Kiss of the gone

Kiss of the gone


 公園の、アシカの形をした椅子に、老人が一人、かけている。

彼は、節くれだった手を撫で合わせながら、「トッド・・」と呟いていた。

内ポケットから、四人が揃った家族写真を取り出して、眺めながら、妻の顔を指でなぞった。

雪がいつの間にか降り出して、細かな雪が迷子のように、あちらこちらに散っていた。


トッドは電話をとった。姉のヘレンからだ。

「こんな遅くに、どうしたの?」

「お父さんのことよ」

トッドは黙った。

「だしぬけに何だよ」トッドはちょっと笑った。

「お父さんのことよ」また、ヘレンが言った。

「親父がどうかした?」

「どうもしない。それが心配なの。母さんが亡くなってから、あれきり。何もしようとしないの」

「無気力状態?」

「そう。ねえ、トッド。アンリのことはお父さんに言ったの?」

「いや・・?」

「だって、あなたのフィアンセでしょ? お父さん、喜ぶわ」

「忙しいんだよ・・」

「ねえ、トッド。お父さんのこと、嫌いなの?」

「何で・・」

「だって、お父さんと口も利かなかったじゃない。母さんのお葬式の時も。あれからずっとよ? 母さんのお葬式の時は、あんなに泣いてたのに、」

「男どうしだからだろ?」ヘレンの声を打ち切って、トッドが言った。

「トッド。お姉ちゃんのお願いだから、もう一度、きちんとお父さんと会って。話をして?」

「嫌だよ」

「何で? トッド」

「そんなに頑張らなくていいよ。姉さん」

「私が頑張らなくちゃ、駄目になっちゃうじゃない!」

トッドは押し黙った。

「母さんが作った家族よ」ヘレンが言った。そのまま泣いちゃうんじゃないかというような声で言った。

「・・親父より先に母さんが死ぬなんて・・」トッドが言った。

ヘレンは少し黙って、「それが本音?」と聞いた。

「・・うん。そうだよ」

「あんた、最低ね」ヘレンは電話を切った。

トッドは携帯電話を見詰めたまま、黙っていた。


トッドとの電話を切って、ホッと、冷たい月に、白い息を吐いた。

ヘレンはスーパーマーケットでの買い物を終えて、車の外で電話をしていた。ドアを開けて、座席に寄り掛かると、エンジンもかけないで、回想を始めた。

父のフランクと母のテイラーは歳の離れた両親であった。父が50歳になる時、30歳になろうとしていた母と結婚したのだ。父は今、77歳。母は、2年前に、病気で55歳で亡くなった。

トッドは24歳。私は26歳で、結婚もして、子供も二人いる。

トッドと父との不仲は、これに始まったことではなかった。

トッドはお母さんっ子で、いつの頃からか、思春期頃からだろうか? 父を避けるようになってきて、父もその距離を近付けようとはしなかった。

それを取り持ってきたのが、母の笑顔だった。

母を失ったトッドは今、その亀裂を直す術を知らず、父も、その溝に気付いている。

私はそれを心配している。

母さん、戻って来てよ。何度、そう思ったことだろう。

私はトッドも父も愛している。

もう、傷つけない。誰も傷つけたくない。

ヘレンは、歯を食いしばって、エンジンをかけ、ハンドルを握った。


「テイラーが亡くなって、もう2年か・・」デイズがそう言った。

「ああ・・」フランクは指の間に煙草を挟み、そう唸った。

デイズは昔からの友である。デイズは久しぶりに訪ねて来てくれたのであった。今はフランクの庭先に置いたテーブルについて、二人で話をしていた。

デイズは複雑な顔で、フランクの指の間の煙草を見る。

フランクは長い間、テイラーと結婚してから、もう煙草をやめていたのだ。

その視線に気付いて、フランクも複雑な笑みを浮かべた。

「分かってるんだがな」フランクはそう言って、灰皿に煙草をもみ消した。

「この頃、どうだ?」

「ああ・・。良くない」フランクはまた少し笑った。

デイズは笑わずに、自分の手を見て、友への心からの助言を考えているようだった。

「まだ生きてる気がするんだ」フランクが言った。

「それも、分かるがね・・」また、同じ様に、今度はデイズが唸った。

「心配なのは、・・トッドのことだ。あいつ、どうしてるかな・・」フランクが言った。

「見に行ったらどうだ?」デイズが言う。

フランクは灰皿にもみ消された煙草を見ながら、黙った。

「駄目なんだよ、俺じゃあ・・」フランクがそう言った。

「テイラーか・・」デイズが唸る。

フランクは口をすぼめ、横を向いて、頬杖を突いた。

今は、サンサンと、家と庭に陽が降り注ぎ、まるで、あの頃のまま、四人がいるんじゃないか、と思えるようだった。


TVも音楽も本も、何もしたくない。

ボーッとしている時間が、多くなった。

何も考えていない瞳は、生気がなくなった。

一日が、長い。

疲れてもいないから、よく眠れない。

する事がない。

フランクは退屈の暗闇に、ソファに掛けていた。

いつの間にか、夕暮れが来て、去って行った。

笑い声がなくなってから久しい。

あなたには私がいないとだめなんだから。テイラーの声。子供達の笑い声。テイラーの笑い声・・。

フランクは気だるい体を起こし、寝室に行き、パジャマに着替え、ベッドに横になった。


真夜中、パチッと目が覚めた。

もう眠れない。そう思ったフランクは、ベッドから起き出し、ミルクを飲みにキッチンへ行った。フランクは酒が飲めない。

ミルクの入ったグラスを持ちながら、リビングに入った。

フランクは本棚に置かれた本を開いた。テイラーの作ったマリーゴールドの押し花のしおりを見たかったからだ。

開いてみた頁の間に、テイラーの赤茶色の髪の毛一本を見つけて、そっと指に乗せて、薬箱に入れた。


夜が明けてから、開店時刻を待って、フランクは近くのホームセンターへ行き、マリーゴールドの種をどっさり買い込んできた。

家に帰ると、早速、スコップを持って、庭中に種を植え回った。

フランクは笑顔だった。

昼頃、ヘレンがやって来た。

ヘレンは辺り一面に掘り返された跡が有る庭を見て、「どうしたの?」と聞いた。

「母さんが好きな花だよ」フランクはソファに居て、久しぶりに満足そうにして言った。


「親父、ボケたんじゃないか?」ヘレンからの電話でそのことを聞いて、トッドはそう言った。

「トッドのこと話したら、まじめに働いてるか? って聞いてたわ」

トッドは黙っていた。

「ねえ、トッド。トッドはお父さんのこと、どう思ってる?」

「老いた、木、かな?」

「私はお父さんのこと、立派だと思ってる。母さんがいなくなってから。私、お父さんのこと、好きよ」

「俺は・・・・」

「ねえ、トッド。遅れちゃいけないものって何? 愛情でしょ?」

トッドは黙っていた。

ヘレンは泣き出した。

「泣くなよ。姉さん・・」トッドは胸が痛んだ。

「お願いだから・・、私達、母さんにもっと、色んなこと、したかった。・・そうでしょ?でも、出来なかった・・。だから、・・お願いだから、・・お父さんが大事なの。ねえ、トッド、・・聞いてよ」ヘレンは子供達が寝静まった家から電話をかけていた。指で零れ落ちる涙を拭った。

「分かったよ」トッドは言った。

「うん・・」ヘレンは肯いた。

「いつか、話してみる。それまで、待っててくれよ。頼むから、姉さん、もう泣かないでよ」

「愛してるわ」

「うん。僕もだよ」

ヘレンとトッドは同時に電話を終えた。


まだ薄暗い早朝、フランクは庭に出て、マリーゴールドの種を植えた所を満足そうにして、叩いていた。

ポツポツと雨が降って来た。

フランクは上を見上げ、雨に打たれるままにしていた。

地面はぬかるんで、マリーゴールドの種を植えた所も泥みたいになった。

フランクはそこを指でなぞると、悲しそうに泥が付いた指を見詰めた。


青いトタンでできたバラックのような車庫の屋根に叩きつける雨の音が、聞こえる。

フランクは傘も差さずに、そこに佇んでいた。

そこにトッドが帰って来た。

トッドは驚いて、駆け寄って来た。

「どうしたんだよ!? 親父!」トッドは思わず、雨に濡れたフランクの肩を掴んだ。

フランクは雨に濡れて、震えていた。まるで少年みたいに。

「親父?・・」

フランクは何も言わずに、トッドの目を見詰めた。

「中に入れよ。な? 寒いだろ? 今、鍵、開けるから」ジャラジャラとキーホルダーをポケットから出して、トッドはドアを開けた。

フランクがトッドの手を掴んで、離した。トッドはフランクを見た。フランクもトッドを見ていた。

「父さんは母さんとずっと一緒にいたかった。キスしてる時も、電話で母さんと話してる時も、母さんが亡くなった時も・・」フランクはそう言って、泣き出した。少年のようにしゃくり上げて泣いた。

しばらく、トッドは泣いているフランクを見て、何も言わずに自分だけ中に入って、ドアを閉めた。

暗い中、トッドは傘の柄を握り締めていたが、渡せず、じっとドアの外の父の泣き声を聞いていた。


よく晴れた日だった。アンリを連れて、トッドは、フランクの家を訪れた。

フランクは出迎える。照れ臭そうにアンリを紹介するトッド。アンリと握手するフランク。

フランクはトッドを抱き締めた。


80歳の、フランクの誕生日。

マリーゴールドの咲き誇る庭でささやかな誕生パーティーが行われた。

ヘレンの家族と、アンリとトッド、生まれたばかりの赤ん坊をトッドが抱いていた。

孫たちに囲まれてフランクは笑っていた。

おてんばな方のヘレンの子供が、フランクに、手折ったマリーゴールドの花を差し出した。

フランクが、何だ? という顔を近付けると、「このお花、臭いの」と言った。

フランクもヘレンもトッドも笑った。

何を言われても、嬉しかった。


テイラーの写真の前に、フランクは座っていた。横に、この日の写真を入れるために空けておいた写真立てを置いていた。

「泣いてるの? お父さん」ヘレンが声をかけた。

「ありがとう」言ったのか聞きとれないくらいの声で言われた。フランクの背中は確かに泣いていた。

ヘレンはまだ庭で遊んでいるトッド達を見詰めて、赤くなった瞳で鼻をすすった。

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