弥勒
弥勒
「ただいま」
「おかえり」ジュンの声がした。暗い部屋から。私は少しホッとした。
兄のジュンは網膜色素変性症という病気でもうじき目が見えなくなる。
この病気では外の光や明かりが刺激になって涙が止まらなくなるので、外に出る時はサングラスをするようにしている。
ジュンはリビングで食い入るようにアルバムを見つめていた。
「明かり、点けていいよ」
「いいよ」
「もうすぐ見えなくなるから」
ジュンが月明かりだけで今見ているのは、家族で花見に行った時の写真だった。満開の桜の下で母が笑っている。
私達にはもう両親がいない。私達兄妹がまだ幼い頃、事故で亡くなったのだ。事故といっていいものか。四人でテーマパークに向かう途中、歩道に突っ込んできた車にはねられたのだ。
車はそのまま走り去り、犯人はまだ捕まっていない。
菜乃子は自分の部屋に入り、明かりを点けて、スーツを脱いで、トレーナーに着がえた。
お隣の大家さんの広い庭には桜がもう咲き始めている。
季節は春の始まり。
桜の花は哀しい色だ。思い出が集約される。特に咲き始めの白い頃は。
それから私達は母方の親戚の家に預けられたのだが、いつも向けられる目が嫌で、ジュンが高校を出て働き始めると、すぐにアパートを借りて二人で住み始めた。
菜乃子は、もうジュンに言われない限り、花見は出来ないと思った。
兄の病気が分かった時、衝撃を受けたのは私の方だ。
これから起こる未来が、トンネルに入るように襲って来た。
兄は弱音を吐いたことがない。
そのことがかえって、菜乃子はジュンの苦悩を知るのだ。
菜乃子には付き合ってから3年目の恋人がいる。
先日、プロポーズされた。返事は待ってもらっていた。
ジュンには話していない。
私一人だけ幸せになっていいものか。
このままでいい、とさえ思う。
ささやかな悲しみと幸せとが入り混じった世界で。
菜乃子がリビングを横切り、ジュンの横を通った時もジュンは目を近付けてアルバムを見ていた。
「何が食べたい?」ありあわせの物で献立を考えていると、ジュンの声がした。
「菜乃子、いつかまた
「え・・」
風止。そこは両親がよく連れて行ってくれたキャンプ場だった。
「どうして?」
「もうすぐ、花見の時期だろ?」
私は声が出なかった。
「風止に行ったら、
「そ、そう・・」
私は兄に何も出来ない。
ここにこれがあるよ、と手を引いて教え、ジュンのグラスに並々とビールを注いだ。
「ありがとう」ジュンは嬉しそうにビールを飲み干した。
「今度の休みね」
「いつでもいいよ」
ジュンは無口になった。
よくこんな遠い所まで連れて来てくれたもんだったな、と菜乃子は風止までの地図を車中で見ながら、思った。
ジュンを助手席に乗せて丘を回って上る。
「菜乃子、寂しくないか?」ジュンがいきなり聞いた。
私はハッとした。
「何言ってるの。お兄ちゃん」菜乃子はハンドルをグッと握った。
弥勒菩薩堂が見えてきた。
風止はこの弥勒菩薩堂に付随する大きな公園なのだ。
駐車場に着くと、兄に肘を掴まらせて、公園を歩いた。
「桜、咲いてるか」
「ん、ちょっとね」ジュンと私は桜の木の下のベンチでおにぎりを食べた。
公園には誰もいなかった。まだ遊ぶには肌寒いせいだろう。
「お兄ちゃん、あのモニュメントまだ有るよ」
「そうか」兄は少し嬉しそうな声を出した。
具象と抽象を織り交ぜた様な彫像の台座には、「風が振り向けば」と題名が彫ってある。
ここは風が帰る所。だから風止なのだ。
「桜の匂いがする」ジュンが言った。
私は兄の肩に身をもたれてみた。
弥勒菩薩堂に入ると、ビックリした。先客がいたのだ。
痩せていて、頭を丸め、袈裟でも着ていたらどこかのお坊さんかと思えるような人だった。
音がしただろうに、振り向きもしない。
私達は少し離れた座布団に座った。
その人がお辞儀をしたので、会釈を返した。
とても悲しそうな目をした人だった。
「誰かいるの?」ジュンが聞いたので、「うん」と答えた。
子供の頃はただ退屈だったけど、今見ると趣が分かる。
私はただ無心に弥勒菩薩像を見上げていた。
「
「は?」私は思わず聞き返したが、「煩悩を捨て、辿り着く境地のことですよね」とジュンが答えた。
「真実の楽に辿り着けると言われていますね。キリスト教での最後の審判と、この弥勒菩薩の到来は、似ているようにも思われますが、キリスト教では人間は神にはなれません。仏教では悟りを得ることで、仏になれると言われていますね・・」男の人は弥勒菩薩像を見上げた。
「失礼しました」その人は私達に頭を下げ、出て行った。
「変わった人ね」私は言った。
ジュンは何も言わず、ただ微笑んだ。
帰ってみると、アパートの部屋のドアの前にバラの花束が置かれていた。
「何か花束が・・」私はそれを拾い上げてみた。
「何だろう?」
「見舞い、かな・・?」
私はドアを押して中に入った。
私は湿った新聞紙を解いて、それをグラスに差した。
「赤いね」ジュンが顔を近付けて見る。
私は少し笑った。
湿った新聞紙を畳んでいる時、信じられない物を見た。
あの日の新聞だった。お父さんとお母さんの写真。
私は短い悲鳴を上げ、台所に尻餅を突いて倒れた。
「どうした! 菜乃子!」ジュンが駆け寄って来た。拍子にテーブルが揺れて、花も水もグラスも落ちてきた。
「あの日! あの日の新聞だ・・! これ・・!」私は震えが止まらなかった。
ジュンが新聞を開いて見る。
「お兄ちゃん!」私は悲鳴を上げ続けた。
ジュンの頭があの記事の前でピタッと止まった。
ヒラと紙が落ちてきた。
菜乃子は拾い上げて見た。
「今日、弥勒菩薩堂でお会いしました」紙には男の住所と名前も書いてある。
私は声にもならない声を上げた。
「菜乃子!」ジュンが私を抱き締めた。頭の中であの男の顔がフラッシュバックして、菜乃子は何度も何度も吐いた。
私は介抱され、ジュンの部屋のベッドに寝かされていた。
「犯人かな」私は言った。
「多分ね」
「どうするの?」
ジュンは黙り続けていた。
「菜乃子。・・僕達も苦しんだけど、あの人も同じ様に苦しいんだよ」
「どうしてそんな事言うの、お兄ちゃん」
「菜乃子、そんな顔するな」兄を見ると、兄は泣いていた。
見えていないはずなのに、「そんな顔するな、菜乃子」とすすり泣いていた。
真夜中、リビングに行ってみるとジュンが何か書いていた。
ミミズの這ったような字で。あの人への手紙だった。
「手伝うよ」
私はジュンの口述筆記をした。
「私達は苦しみました。あなたももう充分苦しみました・・」
片手はずっと握り合ったままだった。
書き終えた手紙を封筒に入れてドアの外に貼った。
ジュンの白杖を買いに行った。
帰ってみると、手紙はなくなっていた。
「無いよ、お兄ちゃん」
「良かった」
それから、兄の猛特訓が始まった。
徐々に、私の補助なしでも道を歩けるようになった。
ニュースにも新聞にも載らなかったけど、あの人がどうしたか知らない。
そろそろ返事を聞かせてくれないか、と恋人に言われた。
私はやっぱり兄に相談した。
「幸せになれよ。菜乃子」ジュンは言った。一番ジュンが考えていたことは、私のことだったのだ。
「随分、長くかかったな」とジュンは笑った。私はジュンに抱きついて、離れなかった。ジュンはずっと私を抱き締めてくれていた。
結婚式、私はずっと泣いていた。
花束贈呈の時、ジュンが立ち上がって、私の結婚相手に向かって、「菜乃子をよろしくお願いします」と深々とお辞儀をした。
私はジュンを抱き締めた。
ありがとうも言えないで、ジュンの肩の上でただ泣いてしまった。
「菜乃子、お父さんとお母さんのいる天国は、きっと虹の高さにあって、きっと桜の花が咲いてる。僕達のこと、見守ってくれているんだよ。だから、幸せになれ。菜乃子」ジュンは泣いた。私に初めて見せてくれた涙だった。
菜乃子のいた部屋は少し静かになった。
でも、寂しくはないのだ。
ジュンは、何だか父と母に恩返しが出来たような、不思議な充足感に満たされていた。
三日にいっぺんは菜乃子がやって来る。新しい笑顔を下げて。
ジュンは幸せだった。
菜乃子はいつも思う。
私が振り向けば、きっと兄が笑っている。
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