(過去話)5話 学校の七不思議と不気味な生徒1

 蛍光灯の明かりの中で、男が一人、一心不乱に壁を塗っていた。


 窓のない一室に、クリーム色の壁。


 壁と同色のペンキを一箇所に、何度も、何度も塗りたくる。


 ペンキの匂いが充満した部屋の中、男は必死に、何かを隠そうとしていたーー。





   ※





 退学を希望する生徒との面談で、男性教師は思わず、ぽかんと口を開けてしまった。

 高校3年の秋。先日、唯一の肉親である父親を亡くしたばかりの女生徒だ。体が弱く休みがちではあったが、まだまだ卒業を目指せるうえに、進学だって手遅れではない。

 自主退学を希望する旨の連絡を受けてから会議を開き、学校側でできるサポートも相談した。

 本人から詳しい事情を聞く目的で設けた面談の場。

 女生徒は、未成年後見人を伴い、現れた。

 だが、教師が間抜けにもぽかんと口を開けてしまった要因はそれではなく、女生徒の印象が様変わりしていることに、教師は驚いたのだ。

 どこか、陰鬱な雰囲気をまとった生徒だった。

 授業態度は真面目で成績にも問題はなかったが、友人はいないようだった。


 どことなく、近寄りがたく。


 不思議と、良い印象はない生徒。


「雰囲気が、ずいぶんと変わったな?」


 戸惑いながら感想を漏らせば、女生徒は困ったように笑った。


「父を失ってから、いろいろ、あったんです」


 耳に心地よい声だった。

 こぼした笑みは穏やかで、美しく。視線が吸い寄せられる。


 こんな声だったか。

 このように笑う生徒だったか。

 こんなに人目を引く容姿をしていただろうか。

 教師は、首を傾げた。


 まるで別人だ。


 唐突に、女生徒が何らかの事件に巻き込まれたのではないかという不安が湧き上がる。

 女生徒本人は別の場所にいて、今、目の前にいる人物は女生徒に成り代わり、何かを隠蔽しようとしているのではないか。

 己の想像に、血の気が引いた。


「未成年後見人っていうんでしたっけ? 知り合いで、弁護士をしている大人の人です」


 戸惑う教師を置き去りにして、女生徒は連れの、パンツスーツを着た女性を紹介する。

 教職に就いて四年目の己と同じような年頃の女性だ。弁護士としては、随分と若いように思えた。

 よほど優秀な人なのか、それとも、共犯者だろうか。

 渡された名刺をまじまじと眺めながら、教師の警戒心は増していく。

 春から受け持っていたクラスの生徒だというのに、本人かどうかの確証が持てない己に、幻滅もした。


 立ったままというわけにはいかないため、教師が二人に椅子を勧めて、三人は腰を下ろす。


「しばらくは紗和さんのお家でご厄介になって、仕事をするつもりです」


 紗和というのは、同席している弁護士の名だ。

 苗字ではなく下の名前で呼ぶほど親しい間柄らしい。


「父がいろいろ、遺してくれたので。そういう手続きも全部、紗和さんが手を貸してくれて。生活は問題なく、やっていけます」


 父親を失ったことで高卒の肩書きは不要となり、卒業まで高校生として過ごすことは無駄な時間になったのだと、女生徒は告げた。


「仕事って、何をするんだ?」


 まだ、目の前の人物が別人かもしれないという疑いは消えていないが、確認のしようがない。あとで名刺を元に未成年後見人である弁護士が本物かを調べてみようと決めて、教師は面談を続ける。


「ちょっと、特殊な職業で。紗和さんのご実家の家業をお手伝いしながら、修行っていうんですかね? お勉強させてもらってから、自立する予定です」

「ご実家の家業とは?」


 教師は、弁護士へと視線を向けた。


「ある、特定の困りごとを解決するようなことです」


 弁護士があいまいに告げたことで、教師は唸る。

 ますます怪しいと思ったからだ。


 ふいに女生徒が、何かを気にする素振りで己の左腕へと視線を向ける。

 視界の隅で、それを捉えた教師は、思い出す。

 この女生徒は、こうした行動をよく取っていて、それが不気味がられていたのだよなと。

 弁護士も、女生徒へ視線を向けた。

 大人たちから注視されていることに気付いているのか、いないのか。

 女生徒は呟く。


「ペンキ?」


 確認するように、すんと鼻を動かして、彼女は小さく首を傾げた。

 そうして今度は、己の右肩へ顔を向ける。


「塗るの、意味ないの?」


 ぞわりと肌が、泡立った。


 己の腕を鼻に近付けて、残り香の有無を確認する。

 匂いは感じないが、鼻が麻痺している可能性もあった。

 教師は女生徒へと視線を注ぎながら、己を落ち着かせるために、思考する。

 友人はいないものだと考えていたが、そんなことはなかったのかもしれないと、女生徒への認識を改めた。

 誰かから噂を聞いたのだろう。それほどに、ペンキという言葉から連想された出来事は、この学校では有名な話だから。


「手形は、先生を呼びたくて付けてるの? それは、悪いモノ?」


 彼女はいったい、誰と会話しているのか。


「……雪乃様」


 弁護士が、女生徒の名を呼ぶことで、それ以上の言葉を封じた。

 女生徒が視線を向けた先で、弁護士が小さく首を横に振る。

 それで何かを察したようで、反省する様子を女生徒は見せた。


「ごめんなさい。最近、忠義ただよしとよくいるから」

「あとは、私のほうで」


 頷いてから女生徒は口をつぐんだが、教師はもう、面談どころではなくなっていた。

 恐怖が腹の底から湧き上がり、体を震わせる。

 妙な汗まで噴き出して、震える手を握り締めた。

 ペンキという言葉から連想された出来事は、有名だ。

 だが、いくら消しても翌日には浮き出ている手形を消したくて、個人的に何度もペンキを塗っていることを誰にも話していないことに、思い至ってしまった。

 恐れを抱きながらも、確認せずにはいられなくて。

 塗り潰したはずのそれがあることに、身体の芯から凍えるような恐怖に襲われる毎日。


「先生」


 弁護士に声を掛けられ、のろのろと視線を向けた。


「当家では通常、一般の方の相談はお受けしておりませんが、雪乃様によって結ばれた縁ですので」


 先ほど渡されたのとは別の名刺が差し出され、恐る恐る伸ばした手で、受け取る。

 そこには屋号と、家紋と、固定電話の番号が書かれていた。


「表向き必要な手順としてご挨拶に参りましたが、退学手続きについては、間もなく許可が下りるでしょう」


 耳から入った情報をうまく処理できず、教師は訝しげな視線を弁護士へと向けた。


「もし、あなたにも何らかの責任があるにしろ、人が自殺した場に何度も立ち入るのは、おすすめしません」

「なにを……」


 何を言っているのか。


 なぜ、知っているのか。


「先生」


 今度は女生徒が、教師を呼んだ。


「対価なしでの手出しは、良くないみたいで。今は何もできないんですけど、そこに連絡してくれたら、お役に立てます」


 弁護士が立ち上がり、促された女生徒も席を立つ。

 教師は動くことが出来ず。

 黙って二人を見送った。

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