五、れいかと蓮花−弐
医女リョンハは、十六歳。まだ若い女だった。
世子は、五歳。隣の皇帝から先日冊封され、
前世の感覚で言うなら、高校生の女の子と、幼稚園生の男の子くらいの年齢だ。ここでの身分は大きく離れているが、今の状況を前世らしく喩えるなら――近所に住む男の子と、彼の面倒を見て可愛がってくれとそのお母さんに頼まれた理系の女子高生。お母さんは彼女を息子のお嫁さんにしたいくらいのいい子だわぁとお茶目に思っている。といったところか。
今のリョンハが世子の妻になることは、もちろん無い。身分が違う。もしも両班の娘のままだとしても、年が離れすぎている。
彼の
「
「きょうから嫌いになった」
「……左様ですか。先ほどは怖い思いをなされましたものね。私も恐ろしかったです」
「そなたは、先ほどのものか?」
「はい、世子様。お許しを得ずに御身に触れた不敬を――」
「そういうのは、いい。なぜ
「王妃様のご命令です」
「なるほど、母上の〝新しいおもちゃ〟か」
「……そうかもしれません」
(うーん。〝俺様キャラ〟のパターンかな。ドラマに出てくる〝世子様〟は、俺様とか〝ツンデレ〟っぽいのが多いんだよねぇ)
前世の彼女は、時代劇ドラマと医療ドラマを好んで見ていた。とあるドラマのお医者さんに憧れて、医者になろうという夢も抱いたものだ。定番の展開やキャラクター設定は頭に入っている。彼は〝いかにも〟な〝世子様〟だった。
(まかり間違えたら〝暴君〟になっちゃいそう……!)
リョンハはさらに気を引き締めた。とびきり可愛く見えるよう笑ってみせた。すると、どうしたことだろう、世子は薬を飲まされたかのような苦々しい顔をした。
(あら? うまく笑えなかったかしら?)
リョンハは自分の才能と美貌をそれなりに評価しているが、自惚れてはいない。武器は磨かなくては錆びてしまう。それらを武器として扱い続けられるように、さらに強い女になれるように、自己研鑽の努力は欠かさなかった。
けれども世子の心を得るには、まだ足らなかったのだろう。子どもに好かれる立ち居振る舞いを研究しよう! と頭の中に書き留めた。筆文字で大きく書いておいた。
気を取り直し、今のリョンハにできる〝いちばん可愛い顔〟をして、彼女は陶磁器の中の蓮花を手のひらで指す。
「こちらは、先ほど池にいたあやかしです。人間を魅了するもので、うっとりと幸せな気分にさせます。眺めていると、心が元気になるのです」
しかし世子は、彼女の方には目もくれない。唇をきゅっと結び、やわらかな頬をぷっくりと膨らませている。不満げな様子だ。
「――とは言え、世子様は、これのせいで水底へと引き込まれてしまったのでしょう。蓮の花やあやかしがお嫌になってしまうお気持ちも、痛いほどにわかります。貴方の傷つかれたお心を癒やすのも、私の役目です」
「世子の機嫌までとらないといけないとは、医女は大変だな」
「病は気から、とも言います。心の不調を治すのも仕事です。大変ですが、楽しいですよ」
「物好きな女人だ」
リョンハは、めげない。生意気な五歳児ねと思わなくもないけれど。意外にチョロくなかったわねと思わなくもないけれど。
「どうかご覧くださいませ……。
切なげにお願いしてみると、彼の眼球が微かに動いた。これは行けるわね、とリョンハは計算し尽くした動きをする。
雪のように白い医女の手は、ゆっくりと、あやかしに触れた。世子の目を惹きつける花のように、舞う花びらや蝶々のように。
そして彼女の声は、音楽のように語りかける。
「この蓮花のあやかしには、
――世子様は、花の生まれ変わりをご存知ですか?
花のあやかしの命は短く、夜には死ぬ。朝に咲いて夜に閉じ眠り、また朝に咲く。そう、花は何度も死に咲く。生まれる。何度も同じ姿で生まれるものなのです。子を生むまでは同じ花として咲き、眠り、また咲き続けます。
これも一種の生まれ変わりと言えますが、新たな命を生み出す時のあやかしの姿もまた生まれ変わりと言えましょう。今度は散った花が子になるのです。花は子どもに生まれ変わるのです。この子は他のあやかしの力を、命をもらい、今は交わったも同然の身にあります。ゆえに――」
医女は言葉を止め、世子を見た。彼のきらきらとした目は、彼女の望み通りに、蓮の花を見つめているようだ。リョンハは嬉しくなった。
「これから、新しい命に、この子の子どもに生まれ変わります」
このあやかしは、人間の手によって、他のあやかしの力を身に宿された。種だけもらって、ひとり、水底に咲き誇っていた。
この子には助けが必要だった。ひとりきりでは生まれ変われないから。虫や魚や鳥のあやかしと一緒でなければ、ただの花として散って死んでしまうから。繊細なあやかしなのだ。
リョンハの手は、あやかしの代わりだった。夫の代わりだった。愛でるように撫でる。大丈夫。あなたは、きれいに生まれ変われる――心を込めて触れていた。白魚の手は、この花の
はらり。と一枚の花びらが落ちる。跳ねた水の粒は、きらりと光る。ひらり。ぴちゃり。ほどけた花びらは水面に広がり、それを追う雄しべは揺らめき、真ん中の花托は雌しべと一緒に水底へと沈んでいった。リョンハは水から手を引いた。
「……これで終わりか? もう?」
世子は恐れるような、緊張したような声を出した。
「いいえ。よく見ていてください」
リョンハは優しく、また雪の手で陶磁器を指す。
世子を真似るように、リョンハも、ただ器の中を覗き込んだ。ふたり一緒に、蓮花の生まれ変わりを見守った。
水面に浮かぶ花びらと雄しべをじぃっと見ると、ふるふると震えている。小さく動いている。白と淡紅の色をした花びらに、黄色の雄しべが近づく。ぴたりと寄り添う。やがて花びらは、花托の方へと泳ぎだした。雄しべを尾びれのように動かし、ひらひらと。
「――あ」
「あっ」
世子とリョンハは、ほとんど同時に声を上げた。ふたりはほんのりと頬を赤くする。
世子は、なんとなく照れくさかったためだった。実は、さっきから、若い医女にどぎまぎしていた。
リョンハは、〝ついうっかり、無邪気に観察して夢中になるなんて子どもみたい〟と自らの振る舞いを幼稚に感じて恥ずかしくなったのだった。
花びらは花托に口づけるようにくっついて、一斉に光った。光が落ち着いていくと、その姿はすっかりと変わっている。
雄しべの黄色は背びれや胸びれになり、白と紅は濃淡のあるひとつの体に。翡翠のようなふたつの眼は、先ほどの光を集めたかのように輝く。
蓮の花は、無事に、一匹の魚へと生まれ変わったのだ。
「すごい」
世子は素直な声を出した。リョンハも「すごかったですね」と素直に言った。蓮の花の生まれ変わりの場面を見るのは、彼女も初めてである。世子は、好奇心の滲む笑顔をリョンハへと向けた。眩しいくらいに可愛い顔だった。
「花のあやかしについて、よく語ってくれたな。専門ではないであろうに。そなたは、とても物知りのようだ。医女とは皆がそうなのか?」
「皆が皆、私のようだとは言えません。でも、学ぶことが好きな女は多いです」
「へぇ。この花について、もっと知っていることはないか? おもしろい話が聞いてみたい」
(やったー! 私に〝面白さ〟を期待してもらえるところまで行けた……!)
あやかしの生まれ変わりという奇蹟の瞬間に頼ったところもあるが。無事に関心はもらえたようだ。リョンハは意気揚々と、にこにこ笑顔で話をした。
目的のために近づいても、本気で楽しくなってしまう。演技から始めても、そばにいる〝時〟を楽しめる。相手が敵でも味方でも。これは彼女の美点であり、時に弱味となるところであった。
「蓮は、不思議な花でして。この、今は水に沈んでいるところ、
しかも、この花托、とっても栄養豊富なのです! 花ではない生き物に生まれ変わった子は、この母の花托にある実と蜜を餌とするだけでも、二十年は生きられると言われております。また、薬の材料にもなります。
さらにさらに、この花托! どういうわけか、水をも生み出します。もしも器に入れたまま放っておかれても、お魚さんは、おとなになれて――」
ほんとうに――楽しかった。幼い世子は、これまで出会ったどんな子どもよりも賢かった。
医学教育を仕事にしていた時のようにたっぷりの熱量で、リョンハは花とあやかしのことを世子に教えた。彼に教えることを仕事にする
医女をやめる気も、他の道を歩めるような時間も、リョンハにはない。それでも、これからもここに来たいと心から思った。もっと世子と話したいと分不相応にも願った。
この感情を、リョンハは〝敬愛〟と名付ける。その想いを胸に、残りの時を駆け抜ける。
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