八、悪女−壱



 二十年後――

 ルェは、王の寝所で、玻璃の水槽を泳ぐ魚を眺めていた。華やかな魚だった。

 黄色のひれは妓生キーセンの舞のようにひらひらとし、白と紅の体は両班ヤンバンの娘の上衣のように艶めいている。翡翠の瞳は、妃嬪の簪を輝かす宝石のようだ。

 父王が崩御し、ことと年齢を理由に、叔父の綾山大君ヌンサンテグンに王位を継がれた後。彼の〝大切〟だった医女もいなくなった世界で。

 彼女と出会った日、花から生まれ変わるのを一緒に見届けたその魚は、彼の心の癒やしであった。

 今日も魚を見て、彼女のことを想う。考える。

 妃嬪との務めは、ちゃんと果たしているのだ。まだ天から恵まれないだけで。やることはやっているのだから、もういない女ひとりを密かに想っても、誰も咎めやしないだろう。ルェは、この国の王なのだし。

(なぜ、そなたは、ひとりで死ねたんだ? リョンハ……)

 どのように成し遂げたか、という方法の問題ではない。それはもう明らかにしている。知っている。今でも彼がわからないのは、彼女の心のことだった。

 まだ十六、七歳と、今のルェよりも若かった彼女が、どうして自らの命を賭け、遂げられたのか。どうやって覚悟を固め、最後の時を笑顔で生き抜いたのか。その心が、今もわからない。


 先王の死後、リョンハという女の評判は一転した。

 皆に愛される白衣の医女から、王室をほしいままにした悪女へと変わった。


 一週間にも満たなかった、あの悪夢の日々。当時のルェに、それは酷な出来事だった。大人になっても胸にしこりとして残り続けるような、悲しい出来事。

 彼女の計画と事の真相を知っても、納得はできない。他に方法はなかったのかと、思い出しては幼稚に憤る。けれど、何度そうしても、彼女以上の方法は考えられなかった。浮かぶのは無理な妄想ばかりだ。


 彼女が最後に東宮殿へ診察に来た日。

 思い返せば、どこか妙な様子だったこと。

 もらった言葉。抱きしめられた強さ。ぬくもり。そのすべてを昨日のことのように覚えている。今も夢に見る。

「――リョンハの胸は、あたたかいな。こうしていると、心が安らぐ……。ありがとう」

 父王の病状が良くないとあって、その頃、世子も心の調子を崩していた。リョンハが忙しいことを知っていながら、彼女を東宮殿に来させては甘えた。雪の降る頃になってからは、いつも抱きしめられていた。

 いつ、どんな時でも、彼女は優しい。彼女の素敵な面しか知らないことが、かえって悲しくなるくらいに。ずっときれいなひとだった。好きだった。

世子邸下セジャチョハ

「ん?」

「私は、私の最善を尽くします」

「……ああ」

 父のことだと思った。苦しんではいないようだけれども、このごろは眠ってばかりの父王だ。起きている時には元気そうで、執務もこなしている。この国の王。自慢の父。

 世子セジャ陽雲君ヤンウングン、王妃や後宮たちと面会しては、優しい笑顔と声で話してくれた王。病状は悪化の一途を辿っているらしいと母に聞いていても、父の様子からは、とてもそうは見えなかった。

 全部リョンハのおかげだった。王子や妃嬪は、気づかぬうちに甘えていたのだ。

「いつもお伝えしていることですが、愛するひととの時間は、大切にしてくださいね」

 彼女が家族を早くに亡くしていることは、なんとなくだけれど聞いていた。その痛みを知っているからこそ、こうして真摯に忠告してくれるのだろう。世子は「うん。わかってる」と頷いた。彼女の腕の力が強くなった。

「リョンハ?」

「……ごめんなさい。痛みましたか?」

「ううん。平気。大丈夫だ」

「世子様も、もっと強く触れてくださっていいのですよ」

「……リョンハは、痛くならない?」

「私は、強い女の子ですから。痛くないのです。何があっても、何をされても。だから、どうか、心配なさらないでください」

 その〝女の子〟という言い方に、なぜか、切ないくらいの若さを感じた。母のようにルェを包む彼女は、十七歳。ルェは六歳。実の親子にはなりようがない年齢差だった。結婚も難しそうな年齢差だった。

「リョンハ……」

 世子は、精いっぱいの力で彼女を抱きしめる。

「ふふ、嬉しいです」とリョンハは鈴の声で笑う。彼女の胸は、やわらかく、あたたかい。

「私と楽しく話したことを、どうか、覚えていてくださいね」

「うん。記憶力には自信があるから大丈夫。忘れない」

「たくさん、たくさん、お話ししましたね……」

 リョンハは世子の耳元で、彼女の考える〝善き王〟のことを教えてくれた。ともすれば不敬な発言だったが、彼女なら良かった。ルェの心の中で、彼女は永遠に〝初恋〟であり〝先生〟でもあり続ける。

「リョンハは、どうしてそんなに物知りなの?」

 これは、世子がよくリョンハにする質問。そして、彼女に届けられる最後の質問だ。

 彼女はいつも違う答えを返してくれて、それが楽しい遊びのようで。今日はどんな答えをするのだろうと、いつもわくわくした。

 ちょっと考えるような素振りをしてから、彼女はにやりと悪戯っぽく笑う。世子から伝染うつされた笑い方だった。

「実は、生まれ変わりなのです」

「えっ」

 白衣の医女は、最後にもう一度と彼を抱きしめ、また耳元で囁く。

 ちなみにこの言葉は、来世の彼女の決め台詞にもなる。それは、ふたりのまだ知らない未来の話。


「――陰謀劇も、医学も、ここに生まれる前から嗜んでおりますの」


 顔を上げ、彼女は笑った。ゆるふわりと。いつもと変わらぬ色で笑った。

 ほんとうにいつもの彼女だったから、ルェは、その夜から世界が変わるなんて知れなかった。

 その笑顔の裏に、どれほど重たい覚悟を抱えていたのだろう。いつから決めていたのだろう。わからない。

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