第2話 父の帰還

ダンスパーティーには行かなかった。


それで、カルビがまた店にやって来た。


「ディー、どうしたんだよ。待っていたのに」


責めるように言うから、ちょっと腹が立つ。約束なんかしていない。服はもらったけど。でもあれは、兄のビーエルが持って行ってしまったのだ。


「服なんかいいよ。また買うから」


カルビは気前のいいところを見せてから、うどんを注文した。『星まるうどん』は素うどんに、好きな具材をトッピングするスタイルだ。

ちくわ天、ごぼう天、かき揚げ、エビ天、イカ天などなど。天ぷらが多い。


全然こしのないうどんにさっくさくの天ぷらが、案外おいしいのに。このあたりの人の舌には合わないみたい。


カルビが、素うどんをのせたトレーをぶるぶる震わせた。おたまじゃくし風の顔が、一緒に震えている。


「肉がないじゃないか」

「うん、そう。ないの」


「だめだよ。肉の町なのに」

「え」

「見なよ。この界隈はみんな肉をあつかった店なのに。ここだけだ。こんな練り物とか野菜や海鮮でごまかしている。卑怯だ」


確かに町内は肉一色だ。肉まみれの町と言っていい。


「でも、おいしいわよ」

「おいしさじゃないんだ。道徳のことだよ」

「わからない」


カルビの言うことがわからない。


後ろで母が不機嫌そうにねぎを切っている。母がねぎを切るのは機嫌の悪いときだ。いつもは父の仕事にしている。

このところ父が家を空けていて、いないのだ。


カルビは素うどんを食べて、帰って行った。


「カルビ君はディーが好きなのよ」


分厚いねぎの小口切りを終えた母が言った。


「うん...。多分そう」

「ディーはどうなの?」

「いい人だとは思うけど」


それ以上は答えられなかった。


きっとカルビは、寺子屋を出た後で、わたしにプロポーズするだろう。この界隈の人はみんなそうだ。そして二人の合意があれば、町内会に諮られる。

その許可を得て、晴れてカップル成立だ。デートできる。


「カルビ君なら、お金の苦労はないわね」


そうだ。

カルビは大『チーギュー』チェーンの跡取り息子だ。その妻になれば、裕福になれるだろう。


でも、それは幸せかしら?


ふと思うのだ。

夢に現れる、決してよみがえりはしない幼い初恋を思うより、カルビとチーギューに染まって生きる方がいいのじゃないか。少なくとも、生活は楽になる。


でも、

わからない。

まだ決めたくない。



庭で母に髪を切ってもらっていた。うちの散髪はいつもそう。外でやる。


電話がかかり、母がハサミを置いて家に入った。

通りかかった焼き鳥の竹串専門店のおばさんが、代わりに切ってくれる。おばさんの飼い犬が吠えるので、帰って行った。


次に牛鍋屋のおじさんが、放ったらかしのわたしを見かねて切ってくれる。

そこで母が家から出て来た。


ハサミを受け取った母が、肩先までそろえてくれながら、父が帰って来ることを告げる。


「ふうん」


慣れているはいえ、ヘアサロンで髪を切りたいと思った。

子供じゃあるまいし。いろんな人にちょっとずつ切ってもらうなんて、恥ずかしい。横綱の断髪式みたいだと思った。


父が帰って来たのは、夜更けで、真っ白な顔が赤く焼けていた。友人とエロドラドという土地に行っていたという。


小金が貯まるとふらっと出かけるのは父の癖のようなもので、そんなところに母が魅かれたというのは、何度も聞いた両親のロマンスだ。


「パパはね、大学の寮を抜け出したのよ。ふふ、メイド姿のママの手を取って、フランス窓を開けて、お邸から飛び出したの。自由を求めて」

「苦労をかけたね、エマ」


「いいえ。ビーエルとディーという可愛い我が子にも恵まれて。わたし、幸せよ」

「わたしこそ、愛しているさ。君との二十年を誇りに思うよ」


そんな父が、ダイヤモンド鉱山を探し当て大金持ちになったという。

一緒に見つけた友人と折半でというが、それでも大変なものだ。


母もわたしも驚いて、言葉がなかった。

貧乏しか知らないから。

お金は他人が持っていて、それを羨むのが我が家のいつものスタンスなのだ。


父はちょっと渋い顔をして、母にくしゃくしゃになった手紙を渡した。


「まあ」


広げた母の顔が、青ざめるのがわかる。


「どうしたの?」

「パパのご実家の侯爵家が財産難で、助けてほしいと懇願のお手紙よ」

「幸い、わたしは大金持ちになったから、助けてやるのはやぶさかでないのだが...」


父も渋い顔だ。


「パパ、わたしのことはいいの。お父上の殿様を見捨てるなんてできないでしょう?」

「いや、しかし…。君を身分違いとさんざんなじった父を簡単に許すことは出来ない」


どうやら、両親の駆け落ちは、いまだ侯爵家の許すところではなかったようだ。


話し合った末、父は実家を助けることを決めた。

母はもちろん、わたしと兄のビーエルのことも孫と認めることも条件に加えた。


けれど、そうすることによって、我が家は重大な変化を迎えることになる。

生まれ育ち、親しんだこの肉まみれの町を出て、侯爵家に入ることになるのだ。


隠居を決めた父の父、わたしのおじい様に代わって、父が侯爵家を継ぐことになった。



引っ越しを明日に控え、わたしはカルビと一緒にいた。


彼はチーギューを手に慌ただしいわが家にやって来て、わたしを連れ出した。


小さな頃に遊んだ公園のブランコに座る。


「忘れるなよ、この町を」

「忘れないわ」


午後五時を知らせるサイレンが鳴り、子供たちは帰って行く。わたしもこの音を聞き、家に急いだものだ。


そして、兄のビーエルと一緒に、夕飯のお芋をふかすのが日課だった。熱々を兄が馬鹿みたいにかじりつき、唇を腫らしていた。

今でも別な意味で唇を腫らして帰って来るけれど。


侯爵家に入ってしまったら、お芋はふかせるのかしら。


「ディー」


彼の唇が真紫になっていた。わたしを見て、ぶるぶる震えている。


「カルビ、どうしたの?」

「思い出にキスしていいか?」


「嫌よ」

「どうしてもか?」

「うん。町内会の許しもないのに。罰せられるわよ」


町内会は性の乱れにとりわけ厳しい。


「それでもいい」


カルビの覚悟が壮絶に思え、わたしは手を差し出した。甲ならいいと許した。

カルビが手をつかむ。唇が触れ、ねろりとなめ出したから、そこから手を引っこ抜いた。


それでわたしたちは別れた。

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