竜と鬼

▽▽▽▽

「――ヒャハ」

 嘲笑と同時に一層大きく引いた波が俺の一部を削っていく。咄嗟に殆ど叩くように口元を塞ぎ、悲鳴を喉奥に押し込める。態勢を整えるよりも速く、そのまま理性を削りつつ、沖へと引いていった。うぁー、なんか吐きそう……。

「機っ、嫌良いなぁ。何よりだよ」

 “OK”ってことで良いんだろうか。良いんだろうな。

 目標達成。安堵にほぅ、と息を吐いた。

 これで狂華と俺の関係は何となくの繋がりではない。明確な“同盟相手”だ。名無しよりは意識してくれる、か?

 左右に小さく頭を振って残った澱を飛ばす。

 ま、やりたいことは全部やれたからいいや。

 凝った筋肉を首を回して解す。項に手を当てればしっかりと雫が付くほど濡れていて、服の裾で拭った。あ――疲れた。

「竜騎」

「おーう」

「期待してる」

 パッと視線を向ける。視界に入った紅い瞳に今度は倒れない。

 なんだ。やっぱり名前は重要じゃないか。初めて呼ばれたたかだか3文字が、それもなんの思い入れもない、作ったばかりのものが、こんなにも鋭く刺さる。

「おう。んじゃあこれから宜しくってことで?」

 差し出した掌に狂華が僅かに視線を上げる。紅の宝石からはなんの感情も受け取れない。紳士的なものよりはこちらの方が好みかと掌を軽く振りかぶる。閃架に倣って。

 しかし動かない。構えた掌が揺れる。

 自惚れた。そこまでの価値はなかったか。

 自嘲と落胆を肩を竦めて誤魔化す。上げた掌を下ろそうとして「ドッチかッつーと、コッチの方が好みだな。オレは」狂華が歪んだ手で左拳を握り、差し出す。

「あー……成程?」

 握手なら俺が掛ける握力で狂華に与える掌のダメージをこちらでコントロールできると思っていたんだけど……。まっ、狂華が望むのなら。

「それじゃあ」と握った拳を差し出す。

 力を抜いてゆっくりと、しかし狂華に不満を抱かれない様遅すぎず。狂華の拳にぶつける、寸前狙った先が引っ込んだ。

「――あ?」

 寝っ転がっていた狂華が跳ねる様に立ち上がる。そのまま一歩踏み込んだ。振りかぶられた狂華の拳が中途半端に浮かせた俺の拳に向かって唸りを上げる。

「は、ちょっ、待っ」

 ギョッと声を上げながら、咄嗟に引こうとした腕を押し留める。頭の隅で明日の閃架を想像しながら歯を食い縛り、身を硬くした。絶対にうるせぇだろうなぁ!

 凶暴に口角を上げた狂華が歪んでいるが、力ずくで握り締めた拳を俺の拳に思いっきり打ち付けた。

「デェッ」

「ィギ、ヒャハハハ」

 拳にぶつかったものが勝手に砕けていく感触を何度か腕を振って散らす。開閉を繰り返すが動きに問題はない。罅くらいは入っているだろうけど。

 もし狂華が幻獣イマジナリービーストと戦った時の様に万全だったら俺の腕の方が砕けていただろう。

「あんたの方がダメージデカそうだな」

 生理的に浮かんだ涙を親指で拭い飛ばし、狂華を見た。

 確かめる様に指を動かしているが、無理矢理曲げているせいで、動かす度に益々酷くなっていく。あー、あー、あー。

「楽しそうだな」

「まァ、悪い気はしねェなァ」

 狂華がグシャグシャになった掌を振る。元々治ったばかりで脆かった上、最初暴れていた時に罅でも入った挙句、今のがトドメになったらしい。バッグに突っ込んだままだった棒状スナック菓子の袋を振り回した音がした。思わずウワ、と声が漏れる。人体から出て良い音じゃないだろ。

 折角、1カ月前から怪我も1週間前からの自傷も治ってきたのに。

 ベッドの住人になるってことはないだろうがまた暫く左腕は使えねぇだろうな。……そういや俺、閃架の腕を怪我させたのを切欠にボディーガードに引っ張り込まれたんだっけ。なのにまた彼女の腕を壊してしまった。しかも前よりも重症だ。あー、閃架になんて言おう。

 ……いや、違うか。

「その腕のこと自分で閃架に説明しなよ」

「ア?めんどくせェな……」

「オイ。謝れとまでは言わないけどさぁ。ちゃんと言いなって。もし揉めたらフォローするから」

「チッ。わァッてンよ」

 かったるそうに掌がヒラつく。表情を覗き見るが、嘘を言っているわけでもごまかしているわけでもないっぽい。俺が向ける胡乱な視線に嫌気が刺した狂華の雰囲気が殺気立って来て慌てて視線を逸らした。

「しつけェ。話すッつッてンだろ。ンな心配しなくてもオマエのせいで逃げらンねェよ」

「そりゃよかった」

 確かにもし明日の朝狂華からなんもなければ、俺が今夜の件閃架にバラしてもう一度狂華に声を掛けるもんな。 


 明日の朝、閃架、狂華と話せば腕がグシャッてること以上に騒ぎになるんだろうなぁ。なんにせよ朝から一仕事ありそうだ。これからも色々と大変だろうな。やれやれ、ワクワクしちまうぜ。

 小さく口角を上げる俺を他所に狂華がのっそりと背筋を伸ばした。かったるそうな態度は変わっていないのに、何故か目を引く雰囲気に吊られて俺も背筋を伸ばす。

「え……何……?どうした?」

「いやァ折角ならシッカリ挨拶しとこうと思ッてなァ」

「ソッチの方がなンかアガルだろ」とふわふわした感情的な理由。なるほど、閃架と同じ嗜好を感じる。

 高々と上げた掌をくるりと回し、腹まで下ろす。追って頭を大きく下げた。大仰な、演劇がかったお辞儀。頭から爪先まで何往復も眺めてしまう。狂華らしくない優美な仕草がやたらと似合う。なんだろ。威圧感があるからか?

 ――今の動き、閃架の趣味かな?

 要所に感じる半身の面影に目を細める。

 舞台上の過剰な一挙手一投足。真似ている、というよりも身体が覚えている動きをそのままなぞっている印象だ。身体は閃架と共用だからかなぁ。頭の中身がすげ変わっても体が覚えているというやつか。

 いや……、これ知らなかったら閃架と狂華を間違えてたな……。こんな戯れで模倣のクオリティの程度を知れて良かった……。

 ――第一印象は外側が同じだけで中身は似てない、だったんだがなぁ。浮かべる表情も全然違った。

 接している内にちょっとした表情がよく似ている事は分かってきたが、態と似せるとマジでそっくりだな……。体の記憶なのか。それとも元は同じ人物から分かたれたからか。

 狂華が上体を倒したまま顔だけ起こす。洗練された仕草が崩れた。視線でこちらを煽る悪辣なものに変わる。要求してくる覚悟はそこそこ重い。俺にとっては今更だが。

 ひょい、と肩を竦め、視線を合わせた。眼を、口を、歪んだ三日月型に吊り上げた狂華が満足気に一つ頷く。

「無所属、葉月狂華。あ――、存在が狂う存在イグジスト”狂鬼“。見知らねェ方が良かッたなァ」

「それはこれから俺が決めるよ」

「取り敢えず、今は遭えて良かったと思ってるぜ」と片足を半歩下げる。左手を胸元に、右手を背後に回し、格式ばった礼をした。漫画で見た執事がやるやつ。

「“元”竜騎士ドラグーン。科戸竜騎。情報屋閃鬼の剣だ。どうぞお見知り置き「ア」」

「あ?」

 狂華に、若しくは閃架に倣ってカッコつける中、最期の1音が遮られる。無防備に落ちて来た声に上体を上げるのと小さい体が倒れ込んで来たのはほぼ同時だった。慌てて狂華を抱き止める。

「え」

 ギリギリキメさせてくれないタイミング。わざとか?

 疑いながら仰向けに抱き直し、顔を覗き込む。天井の照明に目が眩しそうに細まり瞬いた。

 いやこれガチで倒れてんな。

 左眼に嵌る紅い光は随分と弱々しい。寝落ちる寸前の気配に“限界”を感じた。

「う~ん、なんつーか如何にも時間切れ、って感じだな。活動限界とかある感じ?」

「場合による……」

「声眠そっ」

 狂華の、というよりも身体の限界っぽいな……。一カ月生き物としてまともな生活してなかったのに、急に動き出したらそうもなるか。完全回復するには暫く時間が掛かりそうだ。

 溜息を吐きながら狂華を覗き込んでいた上半身を戻した。その動きに合わせて垂れていた狂華の腕が首に巻きつく。予想外に素早く動く細腕の、不釣り合いな膂力にギッ、身体を固めた。

 首折れ――。

 瞠目する俺を余所に、体を引き上げた狂華が俺の上半身に凭れかかった。緊張する俺の体が硬いのか、居心地悪く身じろぎする矮躯にゆっくりと力を抜く。据わりの良いところを見つけたのか耳元で吐かれた深い呼吸がくすぐったい。肩を竦めてやり過ごしながら屈み込む。

「あんた前回もいきなりブッ倒れてたな……。びっくりすんだけど……」

「いつもこうだぞ。急にキレる」

「アドレナリンが?」

 脳内麻薬のせいで身体の限界まで疲労感とか感じないのかな。痛みは感じってんのに……。

「……狂華ってドM?」

 抗議代わりに振るわれた腕が胴体に当たる。小さく笑いながら太ももの下に腕を差し込む。衝撃に狂華の体を揺らさないよう気を付けて、抱き上げた。左目の流血も止まったし、閃架のベットに寝かせてこよう。

 背中側に回した指先に触れる白髪を撫でる。閃架の髪は色ごとに手触りが違ったが、狂華は全て同じだ。やや荒れていて、指先に引っかかる。

 腕の中で脱力しきった狂華が皮肉気に口角を上げた。

「初めてのお仕ごとだなァ。ぜひ丁重に運ンでくれ」

「はいはい。任せとけ」

 瞼を閉じた狂華の顔にチラリと視線を送る。白かった髪がいつの間にかモノクロに戻っていて瞬いた。1ヶ月前と1週間前、同じくぶっ倒れた閃架だか狂華だかを抱えながら急いで帰ったのを思い出す。あの時は次にこの瞼が開くときはどうなっているだろうと、随分気を揉んだものだ。

 今回もどうなるか、正直わかっていないけれど、あの時の焦燥感はもう無い。

 狂華が入って来た時のまま、うっすらと開いていた扉を足で開ける。俺の動きが閃架に響いてないかと見下ろした。

「忘れてた」

「うぉっ」

 狙いすましたかの様に、パチリと音を立てて左眼が開いた。

 唐突に合った視線に備える暇なく脳内がぐるりと回る。思わず取り落とし掛けた身体を慌てて抱え直した。

「ビビッた……。急に止めろよ……」

「言い忘れてた」

「あん……?何……」

 胸を撫でおろす間もなく、紅い瞳を爛々と輝かせ、確かに存在する鬼が愉悦気に口を開いた。

 狂悪に、狂烈に、狂喜的に。


「Welcome to the――」


 Crazy World


 悪ぶった歓迎に、笑い声で応えた。

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