうございます」トキネはそう言ってサタジットに頭を下げた。
「やっぱり相手にならないかー」そう言いながら草壁は立ち上がると、トキネの方に近づいてきた。
「空中では姿勢が制御できないし、動きの大きなムーンソバットはやりすぎでしたね」トキネは草壁にそう声を掛けた。
「私の一番好きな格闘術は実はプロレスなんです。余興としてはうけましたよね?」トキネにそう言ってから草壁はリングの外を見回した。会場内からは大きな拍手と歓声が鳴り響く。そのリングの中央で草壁はトキネの手をとると上にあげて見せた。鳴りやまぬ拍手の中
「さ、次は私の旦那さんの出番です。今後ともお見知りおきをお願いします」そう言って彼女はリングを下りて行った。
草壁と入れ替わりにリングの相手コーナーには和装の井原が現れた。紋付き袴の上着は脱いでいるので、着物に下は袴を履いているといういで立ちだ。手には竹刀を二本携えている。トキネと井原は一旦リング中央に集まって挨拶を躱す。
「本日はおめでとうございます。あなたの事は全日本剣道選手権で拝見させて頂きました。面白い剣筋でしたね。後にも先にも八相の構えであの大会で優勝した人を私は知りません。あ、薩摩示現流ならトンボの構えと言った方がいいのかしら?」トキネにそう言われて井原は答える。
「こちらこそ今日は嫁のわがままにお付き合い頂いてありがとうございます。お噂はかねがねお伺いしておりました。彼女から話を聞いても信じていなかったんですが、本当に実在されていたんですね」
「なんて聞かされていたのかしら?」
「日露戦争でロシア兵を滅多切りにした化け狐は今も生きていて、剣道十段だと…」それを聞いてトキネはリングサイドの草壁を見る。
「あの子、今度軽く〆ておいた方が良さそうね…」小声でそうつぶやいたトキネの台詞を井原は聞こえないふりをしている。
「武芸全般に秀でていて、女性の体格的なハンデも感じさせない素晴らしい武道家だと、いつも嬉しそうに私に話してくれますよ」井原のフォローは果たしてトキネに届いただろうか?
「私では相手にならないだろうことは分かっていますが、できれば剣術でお相手頂けないでしょうか?」井原はそう言って手にしていた竹刀の内一本をトキネに差し出す。
「今日はあなた達へのお祝いですからね。久しぶりに振らせていただきます」トキネはそう言って竹刀を受け取ると二、三度素振りをした。
「いい竹刀ですね」そう井原に言い残して自分のコーナーへ下がっていった。
二人が各々のコーナーに戻ったところで、マーリンが始めのコールをする。剣道の試合であれば最初にそんきょと言って、膝を曲げて構えるところであるが、両者は自分のコーナーで既に竹刀を構え摺り足でリングの中央へ進む。間合いが詰まったところで、井原は竹刀を頭上に掲げて上段の構えを取った。但し普通の剣道の上段ではない、八相の構えと呼ばれる剣を右肩の上に垂直に立てた構えだ。現代剣道では型以外では使われることはほぼないが、その見た目から薩摩示現流ではトンボの構えと呼ばれている。
薩摩示現流は『二の太刀要らず』とまで言われた、一撃必殺の剣術だ。最初の一撃に全てをかけるので、その剣は重く、受けても受けた刀事絶命するほどの威力を持つ。
一方トキネは下段に構えていた。本来下段は敵の足元を狙う構えであるので、脚が有効打突にならない現代剣道ではこの構えを使う者もまた少ない。両者は最初はじりじりとお互いの間合いを詰めていたが、井原の方が突如として前に進み出た。通常剣道の摺り足では右足を前に出しながら前方へ進むが、薩摩示現流は違う。左右の足を交互に出して進む。その速度は鍛錬されたものであれば驚くほどに速い。
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