四、れいかと蓮花−壱
リョンハが
なるほど、王妃もリョンハと同じように、彼女が東宮殿に行くことになると察していたようだ。支度ができたら中宮殿に寄れ、一緒に行こう、とのことだった。今の恰好のままでとも指示されていた。
(となると、向こうでは、薄青の前掛けをすればいいかしら。あとは――)
医女見習いにも手伝ってもらい、支度を進める。護衛の可愛い力持ち医女・イェリは、ちゃぷちゃぷと水音のする蓋付きの木桶を持ってきた。
「おかえり、リョンハ」
「ただいま、イェリ。これは?」
「あやかし。見てみて」
蓋を開けると、あの蓮花のあやかしが水に浸かってふよふよしていた。長かった茎は切られ、今は花と萼だけの姿になっている。
リョンハは「ありがとう」とイェリに言い、水桶の中に向けて「ちょっと触るね」と言ってから、その子に触れて持ち上げた。〝
「うまく取れているわね。誰がやったの?」
「イム医官。〝おれがやる!〟ってうるさかった」
(ああ、私のイェリに、かっこいいところを見せたかったのね。きっと)
イム医官は、言葉にこそしないものの、イェリのことを明らかに好いている。リョンハの弟子や同僚にあたる男だ。数年前からリョンハは、その恋の行方をこっそり見守っていた。
リョンハが
「抜き取った棘は、どこにあるの?」
「
「なるほど、水蜥蜴ね。それなら水底で咲くのも納得。傷口に刺さっていたのを見ただけだけど、私も異論はないわ。これについては、
一方、
中身に多少の違いはあるとは言え、これらは、前世の時代劇や歴史書にも出てきたものだった。
「ねえ、リョンハ。
「あら、そう? ――ありがとう」
イェリはリョンハの髪へと手を伸ばし、簪を直す――ふりをした。ほんとうは曲がってなどいない。ただ触れたかっただけ。なんとなく。
「では、行きましょうか」
「うん」
支度を終えると、リョンハとイェリと見習いふたりは、中宮殿へと歩きだした。
鮮やかな色付きの服を着て、髪飾りをつけ、女らを連れたリョンハは、ほんとうの
自分がその隣にいつもいられるのは、彼女を守れと王に命じられたから。彼女が特別な存在だから。そう、わかっているのにもかかわらず。
リョンハがチマを裏返しに着ている姿は、イェリも、誰も、見たことがない。彼女は王に抱かれてなどいないはず。それなのに、今のリョンハは、王に愛される女らしく見えた。
池に飛び込んだ後か、謁見の後か、今日のどこからか、何かが変わってしまったようだった。誰かと心を通わせたんじゃないかしら、そんな気もした。自分がリョンハを慕っているせいで、異様に心配してしまうだけかもしれないけれど。
と。背後で護衛がもやもやした想いを募らせていることには、さすがのリョンハも気がつかない。だが、実のところ、イェリがおぼえた違和感は、かなりの精度で的を射ていた。
この日から、リョンハは、自分が死ぬ未来を見据えて生きていた。もう一度の死の覚悟を固めた日だった。
そして、この日は、もうひとつの運命の日だった。来世で結ばれるひとと、初めて触れあう
東宮殿に着いた。リョンハは王妃と一緒に、初めて世子の居室に足を踏み入れた。ほんのちょっぴり緊張していた。
「
リョンハは敏腕の医女だが、世子をと王に頼まれたのは、それだけのためではない。前世で言うところの〝探偵〟や間諜のような役割をも、王はリョンハに期待しているのだ。
十歳の頃に医女見習いになってから、リョンハはいつも宮中を嗅ぎまわっていた。当初は、復讐、あるいは正義のためだった。家族を死なせた陰謀の真相を知りたかった。
が、その目論見はなかなか難航しており、十六歳になった今もなお遂げられていない。わかったのは断片的なことだけだ。代わりにと言うべきか、調査や仕事の過程で、他の事件をいくつか解決してしまった。
その積み重ねから、いつしかリョンハは王や妃嬪にまで興味をもたれるようになり、こうして目立つようになったのだ。四方八方から信頼と親愛の情を向けられるようになったのだ。
それで、今日からは――〝世子の命を狙う不届き者から彼を守れ〟との王命を下された。〝世子を頼む〟と。
大人になるまでを見守ることはできずとも、彼が生き残れる道を、
そのためには、リョンハは、世子にも懐かれなくてはならない。王妃もそれを望んでいるらしいのは好都合だった。存分に甘え、利用させてもらう。使えるものは何でも使う。人も、物も、時間も、いくらあっても足りないくらいだ。
リョンハは
「内医院の医女、ペク・リョンハと申します。
「――母上。こちらは?」
「白衣の医女、リョンハだ。世子も噂くらいは聞いておろう」
世子は怪訝な顔をした。視界の端に見えるだけでも、可愛らしい顔立ちの男子だった。リョンハがその姿を見ることは叶わないだろうが、きっと美青年になると思う。どうか真っ直ぐに育ってほしいと願う。
リョンハは、医女らしく世子を診察した。彼の主治医である男の医官も、リョンハより前に東宮殿に来ていたという。身体に問題はなさそうだった。
ただ、心はちょっと弱っているようだ。池に落ちるという怖い目に遭ったからか、それとは他の理由があるのか。
リョンハと世子は、ふたりきりになった――と言っても、部屋の入口付近には、東宮殿の内官と護衛とイェリがいるのだが。ふたりきりも同然だった。世子の命が脅かされない限り、彼らは物言わぬ壁となる。
賤しい医女がこの場にいることを許されるのも、王や王妃が彼女へと向ける信頼の大きさのあらわれだ。頑張ったなぁ、と。我ながらしみじみする時もある。リョンハは頑張った。いっぱい頑張って、今の立場を手に入れた。
医女見習いが、陶磁の器を持ってきて、そそくさと下がった。さて、ここからだ。リョンハは〝面白い女〟を演じなければならない。世子に気に入られるために。愛されるために。
薄青の前掛けを脱ぎ、彼女はゆるふわりと笑った。
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