鬼共の再会

「あー……、エラい目にあった……」

 歩く度、頭から被ったネオングリーンのスライムが地面に落ちる。力なくぼやいた口の間に頬から伝って来た粘液が滑り込み、慌てて閉じた。

 拭おうにも手もべっとりと汚れている。少しはマシにならないかと近くの壁に擦り付けた。裏路地の特有の湿った感触の壁に慌ててひっこめる。逆に汚れた気がする。駄目だ。頭働いてないな。

 トラブルばかりのこの街とは言え、歩いた跡がナメクジが這ったみたいな状態では電車に乗るのは気が引ける。疲労でぐらつこうとも、歩いて帰らねばならん。もうこの辺駅ないし。

 よたよたと足を進める。幸い、近所に買い物に行っただけだ。いやなんで近所に買い物に行っただけでこんなことになってんだ。

 眼鏡に垂れるスライムを指で拭いとる。度は入っていないとはいえ、レンズを通した視界は裸眼よりも情報量が多く、鬱陶しい。誰も居ない狭い路地だ。外そうか迷ったものの、念の為掛け直す。確率は低いとはいえ、鬼眼を狙われた時、対処するだけの元気はない。無暗に外すなと口煩い相手ももう居るのだ。

『まッたく、散々な目に逢ッたなァ』

 薄暗い路地の中、足元から聞こえた声に視線を向ける。のっぺりとした影の中、左眼だけが血の様に紅い。

 楽しそうな声色と瞳に無言で中指を立てる。『ヒャハハッ』とビルの間に反響する笑い声に眉を顰めた。

 まったくもう――懐かしいなぁこのやり取り!

 耳に障る笑い声。爛々と光る紅い瞳。その全てが愛おしい。

 ふふ、と小さく吐息を零す。頬を緩めたあたしに何を言っても喜ばせると悟ったのか、瞳の形が変わる。ゆるり不安定に泳いだ後に瞳を閉じた。天邪鬼め。平面じゃなかったとしたら、その眉間には深い皺が刻まれていただろう。んふふ。

 どうやら狂華はまだ2年ぶりの再会を気まずく思っているらしい。面白いので付け込ませてもらっている。


 あの日、あの朝。

 起きれば何故かぐしゃぐしゃになっていた腕と内側からスプーンで抉られるように痛む左眼孔。

 知らない間にできていた大怪我と激痛に内心パニクりながら這いずる様に自室から出れば、あたしの様子を見に来た竜騎に自力で動けることを酷く驚かれた。

 何があったのか訊いても「取り敢えずちゃんと血を流して来い」としか言われぬまま、抵抗する間もなくホットタオルと共に洗面所に放り込まれ、ピシャリと扉を閉められた。なんのこっちゃ、と視線を向けた鏡には顔面の左半分を紅く汚すあたしが映っていて。

 紅色が乾いてこびり付いている肌。髪の毛に絡みつく血の欠片。パニクっていて気付かなかったがそういえば左頬が引き吊るような感覚がする。血の臭いは鼻が鳴れたせいでわからなかった。

 抉り取られている左瞼にぎょっとして鏡を覗き込んだ。瞬間待っていたかのように目の前の虚像が揺らぐ。

 くすんだ白い髪。凶暴に輝く紅い瞳。最初は逸らされていた瞳が合う。狂悪で、狂烈で、狂喜的な、よく知る笑み。

『よォ、久々』

 声帯はあたしと同じなのに、話し方のせいか全く違う響きが記憶と合致する。狂華の声を忘れかけていることに初めて気が付いた。

 空だった器に中身がドボドボと勢いよく注がれる。

 半身が、2年ぶりに目の前に存在していた。


「な、んで……」

 確かに昨日竜騎の口から名前は出た。朝起きたら勝手に大怪我していた時点で「もしかして」と思い当たってもいた。それでも、こんな放って渡されるような気軽さで再会するなんて思ってもみなかった。

 辛うじて絞り出した、喘ぐような問いかけに虚像がギッ、と表情を大きく歪めた。

『テメェの新しい犬に言われたンだよ』

「い、犬?」

『あア、ソレとも新しい騎士様かァ?』

「騎士――、って竜騎のこと……?そ、んな大層なもんじゃないと思うけど……」

『だろうなァ。テメェが神様なンてガラじゃねェように』

「な、何の話……?」

 混乱しているせいか、狂華の言っていることが理解できない。狂華自身もあたしにわかる様に伝える気が無いのだろう。『イヤ別に?』と小首を傾げるだけだった。あたしも説明がめんどい時こういう言い方をする。

 狼狽えながらもご、と口の中を動かした。

「えと、狂華、竜騎と仲、いいの……?」

『ンなこたァねェよ』

 不機嫌そうに鼻を鳴らしているが、多分竜騎のことは嫌っていない。気に入ってさえいるのだろう。でなければ、そもそも自ら言及しない。犬だの、騎士だの、人間性について理解しない。不快感を表すことだって。

 珍しい。狂華があたしと父親以外の人間を個人として認識した。知らない内に何があったんだろう。

 あたしを慰める竜騎の自信満々な安請け合いを思い出す。

 素晴らしい。

 どんな魔法の言葉を使ったのか知らないが、来た途端、狂華を引っ張りだすなんて。自己評価よりもあたしは人を見る眼があったらしい。これだけで、あいつを雇った価値がある。

 しかし、それはそれとして。


「ず、る、い!!!」

『――ア?』


 込み上げる衝動のまま吠える。狂華が呆気に取られて、ぽかんと小さく口を開けた。

 あたしの中身なのに。あたしの半身なのに。

 あたしの護衛なのに。あたしが見つけたのに。

「2人してのけ者にしやがって!ウワーッ!」

『うわ……ァ……』

 狂華の薄く開いた口から意味のない音が出る。紅い瞳が何度も扉とあたしの間を泳ぐ。竜騎に助けを求めているのだろうか。それがまた気に食わなくて、思いっきり洗面台を叩いた。腕から嫌な感触がする。

『バカッ、テメェ手ェ!』

「うるせーっ!てめぇに言われたくねぇー!」

 普段は出せない力で洗面台を叩く度、無事だった手も無事じゃなくなっていく。骨折とまではいかないが、打撲くらいにはなってそうだ。それでも暴れる情動が抑えられない。

『落ち着けッ!オレが悪かッたからッ。あァもう――』

 焦れた様に呟いた狂華の眼の輝きが強まる。義眼の筈なのに血が通ったように生き生きと。

『オレを視ろ!』

 有無を言わせぬ声に引っ張られるように視線を向けた。


 紅。

 

 足元の影に引きずり込まれる感覚に全身が総毛立つ。

 初めての筈なのに何度も味わったことがあるかのような矛盾。デジャヴとも違う、確かな実感。

 くらりと回る思考に強く目を瞑る。意識の遠くで『コレじゃア結局マッチポンプじゃねェか』とぼやく声が聞こえた。


 次に目を開いたとき、視点が変わっていた。鏡の中から、足元の影から、自分の目から自身を見返している。いくつもの視点があり、重なり、違和感なく成立していた。

 え、なにこれ。

 驚愕と困惑に沸騰していた頭が一気に冷静になる。見開いた視界に顔を顰めながら頭を掻く狂華が立体として立っていた。

 っていうか、あれあたしの体だな?

『――マッ、ジであたしの体使えるんだ……』

「オー、会話できるようになッたかよ」

『ご、ご迷惑を……』

「荒れてるテメェを見るのは面白いケドよ」

 ハッ、と嘲笑に口角を上げられ、冷えた頭が自分の行動を思い出す。呻きに似た声で謝罪をしながら、ぐ、と痛んできた米神を強く抑えた。その痛みに直感で違和感を覚える。

『……あたしの感情が爆発したのって、狂華が昨日の夜体使った副作用だったりする?』

「する」

『――成程』

 今狂華があたしの体使ってるけど、また戻ったら情緒狂ったりするのだろうか。

 鏡の中で額に手を当て項垂れる。ズキズキと鈍く頭が痛む。二日酔い、ってこんな感じなのだろうか。

「ンだよ。なンか不満でもあンのかよ」

『あるよ』

 こちらを責める言い方に指の間から目を覗かせ睨みつけた。「ア?」とドスの効いた声と共に鋭く、紅い視線が迎え撃つ。なんだ?今逆ギレされてんのかあたしは。

『腕の怪我の仕方から見るに潜在能力か何かを引き出して、あたしじゃできない暴れ方してるでしょ。そんなの、絶対楽しいじゃん』

「――ア?」

『ズルい。あたしも狂華の暴れっぷりを見たい』

 我ながらガキっぽいと思うが、拗ねた態度が抑えられない。急に気勢をそがれた狂華を半眼でじろりと責める。

『次はあたしが起きてる時ね』

「……リョーカイ」

 狂華が腫れて赤くなった手を弱弱しく振った。そのまま目元を覆い隠し、呆れたように溜息を吐く。その態度にムッとして唇を尖らせた。

『なんだオラ。やんのかコラ』

「やらねェよバカ。テメェ、新しい犬にちゃンと礼言ッとけよ」

 疲れ切った声と共に意識にぐるりと視界が回る。意識を後ろに引っ張られる感覚にちょっと躊躇った後、身を任せた。

「お、わっ」

 気が付いた時には自分の足で立っていた。一瞬自分の足では支えきれず、倒れそうになる体を洗面台を掴んで引き留める。鏡の世界で2Pカラーのあたしが洗面台に寄りかかる。

『ソレで?閃架』

「え?」

『2年ぶりの片割れになンか言うコトはねェのかよ?』

 あ、今の滅茶苦茶狂華っぽい。

 いや、まぁ狂華だから当然なのだが。

 何となく気後れしていた態度から記憶通りの狂華へと戻る。

 迎え入れられるのが当然とでも言うように、堂々と。別れの挨拶もなく、いきなり居なくなっておいて不遜なことだ。

 強いモノ。あたしの1つの理想。狂わせ狂う狂い鬼。

 残っていた混乱も困惑も、言いたいことさえ吹き飛んでいく。漸く狂華が居る実感が湧いてきた。

 じわじわと眼球の裏が熱を持つ。

 

 干上がり始めていた器、たっぷりと満ちた。


 瞬きをする度、零れかけた涙が落ちる前に、目元に袖を押し当てた。水と違う、僅かにねばついた感触。濃く香る血の臭い。

 知らない間、強引に嵌め直されたらしい義眼が傷口に触ったのか、左眼から流れた血液が頬を濡らす。

 好きに喋って好きに動いていた狂華も鏡映しに血の筋が彩っていく。狂華はニタニタと口角を上げながら、拭うことなく血で自分の顔を汚している。

 くすんだ白髪に血の赤が良く似合う。人外染みた迫力のある笑みはあたしじゃできない。あ~あ、いいなぁ。カッコよくて羨ましい。


 まったく、劇的浪漫チックじゃない再会だ。

 イッと歯を剥き出して威嚇してから、その唇を笑みへと帰る。

 狂華がしない、あたしだけの表情で。


「久しぶりだね。またよろしく!」

 死ぬまで一緒に遊ぼうぜ!



◆◆◆◆



 頭蓋の裏側から抉られるような、左眼孔の痛みをアドレナリンに変え、弾む足取りのまま洗面所の扉を開ける。目の前に竜騎が居た。

 壁に斜めに寄りかかって腕を組み、にやにやとこちらを見ている。どうやらずっと聞いていたらしい。

 鏡の中虚像の方は聞こえなかったとしても、体を使っていた方実像の言葉だけでおおよそどんな会話をしていたのか理解しているのだろう。「よぉ」と笑いを含んだ声で手を上げてくる。

「なんでまーた、腕怪我してんだよ」

「竜騎」

「ん?」

 笑みを含んだ竜騎をギッと睨みつける。妙に間延びした気配のまま、怯んだ様子が一切ないことにイラッとしながら、息を吸い込んだ。


「最っ、高だな!お前は!」

「アッハハハハ!ワン!」



◆◆◆◆



 独りでにまにまと口角を上げる。あたしと一心同体で離れられず、毎度思い出し笑いでにやけるあたしに居合わせる狂華が辟易と溜息を吐いた。最初は羞恥も混ざってたけど、最近はマジで鬱陶しがり始めて来たな。

 じゃあとっとと影の中に戻ればいいのに。なんやかんや優しいというか。甘いというか。単なる気まぐれでもあるんだろうけど。

「なんか疲れちゃったな。狂華ちゃん、あたしと化わって歩かない?」

『テメェの足が砕けてもイイならなァ』

 ケッ、と吐き捨てる狂華に「それは困るなぁ」と返す。

 お互い冗談なのはわかっているが、もし体を任せたら本当に砕くからなこいつ。まったくあたしを大切にしているんだがいないんだか。まぁそのくらい雑な方があたしもとしても気楽なのでいいのだが。戦闘祭りにも参加できるしね。

「お姫様扱いもガラじゃないし」

『ア?つよォい騎士様従えて何言ッてンだ』

「あいつも騎士ッてガラじゃなくない?」

『普通にイカレてるしな。――で?ソノサイコ騎士様は今日はお留守番か?居ればこんなに汚れなくて済んだかもしれねェのになァ』

「……ほんとに竜騎のことお気に入りだな君」

『ハッ倒すぞ』

「えぇ……まだあたしと再会させといて、あたしがキレてる時に竜騎が助けてくれなかったこと怒ってる?」

『ブッ殺すぞ』

 命だって共用だろうが。

 目玉1個の癖に雄弁に伝わる苛立ちに肩を竦めて返す。

 竜騎を好いてるって事、本人にだってバレているのだから隠す必要はないと思うのに。露骨に仲良くされてもそれはそれで妬けるけど。照れてんのかな。

「1人で外出させてもある程度はほっといて大丈夫、って思われたってことでしょ。良いことじゃん。過保護に閉じ込められるよりもずっと良いよ。それも君が居てくれるおかげかな。おかげであらかじめお風呂沸かしといてもらうことだってできる」

 スマホの画面に写るOKのスタンプを思い出す。チンピラもどきにしろなんちゃって騎士にしろ、随分とファンシーなキャラクターだった。同時に送られてきた「飯作っとくな」というメッセージも。

『そうかよ。ソレは……良かッたなァ』

「うん!」

 何かを思うところがあるような、噛み締めるような狂華に元気よく頷いた。

 1カ月間まともに食事してなかったらしく、胃が弱っているから、とここ最近は粗食だったけど、そろそろ何食っても大丈夫だろって言ってた。楽しみ。

 めちゃくちゃ疲れている。歩くのが辛い。それでも家までの足取りは軽い。だって今日の玄関は暗くない。

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