第2話「闘牛士」

時刻は午後10時。バーティアドロップにとってこの時間は、本来ならばドアにかかったCLOSEの看板をOPENにひっくり返す時間だ。だが、今日はOPENの文字が人々の目に映ることは無かった。CLOSEの看板が露見するドアの向こうでは、一人のバーテンダーが小瓶とにらめっこをしている真っ最中だ。


「はぁ……。今日から1ヶ月間退屈すぎだろ、マジで」


溜息と共に不満を漏らすのは、新米バーテンダーの水谷陣。客の来ない店内で、シロップの入った小瓶を見つめるだけの仕事。昔やったシール貼りのバイトよりも退屈でつまらない。陣は心を無にして小瓶を見つめ続けた。


「てゆーか、店長も頭硬いよなぁ。店閉めていいってんなら家にいたっていいじゃねぇかよ。何が、シロップを持ち帰ることは許容出来ない、だよ。融通が効かねぇんだから」


不平不満を口にする陣であったが、当然現状に何の変化もありはしなかった。


――かに思われた。変わるはずのない現実が変わるのは、いつだって一瞬のことだ。一瞬の変化が、巡り巡って一生の変化に繋がるのだ。


回るはずのないドアノブが、開くはずのない扉が、鳴るはずのないベルが、何れも現実を捻じ曲げるかのようにゆっくりと動き始める。


唖然とする陣の前に現れたのは、黒い手袋を身に着け、スーツに身を包み、黒いサングラスをかけた全身黒づくめの大男であった。手には、これまた真っ黒なジュラルミンケースが握られている。


「――あの、店一応閉まってるはずなんスけど……。ほら、入口のドアに。クローズってあるはずッスけど……」


とてつもない威圧感を放つ大男に対し、陣は臆しながらも何とか閉店の旨を伝えた。


「そうか。つまり店には誰も入ってこないわけだ。成程、都合がいいな」


大男は表情一つ変えずに、淡々とした口調でそう述べた。尤も、目元はサングラスで隠れている為、本当に表情を変えなかったのかは分からない。だが少なくとも陣には、彼が底知れない人物に映ったのだ。


「都合が良いって、何のことスか……?」


陣は冷や汗をかきながらも、緊張で震える手脚や唇を懸命に抑え、あくまで平常心を保っているかのように振る舞う。大男の威圧感に飲み込まれてはダメだと、自分に言い聞かせる。


「何でもない。こっちの話だ。――さて、早速だが本題に入らせて貰おうか」


陣は固唾を飲み込む。一体、これから何が執り行われるというのだろうか。心当たりは、不本意だがある。寧ろ、それ以外考えられない。陣は既に、事の原因に気が付いているのだ。


「なるほど。その目、既に気付いているみたいだな。なら話は早いな。」


言われて陣は気が付いた。自分が先程から事の原因を無意識に見つめていたということを。そして、この大男はそれを見抜いた。彼はやはり只者では無い。陣はそう確信した。


「そこにある“ティアシロップ”を譲って欲しい。勿論、無料ただでとは言わない。これでどうだろうか」


大男はジュラルミンケースを前に出すと、ロックを外し蓋を開いた。中には案の定、大量の1万円札の束がこれでもかという程押し込められている。


「いや、金積まれても困るッスよ……。警察、呼びますよ?」


これで引き下がってくれればいいいのだが。陣は一縷の望みにかけて、スマホを取り出し110番をかける素振りをした。


「――そうか。君がその態度なら、仕方が無いな。」


大男はそう呟いた。その言葉を聞いた陣の背中に、何故だか物凄い悪寒が走った。それは生物が本能的に身の危険を感じるのと似たような感覚だった。


次の瞬間、何が物凄い速さで左耳を横切った。遅れて着いて来た音は、創作の世界では飽きる程聞いてきたが、実際に聞くのは生まれて初めてだ。うっすらと漂う火薬の臭いが、これが現実であると告げて来る。


「さて、もう一度聞こうか。君はそのシロップを譲ってくれるかい?」


大男は陣に対し、銃口を向けている。陣は彼此20年生きているが、その中で本物の銃を見たことなんて無かった。しかも、初めて見た銃は自分に対して向けられている。


「わ、分かりましたから!一旦銃を下げてください!」


陣は無意識に両手を上げて叫んだ。しかし、大男は表情一つ変えること無く、陣に銃口を向けたままでいる。


「俺はティアシロップを譲ってくれるのか、と聞いたのだ。その質問にすら答えず銃を下ろすことをこいねがうわけだ。――舐めんじゃねぇぞ!この甘ったれたクソガキがッ!」


大男はドスの効いた怒鳴り声をあげた。その様正しく、“本職”のそれと呼ぶに相応しい姿だ。当の陣は猫のように全身をビクッと震わせると、そのまま硬直してしまい身動きひとつ取れずにいる。


「俺の質問に答えねぇってんなら、てめぇを殺して奪うだけだ。どうするのが賢明な判断か、流石に分かるよなぁ?」


カチャリ、と大男は銃の弾を装填した。そしてそのままゆっくりと引き金に指をかけていく。


「ゆ、譲りますから!命だけは助けて下さいッス!」


「――チッ……。最初っからそうしとけば良いんだよ」


大男は舌打ちをしながら構えた銃を下ろした。


その様子を見た陣は安心したように、ホッと息をついた。


「ほら、何やってる早く渡せ」


「は、はい!今行きます!」


陣はシロップの入った小瓶を手に取り、大男の元へと近付いた。瓶を持つ手は未だに震えが止まらずにいる。


陣は大男の前を近付き、ゆっくりと吸った息を吐き出すように言葉を紡ぐ。


「はい。えっと、こちらがティアシロップ?です……」


陣は大男にシロップを差し出した。身体はわなわなと震え、俯く陣の表情は大男の方からは見えなかった。だが、大男はそんなことは一切気にしていないようであった。


「――ようやくだ。ようやく手に入った。これで、“あの方”の望みに一歩近付く……」


大男は、ゆっくりとシロップに手をかけようとする。ジリジリと、大男の手がシロップに迫っていく。


「それと……」


不意に、陣は少しだけ頭を上げた。ニヤリ、と歪められた口元が露見する。大男がそれに気付いた時には既に遅かった。


「水谷陣特製!金的スパーキングもついでにどうぞ!!」


陣は叫びながら大男の金的目掛け、ありったけの力を込めた渾身の蹴りをお見舞した。


「う゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!!」


あまりの激痛に大男は手に持った拳銃を落としてしまった。そして獣の雄叫びのような悲鳴を上げると、股間を両手で押さえながらその場にうずくまった。


「こ、このガキぃ……」


大男はサングラス越しに陣を睨みつける。陣は床に転がった拳銃を手に取ると、それを大男に向けた。


「悪いッスけど、このシロップは渡せないッス。さぁ、今度こそ大人しく帰って下さい」


正に形勢逆転だった。陣は自らの勝ちを確信した。


それが間違いだった。これが一般人相手ならば、勝ちとみて間違い無いだろう。だが、彼の眼前にいるのは、その枠に当てはまらない人間なのだ。


「フッッッハハハハハハハッハハッハッハ!!ハッハッハッハッハッ!!ハーハハッハッハッハハハハハハハハハハハッハハハッハハハハッ!!!」


突然、大男は笑い出した。勝ちを確信する陣を嘲笑うように、大声で笑い続けた。


「ガキの浅知恵で、“俺様”に勝ったつもりか?とんだ大バカ野郎だなッ!」


そういうと、男はまるで先程までの痛がりっぷりが嘘かのように勢いよく立ち上がった。


「教えてやるよガキ。俺様は泣く子も黙る“神下組合みわしたくみあい”の幹部。保木通またぎとおる様だッ!!」


瞬間、大男改め通の人智を超えた神速の拳が陣目掛けて襲い掛かる。陣は防御は愚か、感知すら出来ていない。今、本人も気付かぬうちに一人のか弱い命が吹き飛ばされる真っ最中であった。


ゴトッ


「――は?どういうことだ……?誰だよあアンタ……」


唖然とする陣。拳が彼に届くことは無かった。流星の如き拳は今、文字通り地に伏した。通の巨大な右手は、切断され床に転がっているのだ。


「ぐあッ!?俺様の腕がッ!!てめぇナニモン

、だッ……!?」


顔を上げた通は絶句した。そこにいたのは小尉のお面を被り、刀を携え襟足を一つに結いた青年だった。そして、通はその青年を知っていた。否、通だけでない。彼が住む世界に連なる人間はほとんどがその青年を知っていると言っても過言では無い。


「“小尉侍こじょうざむらい”だと……!?」


小尉侍。それは、裏社会に名を馳せる伝説の殺し屋の名前だった。


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