第27話 当番
それからまもなくして、期末試験が終わって夏休みに入った。図書委員は普段は確かに楽なお勤めではあるが、夏休み中も図書館…そう、市川学院では独立した建物になっていて図書室ではなく図書館と呼ばれている…その図書館は生徒の自習室も兼ねて開いているので、当然委員会の当番も回ってくる。但し夏休み期間中は旅行など家の諸事情で来れないメンバーも多いので、当番のローテーションはいつもとは違って結構ランダムだ。
学校の長期休み中の図書館では自習している人が殆どで、貸出窓口はあまり仕事がない。委員会の人間も仕事がない間は、自分の勉強をしていてもいいというのが不文律だった。家で勉強するよりも図書館でやったほうが集中できるような気がしていたので、特に自分は夏休みに何処に行く予定もなかったので、普段より多く当番を受け持っていた。
夏休みももうすぐ折り返しという頃の週初め、田村さんと窓口当番の日程が重なった。特にあの日の後は偶然会うこともなければ、話す機会もなかった。あのレストランも家族の行きつけは彼女がバイトをしている八幡駅店ではなく、家から近い市川駅店なので、コーヒーを目当てにわざわざ行くはずもない。先に席についていた彼女に軽く挨拶をしてから自分も席につく。
「その後彼らとは遭遇してない?」閲覧席は貸出カウンターから離れていて、周辺に人はいないが一応は図書館なので小さな声で田村さんに聞いてみた。
「あれからバイト帰りにあの道は通らないようにしてますから…」ニッコリと微笑みながらの彼女の答えを聞いて、自分はほっと胸を撫で下ろした。撫でおろしてはいるのに、胸には少しだけ緊張感を感じていた。不思議な感覚だ。
「そういえば…あ、後でいいです」田村さんは何か言いかけてやめてしまった。特に本の貸し出しに来ている人間はいなかったので、自分はいつものように数学の参考書を広げて勉強を始めた。田村さんは隣で文庫本を読んでいる。そういえば図書委員になったのは、活動日が少なくてバイトに支障が出ない事の他にもう一つ、読書好きだとあの夜に彼女が言っていたのを思い出した。
自分はいい調子で参考書の問題を解いていくが、ある問題でつまずいた。虚数を使う方程式の問題だが、どう変形させていいのかが思いつかない。先ほどまで軽快にシャーペンを動かしていた手は止まり、しばし参考書とのにらみ合いが続く。
「これでどうですか?」そう言いながら、彼女が横からノートに数式を書き込んできた。
「ああ、そうか。ん?虚数は1年ではまだ習ってないよね?」自分も虚数は二年になって一学期で習ったばかりだった。
「私せっかちなんでだいぶ先までやっちゃいました。こう見えて結構賢いんですよ」そう言って彼女は微笑む。いや、せっかちとかそういう話でもないような気がするが、これが特進クラスの学生の実力なのかと驚いていると、貸出カウンターに近づいてくる人の気配がしてそちらの方を見た。
長いストレートな黒髪の女の子がこちらに歩いてくる。隣の田村さんを見ると彼女に向かって軽く手を振っている。どうやら二人は顔見知りらしい。女の子はカウンターの前に立つと自分と田村さんの方を交互に見て
「事前情報通り二人揃ってますね」と言った。
「あ、こちら私の親友の広崎さんです」田村さんがそう紹介してくれた。
「初めまして、図書委員会二年の茂木です…」と自分が言ったところで、食い気味に広崎さんが突っ込んできた。
「初めてじゃないんです!」いきなりの発言に自分が驚いていると、彼女は続けた。
「先輩中学1年生の時に、菅野の剣道場にいらっしゃいましたよね。私は小学生でしたがあそこの道場に通ってたんです」ああ、そんなこともあったなと思いだしたが、申し訳ないがそこにいた人の事は殆ど覚えていない。
「祥子から、先輩にはヤンキーが三人がかりで手を触れることもできなかったと聞いてピーンと来ました。苗字も一緒だし…」そう、田村さんの下の名前は祥子だった。委員会の名簿を見たらそう書いてあった。彼女は一体どんな風にあの夜の事を、この広崎さんに話したのだろう。
「先輩中一の時凄かったって澪子(れいこ)から聞きました」広崎さんの下の名前は澪子というらしい。
「道場には数か月しかいなかったけど、大人ですら誰も相手にならなかったんですよね」そう話す田村さんの目はキラキラ輝いていた。ああ、さっき彼女が何か言いかけたのはこの話だったのかとその時分かった。
「それでですね。以前道場の人から茂木先輩の実家も道場で、古武術をやられていると聞いた事を思い出しまして…」今度は広崎さんが話す。
「それはちょっと違うな。自分の実家は造り酒屋で、代々受け継いでいる武術の伝承の為に私道場を持っているだけだよ」ちょっと話が大げさなので訂正しておく。
「それって私でも稽古に参加したりはできるんでしょうか?」広崎さんはカウンターに両手をついて、前のめりになりながらそう言った。
「うん。以前は一族とその血縁者のみしか入門を許されなかったみたいだけど、今はそんな時代じゃないから誰でも受け入れるって方針みたいだよ。最もそれでも稽古しているのは数人だけだけどね。自分も週に一度だけ一、二時間顔を出しているだけだよ」
正直な話、武術には全く興味が無かった。今は訳あって両親共に不在だが、養ってくれている祖父には、塾へ通う事への交換条件として毎週日曜日の午後には道場に顔を出すことを約束させられていた。
「私、1年ながら剣道部レギュラーに選んでもらったんですが、どうにも今一つ伸び悩んでいるというか…古武術に何かヒントがあるんじゃないかと思うんですよね」さすがこの広崎さんという娘は、小学校から道場通いをしているだけあって、一年からレギュラーになったらしい。市川学院は文武両道で、中等部で剣道が必須であることからも分かる通り、剣道部はかなり強い。県下でも強豪と呼ばれる部類だ。
「古武術と言っても槍術だからね…あんまり剣道の参考になるとは思えないけども、日曜日の午後なら自分もいるので一度見に来たらいいよ」と自分は返した。
「それって私も一緒に行っていいですか?」意外にも横から田村さんがそう言った。
「あれ?田村さんも武術とかに興味があるの?」そう聞いた自分の質問には広崎さんが先に答えた。
「祥子が興味あるのは先輩でしょ?バイト先にも来てくれないってこぼしてたし…」そう言った広崎さんの頭を田村さんがパーンと平手ではたいた。
「サービス券には有効期限があるって話をしただけでしょ」田村さんはそう言ってから今度は自分の方を向いて
「武術には興味はありません。でも、私道場というのは見てみたいんです。こう見えて建築かIT関係かで進学先迷ってるんで…」と、続けた。そうして
「ちょっと返却図書を棚に戻してきます」そう言って田村さんは立ち上がると、数冊の本を抱えて開架書架の方へ行ってしまった。
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