第32話 素振り
定刻になる頃には全員が着替え終わって、各々は短槍を横に置き正面を向いて道場の床に正座をしていた。小佐波さんとダニエルさんには予備の槍を貸してあげた。ダニエルさんの方の服装は、上も下も柔道着だった。かなり使い込まれているので、何らかの武道の経験者なのだろう。正座をしたまま全員で正面に向かって一礼、向きはそのままで「お互いに礼」と言ってもう一礼をしてから立ち上がる。
「まずは今日から新しく稽古に参加する三名を紹介します」次郎おじさんはそう言って、三人を道場の前方まで招いて自己紹介をするように促した。
「北原長十郎です。そこにいる北原初江さんとは従兄になります。琢磨君とははとこですね。以前はこの道場に通っていましたが、稽古に参加するのは10年以上ぶりです。よろしくお願いします」長十郎さんの次はダニエルさんだ
「ダニエル・クリスタルと言います。アメリカ人です。アメリカ陸軍格闘術と柔術の心得がありますが、槍術は初めてですのでよろしくお願いします」道理でガタイがいいと思ったらアメリカ陸軍出身という事らしい。柔術はアメリカでも人気の格闘技だというのは聞いた事がある。最後に真紅の道着をまとった小佐波さんの番になった。
「小佐波時寝と申します。今まで剣道と柔道は経験があります。実年齢より若く見られることが多いです」どうも彼女もそれなりに武術の心得があるようだ。最後の一言はいらないんじゃないかなと思った。田村さん達の方をチラ見したら、ちょっと笑っていた。まぁ場が和んで良かった。
三人の自己紹介が終わって、元の位置に戻ったところで
「全員準備運動してください」と次郎おじさんが言った。準備運動には決まりはない。各々が好きなように足首や手首をまわしたり、屈伸したり上体をひねったりしている。昔体操という概念が無い時代はどうしていたんだろうと、今更ながらふと疑問に思った。
田村さんと広崎さんの方を見ると、二人とも道場の隅の方で正座をしてこちらを見ている。いや、二人の後ろにもう一人女性が立ってこちらの方を見ている。先日田村さんのバイト先で名刺をくれた草壁さんだった。なぜここにいるのだろう?田村さんが声をかけたのだろうか?
しかし剣道部の広崎さんは大丈夫かもしれないが、田村さんは正座には慣れていないだろうに大丈夫だろうか?というか建築を見に来た田村さんは稽古を見学する必要は無いようにも思う。彼女も見るというならば椅子を用意しておけばよかったなと思った。
準備運動が終わると素振りから稽古が始まる。素振りというか、確かに振りもするが、槍なので突く動作が中心だ。今日から練習に加わった三人は、長十郎さんはともかく他の二人には槍の持ち方や素振りから教える必要がある。通常の稽古は次郎おじさんが仕切っているので、自分は長十郎さんと一緒に、二人に基本部分から教えることにした。
剣道の場合、竹刀の柄の部分を両腕で持つが体に近い方を左手で、遠い方を右手で握るのが普通だ。だが回向院流槍術の場合は半身で構えるのでどちら向きで構えるかは利き腕による。利き腕が右であれば左手を後ろ手、右手を前にして体は左に向けて構える。左利きであればその逆だ。
現在まで伝承されている数少ない槍術の中でも、特に有名な宝蔵院槍術では利き腕に関わらず右向きで構えるらしいので、回向院流はそこが大きく違う。右利きの場合は宝蔵院槍術とは完全に逆向きの構えとなる。槍の長さが短いことが関係しているのか剣道に近いのかもしれない。
構え方の次は振り方だ。槍なので突きの方が重要だが、未経験者には振りの方が入りやすい。中段の構えから上に振りかぶって振り下ろす。同じようにやってみてくださいと言って二人に同じ動きを真似てもらった。まずはダニエルさんだ。予想通りぎこちない。というか両腕とも上腕の筋肉がつきすぎて、振り被るにも振り下ろすにも引っかかっている感じだ。普通は脇をしめるように指導するところだが、どうもそれは無理そうだ。次に小佐波さんにも振ってもらう。
空気を切り裂く音がした。槍先の動きは早すぎて見えなかった。それでいて振り終わりは槍先が下に下がりすぎる事もなく中段よりやや下方にぴたりと止まった。
「こんな感じでしょうか?」彼女はニッコリとほほ笑んでこちらを見る。
「嘘でしょ」道場脇で見学していた広崎澪子の口から思わず声が漏れる。
「え、何々?」隣にいた田村祥子が尋ねる。
「早すぎて見えなかった…」広崎澪子はそう答える。
「あの方は剣道十段ですからね」二人の後ろから声がした。
「剣道は八段までしかないですよ。というかあなたは?」広崎はそう言いながら後ろをふり返る。田村もそれに続く。そこには草壁が立っていた。
「え?なぜここにいらっしゃるんですか?」祥子は驚いて草壁に聞く。
「これが縁というやつなんでしょうね。渡した名刺のアドレスにメールをくれたらお話ししますよ。あの後全然連絡してくれないし…」草壁が答える。
「だって、知らない人にいきなりメールをくれと言われても、普通は送らないですよね?」祥子の発言で草壁の正体が分かったのか広崎は
「あ、お助けおねーさんね」と言った。
「お助けおねーさんね…まぁ名刺だけじゃ信用できないというのは分かります。…ANYの紹介だって言ったらいいのかしら」そう答えた草壁の言葉に祥子の顔色が変わった。
「とにかくあなたにとっても悪い話ではないですよ」そう言ってから草壁は視線を道場の方に戻して
「まぁ今は稽古の様子を見ておきましょう」と言った。
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