Think twice

Think twice


 ジェーン・スロウバリーは、百年ぶりの夢のように、シル・グレイスリーの夢を見た。

きっと空腹のまま寝たからだ。

ベッドから身を起こした後も、呆然とジェーンは自分の白い肌の顔に触れていた。

うっすら汗もかいているようだ。

いつか知らぬ間に、泣いていた。


 ブロンドのカールの髪をした女の子だった。シル・グレイスリーは。

年齢もジェーンとほぼ変わらず、毎日ほぼ遊んでいた。

「ねえ、ジェーン」髪をかき上げ、そう問いかけるシル。

女の子の髪特有の、麗しい香りがした。

「何?」ジェーンはそう聞き返した。

シルは物憂げに話しを切り出す癖がある。

私たちはシルの家の広い庭で白い花の輪を作っていた。シルは座って花の輪を結んでいた。私は芝生に寝そべって、花の輪を結んでいた。

優しい朝だった。今日は日曜日、学校は休みだった。

シルの両親も、ジェーンの両親も教会にミサに出かけていた。

二人はそれをサボって、自由な朝を満喫していたのだった。

「僕らさ、幸せだよね」遠い太陽を仰ぎ見ながら、シルは言った。

シルは私たちのことを時々僕らと呼んだ。

その手は、まだ持っていた白い花の茎を指に巻き付けていた。

ジェーンも遠い太陽を見やって、「うん」と肯いた。

「大人って子供より不幸よね。それだけは言えるの」シルは半ば放心したように話した。

シルは、幸福感でいっぱいの少女だった。

何か辛いことがあっても、シルは決まってこう言うのだ。

「帰ったら、お母さんの顔が見れる。こんな幸せなことってないわ」

シルは学校帰りにこうも言った。

「私は頭がいいとか言われると、そうじゃないって思うし、頭が悪いって言われると、そうじゃないって思うんだな」シルは一人で考え込む人だった。だからこそ、私は好きだった。なんだか愛おしく思えるのだ。

遠い目をして、シルは何度かこう言った。

「天使様は泣かないの。だって、いつも希望を見いだすから」

私は、シルが何を考えているのかも分からずに、肯いた。

私達は一緒に森にアケビの実をよくもぎに行った。

私達はいつでも自分が何を考えているのかを、よく分からずに遊んでいた。

それぐらい子供だったのだ。

赤いレンガでできた塀を手で撫でながら歩いたり、海の砂浜に座り、砂を両手ですくいながらあれこれ話したり、それぞれの家の部屋に入り、あれはなんだ、あれはなんだと、インテリアの隅々まで尋ねたり、そうするのが楽しみだった。

熟慮するなんか、まだ知らなかった。

この先何が起きるかなんて、深く考えなかった。

ただ、笑っていれば、それで良かった。

じゃれてる猫みたいに。

まだ世界は神秘に包まれていた。

ずっとずっとそれで良かった。


ある日、シルは私に鉄道旅行に二人っきりで行こうと誘いに来た。

その頃、何かシルの両親は旅行中とかでいなかったのだ。

その間のお金として預けられたものを、鉄道旅行に使おうと言うのだ。

私は、行きたかったが一応、私の両親に聞いてみた。

その頃、春休みということもあってか、両親は呆気なく了解をしてくれた。

私達は、さっそく白い列車の旅を予約して、計画を立てた。

計画といっても、ただ、列車に乗って、着く先々で、遊ぶためだけのものだった。


名も知らない白い鳥が飛び去っていくのも、楽しかった。

お互いの帽子を手で押さえながら、客窓を開けて、ゆっくり流れていく景色を見ながら、私達ははしゃいでいた。

心から楽しかった。

長く短い旅は素敵だった。

私の人生の中で最も素敵な日々だった。

花火の前のシルも素敵だった。

花びらに染まる頬が綺麗だった。

何よりもシルと毎日一日中一緒にいることがたまらなく嬉しかった。

ある時、ホテルの温泉に一緒に入っている時に、シルが何か言いかけたのを感じた。

だが、私が「ん?」と顔をすると、シルはフフと微笑むだけだった。

私に何か言いたかったことは確かだ。

だが、彼女は何も言わなかった。

私はそれを気にかけるでもなく、湯船に浸かっていた。

多分、私は、子供だったから。


旅行が終わって、数日経ってから、シルが引っ越すことを聞いた。

その時、私はバカみたいにテレビを見ながら、お菓子を食べていたのだ。

背後のキッチンから、母が、「グレイスリーさん、引っ越すんですって。シルちゃんにお手紙でも書いたら?」と言ったのだ。

私は事態を把握するのに、少し時間がかかった。そして、母の方を振り向いて、「本当?」と聞いた。

母は申し訳なさそうに「うん」と頷いた。

知っていたのだ。何もかも。と、その時気付いた。

私は急いで、玄関に走って、靴をつっかけ、シルの家へ、ドアを出ようとした。

しかし、母が「ジェーン! 止めなさい! もう夜中でしょ!」と怒鳴って、私を止めた。

私は怯えたようにまた母の方を向き直って、「でも、シル、まだ起きてるよ」と言った。

エプロン姿の母は首を振って、優しく私の肩を抱いて、リビングに連れ戻した。

そして、説明してくれた。

シルの両親が田舎に古い家を買いに行ったこと。前もって、私の両親にその旨を伝えていたこと。その間に、私とシルが旅行したこと。シルは、何もかも知っていたこと。

私は放心状態になって、母の話を聞いてから、そのままベッドルームに上がった。

靴下が汚れていた。

窓から、シルの家にまだ灯りが点っていることを確かめてから、私は眠った。


シルの引っ越しの日、私は久しぶりにシルと顔を合わせた。

シルは何だか、透明な板の向こうにいるように、前より白く見えた。

微笑みとも悲哀ともつかない表情で私を見た。

シルの両親がシルに何か言って、肩をさすっている。

シルはゆっくり、私に近づいて来た。

それをみんなが見ているのが分かって、私は嫌だった。

シルが「ジェーン」とか細い声で私に手を差し伸べた。私は、「シル」と言っただけで、その手の平に自分の手の平を重ねた。か弱い力で握られた。シルの手は冷たかった。

シルが小さく肯いて、遠ざかっていった。

私は何も言葉を持たず、じっと車の中のシルを見つめていた。車の中のシルは朝日にかかる霧のように白かった。

シルの両親が「また会いに来るから!」と扉を閉めて、シルを乗せた車が道の向こうに消えていった。シルが私を見ることはなかった。

私は「また会えるかな?」とシルに心底から聞きたかった。


シルが引っ越した日、私は何も食べられなかった。

ただ、ベッドの端に片膝を付けて座り、窓の外を眺めていた。

そして、シャワールームで水を流したまま、裸で泣いた。

それが、本当の悲しみで泣いた初めてのことだったかも知れない。

泣いてばかりいる私を、両親は時々叱った。

泣いてちゃいけないのかしら。

私はそう思った。

いつか泣くのも忘れて、私は普段通りの私になっていった。

シルには何度も手紙を送った。しかし返事は返って来なかった。

唯一、送られてきたのは、それから数年たって、何も書かれていないクリスマスカードが私宛てに送られてきただけだった。

私はもう、シルを忘れていたと思っていた。


時が過ぎて、今、私は同じように、ベッドの端に座り、煙草を燃えるに任せていた。

戻りたい、と強く思う。どこのどの時分に戻りたいのか、分からないが、ただ、戻りたい。

「また会えるかな?」

ずっとずっと言えなかった。

天使様は泣かないの。だって、いつも希望を見いだすから。

私はあらゆる意味で、それを受け止めた。

本当の私を知っているのは、シルだけ。

天使は大人になれない。私は、いつまでも泣いた。

私はいつまでも泣いた。




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