ホテル パラドックス

ホテル パラドックス


ある夜半、思い立った。

僕は未来の自分の小説を読んだことがあるんじゃないのか。それを思い出してるんじゃないのか。

ある種、言い知れない恐怖を覚える。

僕は何一つしていないのと同じではないか。

スランプだ。

缶づめにされて小説が書けるものか。

パソコンを開いたり、閉じたりして、私はコンビニに行った。


アルカリ乾電池と観賞用のユーカリの苗を買って歩いていた。

私が泊まっているのは、「ホテル・ミス・サンシャイン」だ。

このひなびた寒村に唯一の大きな建物だ。

何故ホテル・ミス・サンシャインなのかと言うと、海岸で行われるこの村の恒例の行事で、ミス・サンシャインに選ばれた女が女将をしているからだ。

何十年か前の話だろう。建物も古いし、何より女将の化粧が古い。

「スランプだなー」私は呑気に呟いた。

またか。デジャ・ヴュだ。

デジャ・ヴュはほんの少し未来が見えたような気になる。

思い出せる。

この頃、多いな。

昔を見てるみたいだ。

私はこれからどうなるか知ってる、ような気がする。


ホテルに着いて、またパソコンを開けたが、何も思い付かず、閉じた。

ユーカリのポットをパソコンの裏に置いた。

夜風呂にでも行ってみるか。

スランプは背泳ぎを途中で止めたような感覚になる。

トランスが長く続かないように、スランプも長くは続かない。

私はそうタカをくくっていた。

脱衣所に入ると、アヒルの玩具を踏んづけてしまった。どこかの子供が忘れていったのだろう。

中には、常連客らしい中年の男性が服を脱いでいるところだった。酒を飲んでいるのか、顔も赤いし、足元も頼りない。靴下を脱ぐ時にフラついている。

私は眼鏡を外し、浴衣を脱いだ。

「あんた、見ない顔だね」話しかけられた。

「ええ、まあ」私はよく見えない目でその人を見、笑った。

「あの女将、色っぽいだろ?」赤い顔をしたおじさんはそう言って、イヒヒと笑った。

「ええ、まあ・・」私は笑い返した。

私達は同じタイミングで風呂場に入ることになった。

「そうかい。小説ねえ・・」おじさんは大して興味も無さそうに話している。

「神様ってのはな、温泉に入りに来た俺達と一緒さ。大事なところは隠してる」

「正に神秘ですね」

「あんた、話分かるねえ」と言って、またイヒヒと笑う。

あれ? またデジャ・ヴュだ。

この景色を前に見た。

そんなはずないのに。

変わり映えない日常がそうさせるのか。

「何だい? 考え事かい?」いきなり無口になった私にそう聞く。

「いえ、ちょっと・・」

「スランプかー。でもいいねー、やる事があって。でも、無理しちゃダメよ」女言葉になっておじさんが言う。

湯に浸かって、同時にあーあと大きな息を吐く。

「あんたいい男だねえー。俺も昔はなあ・・」おじさんがため息を吐く。

「何ですか?」

「何言うか忘れちゃったよ」おじさんは黄色いタオルで顔を拭く。もう大事なところは隠していない。

「歳取るとダメだね。思い出せないことの方が多くなっちゃう」

「まるで孤独な人と、物語。この世界と何の違いがあろうか」

「ん? それ何?」

「僕の好きな短編の台詞なんです。何て言ったかな」

「歳取るには、まだ早いよ」おじさんはそう笑って、サウナに入っていった。

「体綺麗にしときなよ。いつあの女将に寝込み襲われるかも知れないからさ」と言い置いて。

「この頃すぐ忘れるなあ・・」

既視感。

この景色を前に見た。

そうか、僕は帰り道にいるのか。

帰り道にいるのか。

僕を生んでくれてありがとう。


自室に入って、「孤独な人と物語」を書いた。思いつくままに。

こんな事、前にもあった。

目の錯覚か。

こんな景色を前に見たような。

僕は知ってた。

僕は一本のライターに過ぎない。

花火も花も美しいと思わなかった僕が、今、朝日の輝きに感動しています。

私は朝日に仏を見ました。

ホテル・ミス・サンシャインも悪くない。

お母さん、産んでくれてありがとう。

「人生、捨てたもんじゃないぜ。な?」湯上がりのあのおじさんの言葉を思い出す。

「火照ってる?」

気弱になった時にはいつもお母さんを思い出す。

お母さん、あなたが私の家です。

ラッシュ。

スランプの果てにデジャ・ヴュ。

小説が面白いように運ぶ。


あの暗いホテル。

私は今でも思い出す。

あのホテルが私の子宮だったのだと。

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