六、れいかと蓮花−参
可愛い世子は、この生まれ変わりの魚をいたく気に入り、東宮殿で飼いたいとまで言いだした。すぐに飼うことを検討する流れになった。
護衛が陶磁器を外に持っていき、内官も誰かに呼ばれて出ていく。物言わぬ壁はイェリだけになった。
(ドラマの世界だと、こういう場面で世子様が抜け出してしまうものなのよねぇ。こちらの世子様は、どうしておひとりになれてしまったのかしら?)
知的好奇心の旺盛らしい世子は、リョンハと話していて興奮したのか、はたまた熱でも出してしまったか、赤い頬をして彼女を見つめた。リョンハはゆるふわりと微笑んで言う。
「あら、お顔が赤くなっていらっしゃいますね? 大丈夫ですか? 世子様」
「べ、べつに、大丈夫だっ」
(と言われましても……)
ここでさらに赤くなられては、診ずにはいられない。結局リョンハは医女らしく、もう一度診察した。世子はおとなしく彼女に診られた。
結果、全然しっかり大丈夫そうだった。
「――なあ、リョンハ」
「はい、世子様」
診察のために触れていた彼から離れようとした、その時。
世子は子どもらしい無邪気な力で彼女の手を引っぱり、耳元に唇を寄せた。リョンハにはわからなかった。彼のそうした理由が。
実は、彼自身もわかっていなかった。自分で自分が不思議だった。これは心から来る動きだったから。
ただ、彼女と共有する秘密をつくりたい。そういう欲が出たのかもしれない。この賢い医女と、なにがなんでも仲良くなりたかったのかもしれない。後に思う。
ここには、恋の種こそあれど、まだ何も芽生えてはいない。世子はこれから、月日を重ねて彼女を知る。
彼女を喪った後で、これを〝初恋〟と名付ける。
王妃の歪んだ思惑は、半分成功で半分失敗だ。
十六歳の医女と五歳の世子。ふたりの関係は、もちろんのこと健全だった。恋愛に育つ前に終わりを迎えた。リョンハは王の御手付きにもならず、世子の御手付きにもならず、王妃からの最後の願いを叶えずひとりで死んだ。これは失敗。
されど、
やがて彼は、
その女は、医女にはあらずとも王を癒やす女であった。王を救い、王の子を生み、しまいには〝
この国の王室は、二十数年の時を経て、彼女を手に入れる。
後宮という籠の中で、大事に手折られる花。
そんな未来や来世は露ほども知らない、ふたり。東宮殿、現在。
今、ここに新たな糸が生まれる。縁が強まる。
十六歳の彼女の耳に、声が聞こえた。
――れいか。と。
そう、五歳の彼が呟いたように空耳した。
「え――?」
もちろん、ほんとうに〝
風邪をひいた彼女を心配する時、やたらと弱々しく、か細くなる、優しい父のような声だった。懐かしくって、愛おしい。前世の家族みたいな声。呼び方。れいか。
「あの魚の名前だ。こう名付けることに、した。飼えるようになったら、そう呼ぶ」
「……左様、ですか…………」
「な、なぜ泣くのだ!?」
「あ、こ、これは!」
リョンハらしくなかった。こんな間違いをしたのは初めてだった。聞き間違いなんかで心を揺らすなんて
でも、彼女の泣き方は、
「きれいだ――」
すぅ……っと、ゆっくりと。
左の眦から一粒の雫が落ちる。世子はそれを呆然と眺めていた。まさかこの女人が泣くとは……。自分の唇からこぼれた〝きれい〟には気づかず、無意識に見惚れる。リョンハも動転して聞いていなかった。
リョンハは言い訳した。
「い、医学、研究の一貫で! 美女の涙も薬になるんじゃないかなって! いつでも泣けるように訓練しているところなんですっ」
二粒目は、右からだった。世子の目に、それは真珠のように見えた。
思わず動いた。
「ほら、あれ、美少年の小水も薬に――びゃっ」
彼女の眦に口づけ、涙を掬う。さっきの池の水より断然
「きれいだ。リョンハ」
「えっ」
はらはらと、三粒目と四粒目が頬を伝う。世子はにやりと笑って「泣き虫」と言い、その雫も唇で掬った。母の真似だった。
この国の王妃である母曰く。大切なひとが泣いている時に、その涙を掬って味わうこと。それは愛情表現になるらしい。内緒の話だった。大切なひとにだけしなさいと教えられた。
「リョンハ」
「は、はい」
「そなたのおかげで、蓮の花を嫌いではなくなった。礼を言う。やっぱりきれいだな」
「それは、良かったです……」
「好きだ」
「はい」
これが年相応の言動ではない自覚は、彼にもある。まだ子どもなのに、
今日は頑張って〝嘘泣き〟もしたのに、ここでも女を惑わせないようにと〝可愛くない〟ふりをしていたはずなのに、結局また長続きしなかった。知っていることを知らないふりをするのは、幼い矜持が許さない。知りたいことは知りたいと言いたい。うまく莫迦のふりをできない。
いつもなら、失敗だと思うはずのことだった。でも今日は違った。これは失敗じゃないと思えた。
――だって彼女は、ぼくの異才を感じても、変わらない。そのまま可愛い。嫌な目をしない。
彼の知能は、いわば突出していた。けれど心は、ちょっと大人びたくらいの五歳児だ。その不均衡に、彼は苦しんでいた。
心は子どもだが、頭脳は並の大人以上。科挙の首席合格者の才をも凌駕すると噂される世子。優れていることが苦痛になるという違和感を抱えた彼に、リョンハは、彼女の想像以上に癒やしをあたえた。救いとなった。
今日という日と、彼女という女は、彼の人生を狂わせる。
――絶対に、逃さない。母上のおもちゃでも。ぼくの方がおもしろく遊べる。
〝大切〟も〝きれい〟も〝好き〟も、ほんとうだった。子どもの心で感じた本音だ。
こんなにも〝感情〟を抱けたのは初めてだった。心が動いた時なのに、初めて、頭脳と摩擦する異音を聞かなかった。きしきしと鳴らなかった。抵抗なく、想えた。
――彼女といれば、痛くない。このひとに
恋でなくとも好き、惹かれていた。可愛いと、愛おしいと感じた。驚くくらいに気が合い、話していて楽しい。世子も、医女も、どちらも同じ想いを抱いた。
彼は、彼女の仮面を継ぐ。生き延びるための演技を、彼女との日々で身につける。
イ・ルェ。
(――さて。それなりに
東宮殿での初診療を終え、イェリや医女見習いを連れ、リョンハは考え事をしながら歩いた。
(それとなーく、聞いてみて。仕草を見て、これまでのことも踏まえて、考えると。
その生まれから、難しい関係でもある、おふたりだけど。世子様は
池に落ちた瞬間が誰にも見えなかったことには、蓮花とは他のあやかしも絡んでいるのかもしれないわね。過去のあやかし関係の事件のことも振り返れば、手掛かりが得られそう。このやり口からして、あの男の企みのひとつである線が濃厚――
また、
(絶対に、逃さない。逃さない――)
黒い感情を燃やす彼女の胸に、ふと、先ほどの声がよぎる。――れいか。その思い出に、心の黒が明るさを帯びる。
ただの聞き間違い。それでもよかった。たったひと時でも、前世の父の声を感じさせてくれたなら。
この医女には、ふたつの人生の記憶がある。リョンハには、ここではない世界で、他の人生を生きた記憶がある。
前世の彼女――名を、今の名と同じ字で〝玲夏〟と、読みを〝れいか〟という娘。れいかの母は日本人で、父は韓国人。ロマンチックな恋愛結婚だったという。
大学時代に短期留学先のフランスで出会い、韓国と日本という海を隔てた遠距離恋愛を経て、大学卒業後にはアメリカで数年間の同棲をし、母の妊娠をきっかけに日本に引っ越して籍を入れた。結婚式はハワイだった。しょっちゅういろいろな国に行く両親だった。
東京の病院で無事に生まれた赤ん坊は、玲夏と名づけられ、すくすくと育った。中学受験をして私立の女子校に通い、エスカレーター式に進んだ高校時代には友人と一緒にK-POPアイドルやイケメン俳優を推し、ときたま新大久保に出かけてサムギョプサルだのチーズタッカルビだのを食べていた。SNSの自己紹介欄にハングルで自分の名前やひと言を書くのが流行りだった。もちろん全力で乗っていた。
そんな量産型キラキラ女子高生は、やがて大学受験生になり、医学部の学生になり、――六年生の春にぽっくり死んだ。最後の記憶はお風呂。水中だ。トラブル続きで疲れていた日だった。
きっと浴槽の中で眠ってしまって。はっとした時には水中で、起き上がろうとしたけれど無理だった。そのまま、苦しさと眠気とが拮抗して――終わった。
一度目の人生でも、二度目の人生でも、彼女は水の中で死を知った。一度目の死は自分の死。二度目は愛する家族の死。
(ああ、死にたくないな)
前世の家族と友人を想い、東宮殿で世子と過ごした時間を想い、そんな邪念が顔を出す。今日思い出したばかりの死が胸を刺す。
あの賢い子は、きっとリョンハ以上にたくさんのひとから愛される大人になるのだろう。リョンハはその未来を守りたかった。彼の道が途中で潰えぬよう、ほんとうのほんとうに頑張ろうと思った。
彼に王になってほしいと思ったのもほんとうだ。俺様っぽいところはあっても、きっと名君になる。その姿を見てみたかった。
(でも、私が死ぬのが、いちばん……)
その才能を遺憾なく発揮し、完璧に仕上げた計画。すべてを思い通りにした悪女として死ぬ医女・リョンハ。
彼女の計画と真実に世子が辿り着くのは、彼女の死から十三年後――叔父に奪われた王位を奪い返し、王になった後のことだ。
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