第45話 勝負

 母親が刺された時は不意を突かれたが今は違う。目の前のこの人間は明確な殺意を持って自分に向かってきている。あの時とは違って自分の体も随分大人になった。


 恐怖心に縛られて動けなくなるかと思えば、頭の中は不思議と澄み渡っていた。短槍には刃はついていないが、木刀であっても急所を突けば確実に命をとれるという確信があった。琢磨は槍を構えるとこちらに向かってくる東の気を読んで合わせる。


 最初の突きを外せば相手に刺されるかもしれない。この東という男は人を刺す事に躊躇が無い。合気している自分にはそれが分かる。しかし不思議と恐怖心は沸いてこなかった。気持ちはフラットで、冷静に自分と相手の立ち位置や動きを俯瞰していた。父の言っていた『明鏡止水』の境地というのはこの事かと初めて合点がいった。


 静まり返った水面に、向かってくる相手の心がさざ波を立ててこちらに打ち寄せてくる様だ。


 東と琢磨の距離が縮まっていく。東は右手で短刀の柄を握り左手は柄の底部分に当てている。その構えを見れば、昨日今日使い始めたというわけでは無い事は分かった。堂に行っている。きっと過去に人を刺したこともあるのだろう。その足は段々と駆け足へと変わっていく。


 琢磨は近づいてくる東に短槍の先端を向けて中段に構えている。下段で足を狙っても刃のついていないこの槍では動きを止めることはできないかもしれない。東は短刀を腹の前に構えているので、突くとすればその上か下だ。


 二人の距離は縮まって、当然のように先に琢磨が構える短槍の間合いに入った。


 勝負は一瞬だった。琢磨の槍先は相手の急所、下腹部にある明星に突き刺さっていた。カウンター気味に下腹部を槍で突かれた東の体は反動で後ろに吹っ飛ぶ。


「お見事!!」

 トキネの声があたりに響き渡る。


 刺された東は床に転がり、もがき苦しんでいる。トキネは東の元に駆け寄る。

「うん、こりゃ死なないな。茂木君もいいところを狙ったね。多分突いたのが同じ急所でも水月なら死んでたんだろうけどね。明星でセーフだ」

 トキネは笑いながら琢磨にそう言った。


 琢磨は祥子の元に行くと、自分の着ていたシャツを脱いで彼女の前方から被せた。視線はなるべくはだけた部分を見ないように心がけたが、少しだけ下着を見てしまった。明鏡止水の心持は大波にさらわれるかのように消え失せていた。


「さて間もなく警察も駆けつけると思いますが、それまでの暇つぶしに、その他大勢の中でも逃げたいやつがいれば、まとめてかかってきてくれていいですよ」そう言ってトキネは琢磨の入ってきた、直接外に続く扉の前に立ちふさがる。もう一つの廊下に続く扉の前には、瀬野を拘束しつつ草壁が立っていた。


 部屋の中にいた男たちのうち数人がトキネの方に向かっていく。手には刃物や木刀を携えている。言うまでもなく一瞬のうちに先ほどの男と同じく、その体は次々に宙を舞った。そうしてトキネは地面に倒れた彼ら一人一人のひざの関節を、丁寧に外して行った。それは手慣れた職人の作業の様でもあった。


 一方草壁の方へ向かった男たちは、彼女の元に辿り着く事もなく、後ろから琢磨に次々と短槍で突かれて行った。急所は外しているので死ぬことは無さそうだ。


「脅されて協力していた人も多いんでしょうね。逃げる気のない人は、そいつらを縛るなりして拘束してください。警察の心象も良くなるでしょう」

 そうトキネが言うと、何人かはその言葉に従った。


 一通り部屋内の人間の始末が着いたとき、トキネはそこまで事の顛末を、草壁に拘束されながらも傍観していた瀬野に話しかけた。先ほどの本部長からの電話で、彼は事の次第が全て明るみになったことを知って放心状態だ。


「えーと……さっきのロリコン野郎……瀬野だっけ? 情報によればあんた、昔は剣道で結構ならしたらしいじゃないですか。素手だともう一つでしたが、丁度そこに木刀も転がってるから、少しは抵抗してみたらどうですか? そうですね、私から一本取れたら動画は公開しないように、そこの女子高生に頼んであげなくもないですよ。本部長はともかく、あの動画奥さんや子供には見られたくないでしょう?」

 トキネにそう言われて隅の方でおとなしくしていた瀬野は、草壁による拘束が完全に解かれたあと、床に落ちていた木刀を拾い上げてトキネに向かって構えた。


「これ使ってください」

 そう言って琢磨は、先ほど東を刺した短槍をトキネに向かって投げた。


「フム、他流試合ってところですね」

 そう言ってトキネは短槍を中段に構える。槍は太い柄の部分を前にして普通とは逆向きにしている。


 瀬野は上段に構えた。左上段だ。体格はもちろんトキネより瀬野の方がいいので、上段の構えであれば間合いの長さは短槍にも負けていない。


「ほぅ、さすが木刀を持つと構えがなかなか様になってますね」

 トキネが言った。

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