(過去話) 新婚期間の神と嫁

(過去話)1話 花嫁となった朝

 まどろみの中、台所から聞こえる物音を、耳が拾った。

 父は今日、仕事は休みだったろうかと記憶をたどる。


 記憶の糸は答えにたどり着く前に、掻き消えた。


 鼻をくすぐる、味噌と出汁の香り。


 白米が炊ける匂い。


 食事の支度は、雪乃の仕事だ。

 雪乃の体調が悪いと考えて、食事の支度をしてくれているのかもしれないと、雪乃はぼんやり考える。

 幼い頃は寝たきりで、父には心配ばかりかけていた。

 雪乃が元気になってからは父娘二人、支え合って生活している。


 台所に立つ、父の後ろ姿。

 忍び寄り。雪乃は甘えて、父に背中から抱きついた。

 どうしたんだ? と父が言い。

 怖い夢を見たのと、雪乃は応える。


「昔から雪乃は、怖い夢をよく見ていたよな」


 父の手が、雪乃の頭を優しく撫でた。


「お父さんが、死んじゃう夢だったの。……私のせいで」

「雪乃のせいじゃない」

「すごく、怖くて。悲しくて」

「……うん」

「大人になったら、たくさん恩返しするよって約束してるのに。本当、ひどい夢」


 恐怖の余韻が胸の奥のほうで沈殿していて、父の顔を見ていられなくなって、雪乃は顔をうつむける。


「私……わたし、もしかしたら、お母さんも、私のせいだったんじゃないかって」

「雪乃」


 父が雪乃の言葉を遮ったから、雪乃は顔を上げて、父を見る。


「お父さんもお母さんも、雪乃が大好きだよ」

「知ってるよ」

「幸せを、願ってる」

「うん」

「雪乃の花嫁姿を見られないのが、心残りだなぁ」

「見せるよ。見られるよ」


 告げた瞬間、雪乃の服が変化する。

 真っ白な、婚礼衣装。

 ずっと夢見ていた、白無垢と、真紅の口紅。


 ああ。これは現実ではないのだと、唐突に理解した。


「すごく、きれいだ」


 涙が溢れて、父の顔が、見えなくなる。


「お父さんは幸せだったよ。きっと、お母さんも。雪乃っていう、かわいい娘の親になれて」


 堪えきれなくなって。

 父の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。

 ありがとうよりも、ごめんなさいが、溢れ出す。


「最後に話せて、よかった。――ありがとうございました」


 父が雪乃の背後に声を掛けた気がして、雪乃は振り返る。


 そこには、九本の尾を持つ茶色い狐と、白い蛇。


「雪乃」


 父が、雪乃を呼んだ。


 雪乃は、いやいやと首を横に振る。


 涙が光の粒となり、宙を舞った。


 意識の端でそれを捉え、きれいだと思う。


「もう、行かないといけないみたいだ」


 父が後退り。

 雪乃は両手を伸ばしたが、足は踏み出さなかった。


 だって、背後にいる。


 雪乃を必要としている、存在が。


「お父さん」


 最後だと理解して、父を呼んだ。


「大好き!」


 ごめんなさいより、もっと、伝えておきたかった言葉。

 父は泣いてしまって、言葉を発せなかったけれど。

 泣き笑いの表情で、何度も頷いていた。


     ※


 気付けば雪乃は、父と暮らしていた家の台所で立ち尽くしていて。

 そのまま、泣き崩れる。

 ふわりと柔らかなものが腕に触れ、視線を向けた先には、茶色い毛玉。


「きゅうちゃんが、会わせてくれたの?」


 九尾の狐は、首を横に振った。


「蛇だ」

「お父さん、食べられちゃったんだと思ってた」


 ふわふわの毛玉を腕に抱き、背後にいる白い蛇へと振り返る。

 白い蛇は、なぜだかバツが悪そうに、視線をそらした。


「喰ったやつを、俺が喰った」


 頬を濡らす涙を、九尾の狐がぺろりと舐める。

 雪乃はされるがまま。

 無意識に、腕の中の柔らかな毛並みを撫でた。温もりに触れると、恐怖や悲しみという負の感情が、癒やされる心地がする。


「力が戻った。それで、消化する前に浄化できたんだ。こちらもギリギリだったな」

「お父さんを、消化しちゃうところだったの?」

「ギリギリセーフだ」


 セーフだったら、まあいいかと雪乃は思う。


「お父さんに会わせてくれて、ありがとう」


 そして、はたと気付く。


「蛇さん、名前は?」


 白い蛇も雪乃の夫となったのだ。蛇さんと呼ぶのは、他人行儀だろう。

 だが白い蛇は、名はないと言った。


「社があった頃は、シロヘビ様と呼ばれていた」

「シロヘビ……シロちゃん?」


 九尾の狐が「きゅうちゃん」だから合わせてみたのだが、気に入らなかったようで、白蛇しろへびは嫌そうな顔になる。

 蛇なのに、表情が豊かだ。


「蛇で良いだろう」


 雪乃の顎へ濡れた鼻を押し付けて、九尾の狐が言った。


「しーちゃん」

「ちゃんはやめろ」

「何かいいのはないかな? 蛇は嫌」


 茶色い毛に頬を擦り寄せて、相談する。

 白蛇しろへびは、拒絶はするが案は出してくれないようだ。我関せずといった態度で、とぐろを巻いている。


「白い蛇と書いて、はくだ、はくじゃ、びゃくだ、とも読む」


 九尾の狐が、雪乃の手の甲を舐めながら教えてくれた。

 それらの読みを口の中で転がして、雪乃は呟く。


「びゃく。びゃくだ。素敵な響き」


 白い蛇へと視線を向けたが、異論はないようだ。


白蛇びゃくだって呼ぶね」

「好きにしろ」


 呼び方も決まり、涙も乾いた。

 たくさん泣いたせいで鼻声のままではあるが、気持ちもだいぶ、落ち着いた。


「それで、きゅうちゃんとびゃくは、どうしてその姿なの?」


 再会は人間の男の姿で、雪乃が眠る前も、彼らは人間の姿をしていたのに。

 疑問を口にしてすぐに脳裏をよぎった光景と、感覚。

 下腹部がうずくと同時、全身が熱を帯びた。


「狐がうるさくてな。雪乃が怖がると、怯えてやがる」


 熱を持った頬を手の甲で冷やしながら、雪乃は腕の中の九尾へ視線を向ける。

 九尾は両耳を伏せていて、金色の瞳が、雪乃の表情をうかがっていた。


「無理を、させた」


 何に対しての言葉なのかを正確に理解して、雪乃は、腕の中の存在を力いっぱい抱き締めた。

 言葉を発するのは恥ずかしくて、茶色の毛の頭頂部に鼻を埋めて、目を閉じる。

 懐かしい匂いだ。

 胸の中に、大好きが溢れる。


「体は、つらくないか?」

「大丈夫。むしろ久しぶりに、すごく元気」

「長いこと、眠っていた」

「どのくらい?」

「五日だ」

「そんなに?」


 それは心配されて当然だと、雪乃自身も思った。


「ヒトの身から、体を作り変えるのに必要な時間だったんだろう」


 白蛇びゃくだの言葉で、納得する。

 生まれ変わったように、体が軽かったからだ。


「腹は減っていないか?」


 九尾に問われたことで、自覚した。お腹の中は、からっぽだ。

 言葉の代わりに腹が、ぐうと鳴った。


「食事にしよう。そろそろ目覚める頃合いだろうと、支度しておいた」


 そうして迎えた、二柱の神の花嫁となってからの、最初の朝。

 はじめて口にしたのは、九尾が作ってくれた具のない味噌汁と、まだ温かい塩むすびだった。

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