九、悪女−弐
彼女が罪人とされるまでは、あっという間だった。
王の死後、決まりだからと捜査が入った彼女の部屋から、なんと
十年前に謀反を企て、取り潰しになった貴族家の娘。彼女と仲良しだった医官とは関係ないが、イムという姓の一族の娘。たったひとりの生き残り。イム・リョンハ。それが彼女の正体だった。
宮中に潜入し、ありとあらゆる者に媚びを売り、王や王妃からの寵愛を手に入れ、さらには世子の心をも得た医女。その目的は、復讐だ。
リョンハが七歳だった頃。
その父は、逆賊として配流の後に賜死とされた。遠い島に送られ、毒の薬を飲んで死ぬ羽目になった。
母と妹とリョンハは、父とは違う島へと流されることになったものの、その船が
母と妹らの悲劇のことを聞いた兄は、配流先で自殺。これはリョンハが宮中に入ってから知ったことだ。
彼女は島でひとりの老婆に拾われ、ペク・リョンハとして生きることになった。
父の件は冤罪ではないかと疑っていた彼女は、やがて十歳の頃に老婆と共に都へ向かい、真相を暴くために医女見習いとして王宮に入り込む。
父と母と妹を亡くし、さらには兄も失っていたと知った彼女は、そこで復讐の鬼と化した。
彼女が十一歳の時に、育ての老婆も天に召され、そうするともう怖いものなしだった。
リョンハは、若き王を恨んでいた。当時はまだ十代だった王の命令で、家族は罪人とされたから。
だから彼女は、王の主治医にまで上り詰め、密かに毒をあたえてゆっくりと殺した。是が非でも己の手で殺したかった。完全犯罪にするつもりだった。
そして彼女は、さらに恐ろしいことを考えた。世子に毒薬を飲ませ、手脚を痺れさせ、不自由な身体にさせようと企んだのだ。女は、畏れ多くも、世子に歪んだ愛を向けていた。
リョンハ。寵愛を利用し、主治医の座について王を殺した女。恐ろしい欲を抱き、世子の健康をも害そうとした。そんな悪女が死罪となるのは当然だ。
そうして彼女は、王を看取ってから一週間もしないうちに斬首刑に処され、十七歳で命を落とした。あっけない最期だった。
――と。これが、彼の恋した相手の死に様だ。
こういうわけで、彼女は死んだ。
ちょっと前まで、これが真実とされていた。
しかし、もちろん、このままでは終わらない。彼女の言葉を聞いたルェが、まだ生きている。王位は叔父のものとなっても、彼は彼女に託されていた。ここで生き延びることを。悪を裁いて正すことを。
そう、これは、すべてが彼女の筋書き通りのこと。完全犯罪を目論んだものの失敗した、最後の最後で詰めの甘さが出た、哀れな天才――では、ない。
彼女は最後まで完璧に、計画通りに死を遂げた。彼女は本物の天才だ。
まず、王の死について。
実は彼女は
医女リョンハは、最初から最後まで、王の希望通りに治療を行なった。世子と出会ったあの日、王が医女に頼んだのは〝最後まで王らしく生きさせてくれ〟ということだった。それは、つまり、無理な延命はするなという命令だ。
もともと身体の強くなかった王は、公には知られていなかったものの、不治の病に侵されていた。リョンハも他の医官らも治そうとしたが、どう足掻いても無理だった。
どんな生き物も、いつかは死ぬ。口に出したら不敬であろうが、王もまた同じであった。あとは、どこまで延命するか、というところだった。
この世界には、あやかしがいる。
あやかしの力を借りた治療を施せば、もっと生きること自体はできただろう。けれど、あやかしをもって命を繋げさせるということは、そのひとの一部をあやかしに乗っ取られるということだ。治療を続ければ続けるほど、彼が彼でなくなっていく。人間らしさを失っていく。
そこでリョンハは、これから選べる治療法とその行く末をすべて王に伝え、話し合い、治療方針を決めることにした。
彼女は最後までより良い方法を模索し続け、王が最後の日まで執務をしたり、子どもや妃嬪と話したりできるようにした。〝こんなに安らかに終われるとは思っていなかった〟と、王はお付きの内官にこぼしていたという。
ルェの父王の最期は、リョンハのおかげで穏やかだった。父王を愛する者たちに見守られて、眠るように、その生涯に幕を下ろした。
それが、ルェが見た光景と、彼女や父が遺して隠していた記録を元に、彼が導き出した真実の姿だ。
次に、リョンハの復讐の根とされた事件について。彼女の父のこと。これについては、ルェが行なった調査の結果、冤罪であったとわかった。しかも裏で手を引いていたのは、当時まだ十歳そこそこであった
執拗に王位を狙って様々な悪事に手を染めていた彼は、幼い頃から、自分の罪や失敗の責任を他人になすりつけることが得意な男であった。いやらしく卑怯なやつだ。
後に彼自身が獄中で語ったところによると、彼はどこか遠い世界の記憶をもつ〝転生者〟というやつだったらしい。
この件でリョンハが王を恨んでいたとあるのも、
大妃は末っ子の
待ちに待った、あの男の断罪の日のこと。
イム一族が気に入らなかったとは何だとルェが問えば、彼の生まれた世界にあった〝劇〟が何やらと大君は吐いた。〝俺が死ぬ運命を変えるために〟だと。もしかすると彼こそ一種の精神病を患っているのかもしれない。
ともあれ、二十年前、リョンハが〝おかしい証言〟をしたのは、彼女らしくない言葉を遺したのは、後ほど誰かに真相に気づいてほしかったからかもしれないな。とルェは思う。
自分が彼女の真相を追い求めた理由を、自分だけでなく、彼女のせいにもしたかっただけかもしれないが。
自分が知りたがっただけでなく、彼女も気づいてほしかったのだ。と。一方通行の想いではないのだと。そう。
また、世子に毒薬を盛ろうとしていたこと。部屋に毒薬があったこと。これらについては、ふたつの目的があると思われた。
ひとつは、ルェの兄、
自分が起こした事件を利用して他の王族を追い詰めるというのは、
やっぱり気に入らないが、彼女は、彼のことも可愛がっていたようだから。
(いや、そうでなくとも、彼女は、命を大切にするひとだったか……。自分の命、以外は)
また、もうひとつの理由は――自分が飲むため、だったのだとルェは思う。あるいは、飲んだとルェに思わせるためだと。
リョンハは拷問をうけ、首を斬られて死んだ。演技の上手いリョンハのことだ。作り上げた自白をする気で尋問場にいても、怪しまれないよう、しばらくは痛めつけられていたであろう。拷問されるよう振る舞ったのだろう。
その時に、痛みを誤魔化せるよう、彼女は手脚の感覚を奪う毒薬を飲んでいたのではないか。とルェは思う。ただの願望かもしれない。
(そなたは、もう、死んでいるのに。できるだけ苦しまずにいてほしいと。終わったことなのに、願ってしまう)
リョンハだって人間だ。痛くないはずがない。それなのに、きっとルェを想って、あんなことを言ったのだ。
――私は、強い女の子ですから。なんて。
彼女は自分で毒薬を飲んでいたから、そんなに痛くなかったはずだ。そうルェに思わせる仕掛けまで残して、死んでいった。
彼女は、ひとりきりで処刑された。イェリといった身近な者は先に王宮から逃がして、彼ら彼女らが巻き込まれないようにして。
あとちょっとで完全犯罪というくらいに綿密な証拠を作り上げ、調子に乗った天才がひとりで犯した恐ろしい過ちと見せかけた。それは見事に成功していた。
彼女は王を最後まで王らしく生きさせ、その子どもらの未来も守って散った。
水槽を泳ぐ魚に向け、ルェは呟く。
「そなたを連れて、ぼくが逃げられたらよかった、と。よく思うんだ。あの頃のぼくは、無力な子どもで。たった六歳で。そんなこと叶わないのに。莫迦らしいだろう?」
透明な玻璃に唇を寄せる。冷たい。彼女のぬくもりが、まだ恋しい。
「なあ、リョンハ。生まれ変わりだと、あの日に言ってくれたな。もう一度、生まれ変われはしないか? そうしたら――」
今度は絶対に守ってみせる。
今度は一緒に生きてみせる。
そして、
「今度は一緒に、死んでくれ。最後まで、隣にいてほしい。リョンハ」
彼女は、ひとりきりで死んだ。悪いやつらを道連れにすることもなく、ひとりきりで。それは、人を死なせたくない彼女の優しさだろうか。
それとも――ルェへの〝甘え〟だろうか。
『貴方が裁いてくれるでしょう?』
そんな声が聞こえた、気がした。
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