4
コンコンコン
扉を三回ノックする。これは私の手だろうか。頭に
「───」
扉の向こうから返事が聞こえる。だが何と言っているのかは聞き取れない。すると
ギキィーー
ひとりでに扉が開いた。そこに居たのは。
体が汗ばみ、その気持ち悪さで目が覚める。夏休み初日から嫌な寝覚めだ。そのくせ頭は冴えていて、夢の内容をはっきり記憶している。七不思議の定番、トイレの花子さん。
夢の内容が現実だったら良かったのだが、
夏休み前、B棟女子トイレの全ての扉をノックしてみたが、返事などはなかった。隅々まで調べてみたものの美術室のような機械の類は見つからず、ならば藤棚のように備え付けのものを利用しているのか、と思いつく限りのシミュレーションを脳内でしてみたが成果はなし。最後の望みとして、トイレに来た先輩たちにそれとなく心当たりがあるか聞いてみたが、惨敗。こうして女子トイレに不思議がないことがほぼほぼ確定した。
となると残されたのは男子トイレということになるが……いや、私女子だし。どうするかな…。
昨夜お風呂に浸かりながら考えた結果、調べる方法はやはり正面突破、中に入って、だ。
早速行動することにした私は少し遅い朝食を済ませ、制服に着替える。休みなのにわざわざ学校に行くことを母親は疑問に思っていたようだが、適当な理由を告げて家を出た。今日は日差しが強い。というか年々日差しが強くなっている気がする。みっともない白い肌が徐々に焼けてきているのを感じながら、私は学校へ向かった。
地下にある下駄箱で、微かに響いてくる運動部の掛け声を聞きながら上履きに履き替える。一階への階段を上り、A棟からB棟へ移動。気温が上がってくる前に上の階から済まそうと思い、三階へ向かう。
校舎内に入ると、たくさんの生徒がいる普段の光景とは打って変わって、自分ひとりだけの静かな世界が広がっていた。この感覚はなんだろう。孤独感とはまた違う、自分だけが世界から切り離された感覚。例えるなら、終末の感覚…とか。決して楽しい気分ではなくて、少しノスタルジックな、そんな感覚。でもそんな感覚が、何だかいい。
夏休みの思わぬ良さに気付きながら三階男子トイレに到着する。目と耳を澄ませ、周りや中に誰もいないことを確認してから私はトイレに入っていった。
中はあの縦長の便器がある以外、女子トイレとあまり変わっていない。個室が三つしかない分、女子トイレよりも狭くなっているようで窮屈に感じたが、調査は比較的早く済みそうなので良しとしよう。
異性のプライベートゾーンを隅々までチェックするのはとても気が引けるし嫌な気持ちになるのだが、これは仕方のないことなのだと自己暗示して調査を進めていく。
――なんとか全ての便器周りを終わらせた。しかし怪しいものは何もなく、ただ不快感だけが残っていた。綺麗に掃除されているため別に汚くなどないのだが、どうにも不潔だと思い込んでしまう。そのためどこにも直に触れていなかったが、私は一旦手を洗うことにした。
洗面台で手を洗いながらふと考える。この作業があと二回もあるのか。いや…、今日見つからなかったらもっとだ。少し億劫に感じ、思わず溜息が出てしまう。その溜息のせいか、眼前の鏡が曇ってしまった。……?曇った?
目の前で起きた現象に疑問を抱いたその刹那、鏡は通常通りに私の姿を映し出した。鏡の曇りが取れたのだ。それもフェードアウトするようにではなく、瞬く間に。
もう一度確かめるため、さっきよりもCO₂多めを意識してゆっくりと鏡に息を吐きかける。しかし、今度は曇らなかった。一応隣の洗面台の鏡にも同様に吐きかけたが、こちらも曇りはしなかった。これで今の時期に自然に曇ることはあり得ないと証明されたわけだが、どうして二回目は曇らなかったのか、それがわからない。
見間違いではないとわかっていたが、今日の内に残り二か所の調査も終わらせたかったため、ひとまず三階トイレからは離れることにした。耳を澄ませ、近くに誰もいないか確認する。よくよく考えると、入る時よりも出る時の方がリスクが高い。不安になりながらも慎重に扉を開け、周りを確認して出ていく。これ、出る時キョロキョロしてたら余計に怪しく見えるな。次からはいっそ堂々と出ることにしようか。そんなことを考えつつ、階段で二階へ降りていく。
トイレに向かおうと歩き出すが、A棟からの渡り廊下から先生らしき人物がこちらに向かって来るのが見えた。おそらく向こうも私に気付いたはずだ。
適当な挨拶だけでやり過ごそうと思ったのだが、なんとその若めの男性教師は続けて話しかけてきた。
「こんにちはー。もう体調の方は大丈夫そう?」
いったいこの人は何を言っているんだ、と思っていたら、表情に出てしまっていたのか
「怪訝そうな顔だねー。あー、でも仕方ないか。気ぃ失ってたからそっちは先生の顔見てないんだよね?」
あぁ、なんとなくわかってきた。この人が、熱中症で倒れた私を保健室まで運んだ英語教師なのだろう。そういえば結局お礼を言えていないままだった。
「もしかして保健室まで運んで下さった先生ですか。あの時は助けていただき本当にありがとうございました。」
「いえいえ。見た感じ元気そうだね。良かったー。あの時ホント焦ったんだよねー。まさか…………あー、病院への搬送が必要なんじゃないかって。でも軽い症状でホント良かったよ」
まさか、の後の
その後なぜ学校に来ているのか聞かれたが、友達の部活の午前練習が終わるのを待っている、とか何だとか適当に嘘をついて誤魔化した。仕方ないが今日はここで帰ることになりそうだ。こんなことになるなら三階の調査を続けていたら良かったのに。だがまぁ、時間はまだまだある。焦らず慎重にいこう。
「それじゃ、失礼します。本当にありがとうございました」
「はーい。さようならー。まだまだ暑いから気ぃ付けるようにねー」
同じセリフを前にも聞いた。どうやら養護教諭もこの先生も、私のことを暑さに弱い貧弱キャラだと思っているようだ。まぁ、間違ってはいないが。
地下のひんやりと涼しい下駄箱で靴を履き替えながらあることを思い出す。私、あの先生の名前知らないままだ。恩人の名前を聞きそびれるとは…今度会ったときは絶対に聞こう。
夏休み一日目の調査は三階トイレだけだったが、成果は確かにあった。明日は他の階を一応調べた後に再び三階を調べることにしよう。
肌を刺す日差しに耐えながら、クーラーが効いているであろう自宅へ急ぎ足で帰っていく。
二日目、一階と二階の調査を行ったが、鏡は曇らず、怪しいものも見当たらなかった。やはり不思議は三階にあるということで間違いなさそうだ。そんなわけで再び三階トイレの調査に臨む。
前回の調査では鏡を詳しく調べていなかったため、今回はよく観察し、仕組みを暴くところまで進みたい。まずは…、もう一度鏡を曇らせるところから始めよう。
昨日、家に帰ってからずっと考えていたのが、「二回目は曇らなかった」ということ。息を吐きかけることが鏡を曇らせる条件なのだろうが、二回目に吐きかけた時には鏡は曇らなかった。曇った一回目との違いはいったい何なのか。
目の前の鏡と向き合う。そこに映る、少し緊張気味な表情。私はある仮説を確かめるため、鏡に息を吹きかけた。
一回目と二回目の違いは、吐いた息のスピードだ。あの時思わず出てしまった溜息は、例えるなら…机に置いた紙がヒラッと飛んでいく位の強さだった。二回目は言うまでもなく、ほぼ無風。この息の強さ、つまり風速の違いが、二つの結果を生み出したのではないだろうか。
息を吹きかけて数瞬ののち、鏡が曇った。それも吹きかけた部分だけでなく、全面が。見事に均等に白濁色で曇ったと思いきや、すぐに元の状態に戻り、にやけた表情の制服女を映し出す。どうやら仮説は正しかったようだ。なら次は、この仕組みを暴いてやろう。
この夏休み中、急坂を上って家に帰るのは今日で最後だろう。息切れと汗が止まらないのはもう
鏡を壁に固定している金具のうち下のひとつから、鉛筆の芯ほどの太さの何かが飛び出していることに気が付いた。どうやらそれが風を感知するセンサーらしく、そこだけに息を吹きかけると鏡は曇った。これが溜息で曇った理由のひとつだ。
そして肝心の曇る原理だが、何年か前にニュースで見たことのある、透明の公衆トイレと同じものなのではと考えている。電気が流れているとガラスが透明で中が丸見えになり、トイレを利用しようと鍵を掛けると周りのガラスが不透明になる、というものだ。
これは調光フィルムと言うらしく、ニュースの例では通電状態で透明だが、逆の仕組みで製造することもできるらしい。電極がフィルムに着いていないと通電しないとのことだが、それらしきものは鏡には着いていなかった。だがきっとこれも金具の内側に隠したのだろう、ネットで調べてみると電極と金具の大きさはほとんど一緒だった。
少し悩まされたのが、どうやって電源と繋がっているのか。この仕組みは、センサーで風を感知した後、電源へ信号を送り電極へ電気を流す必要がある。となると電源から電極へ伸びているコードがあるはずなのだが、それが見当たらなかった。
しかし思い出してほしい。美術室の時も無線で作動していたではないか。この不思議を作った人が機械の回路に詳しいとすると、改造して無線化することだって可能なのでは。希望的観測に近いが、そうとしか考えようがない。
ちなみに電源は近くの掃除道具ロッカーに隠されていた。薄型のため確かにパッと見ではわからないけれど、少し隠し方が雑な気が…。
坂を上り切り、平坦な道に入る。次の不思議の場所は、粋なことに鏡に記されていた。
曇った鏡をよく見ると、曇っていない部分が小さくあり、そこが文字になっていることに気付いた。持って来ていた携帯扇風機で風を当て続け、文字をよく読む。ついでに写真も撮っておいた。
★→職員室
ここに来て頻繁に立ち入れない場所が選ばれた。夏休み中は怪しまれるだろうし、何の用事もなしに職員室には入れないだろう。大人しく夏休みが終わるのを待ちつつ、策を考えることにする。
帰る途中、普段入ることのないコンビニエンスストアに立ち寄る。今日中に不思議を解くことができたのだ。ご褒美のひとつくらい、自分に与えてあげないとね。
一番安い棒アイスをシャクシャク食べながら、私は軽い足取りで家に帰っていった。
退屈な夏休みが明けた。職員室に入る理由は既に考えてある。あの英語教師にお礼の品を渡すという口実なら、何の問題もなく入ることができるはずだ。
それっぽい菓子折りを用意しておいたが、問題なのは今すぐには渡しに行けないということだ。私の学校では夏休み明けに中間テストを実施するらしく、その二週間前、つまり夏休み明け初日からは、テスト内容保護のため職員室への立ち入りが制限されてしまうらしい。
平穏に過ごすためにも、ここはもどかしい気持ちをグッと堪える。今は学生らしく、勉学に励もう。
そうしてテスト週を含め三週間が経ったのち、私は職員室を訪れた。いざ征かん、と踏み込もうとしたのだが、ここで重大なことに気付く。…名前を知らない。
そうだった、聞きそびれていたんだった。気持ちが前のめりになり過ぎて忘れていた。入る前にまずあの人の名前を知らないと呼ぶに呼べない。今日は一旦
あの英語教師は一年生の担当ではない。一年生の教室があるC棟で、ただの一度も見かけたことがないから確実だ。また、私が中庭(B棟C棟間)で倒れた時に近くを通ったということは、B棟の二年生を担当している可能性が高い。このままB棟を徘徊していれば情報収集ができるはずだ。ただ、本人に会うことは気まずいためできるだけ避けたい。
B棟の徘徊を繰り返すこと数日、あの教師と二年生が話をしているところに遭遇した。バレないよう隠密で近づき、会話を盗み聞きする。断じてストーカーではない。
会話を聞いてわかったのは、その教師が「りくせん」と呼ばれていること。名前に「りく」が入っている「先生」で「りく先」ということだろうか。
他の生徒との会話も聞いてみたが、結局下の名前だけで苗字はわからなかった。名前は「りく」らしい。漢字はわからなかった。そんなことより、話す生徒全員が下の名前か渾名で呼んでくるってどんだけフレンドリーな教師なんだ。他の先生に怒られないのか。
翌日、菓子折りを持って職員室に赴いた。仕方なく「りく先生」と声を掛けて彼のデスクに向かう。改めてお礼の言葉を申し上げ、菓子折りを渡す。ここからが本番で、いかに話を振って延ばして、ここに居続けられるか。私は彼のフレンドリーさに懸けて話を続けていく。
十五分くらいは話を続けられたが、結局何事も起こらず会話デッキは次第に尽きていき、最後に「英語の質問を今後しに来てもいいですか」という話をして職員室を出た。
今回の不思議は厄介すぎる。これは長期戦になりそうだ。二年生になるまでかかると覚悟しておいた方がいいだろう。
そうしてその日から、職員室に入るための用事を作り続ける日々が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます