狂い鬼
▽▽▽▽
ぷつり、とブラウン管テレビが点くような音がして、意識が繋がる。
視界に広がるのは見知らぬ天井、などということはなく、見知った床が広がっていた。
目尻が痛むほどカッ開いた視界にぽつり、ぽつりと丸い染みが落ちる。
眼球にじんわりとした痛みが走り、思わず強く目を瞑る。新しい滴が目尻から零れ落ちた。
飛んでいた感覚が徐々に戻ってくる。時間を掛けて、丸い染みが自分の鼻先から垂れる汗だと理解する。さっき目に沁みたのも同じだろう。手の甲で乱暴に拭い取り、汗にしてはなんか多いな、と視線を向けたら手が真っ赤だった。これ額が割れてんな……。うわ、認識したらズキズキと痛み始めた。溜息を吐きつつ、たらりと流れてきた血を舐め取った。
鉄臭い味に顔を顰める。何に動揺しているのかわからないが、とにかくバクバクと激しく動く心臓が肋骨を叩く。肩で大きく息を吐き、籠もった焦燥を吐き出した。
鉛のように重い腕を動かし、改めて豪雨を浴びたかの様な汗を拭う。前髪を掻き上げた。
「いっ――」
反射で声を上げながら痛みの走った指先を見る。黒い点が地面に増えた。
邪魔にならないよう、短く切り揃えていた爪は剥がれ、滲んだ血が指先を汚している。何枚かは皮膚で辛うじてぶら下がっている。覗く固くて白い物体は骨だろうか。
おっと、ふむ……。成程なぁ。
溜息を吐きながら足元を見下ろした。
床に幾重にも引っ掻き傷がある。凹みは額を打ち付けたらしい。
ヤバいな。床の傷はともかく血の跡は“我が欲へ《アルケミア》”じゃ消せないぞ。えぇ、どうしよ……。埋めれば隠せるか?
徐々に戻って来た思考と理性をはっきりさせたくて頭を振る。
どうやら随分と藻掻いたらしい。飢えた野犬と揶揄した閃架の姿を思い起こしながら顔を上げる。
胎児のように蹲っていた俺を紅い瞳が見下ろしていた。服についた埃を摘まむ様な興味の無い瞳。
――薄々察していたが、視線を合わせた相手を発狂させる“
蹲ったまま肺の中、全ての空気を吐き出す。
ゆっくりと上体を起こし、再度狂華と視線を合わせた。背筋の伸ばし方も、胸の張り方も、前の見方もわかっている。だから何も終わっていない。さっきの提案だって。
息を吸って、吐く。声が震えないように。丹田に力を込めた。
「俺と、同盟を組まないか?」
「正気か?」
「至って」
間髪入れずの脳直反射でされた狂華の質問に、語尾にハートマークを付くようふざけて返す。
ピクリと引き攣らせた左瞼が呆れから半分降りた。心底嫌そうに溜息を吐かれる。
頭の神経を無遠慮に撫で回される感覚は続いているが、先程雑に引きちぎられたことに比べれば全然ぬるい。口から漏れ出しそうになる悲鳴を噛み潰す。
たとえ情けないところを見せたばかりだとしても。虚勢が明らかだとしても。それでも精一杯格好つけろ。
少なくともこの程度はケロリとしていなければ閃架の――狂華達の隣に居たいと主張する権利は無い。
「同盟ねェ……」
言葉を発する程度の理性は残っている。残されている。心底面倒そうではあるが、どうやら最低限耳を傾ける気はあるらしい。
「要するに閃架の為に協力しましょう、っていう同盟だ。乗るだろ」
「乗せたらダメだろ。オレこそ。オレは閃架を壊すぞ」
「なんだ。まだあいつが壊れてないように言うんだな」
「オ゛」
一番閃架が壊れてることを知ってんのはあんただろ。と肩を竦める。異音を漏らした形で硬直した狂華がぐるりと首を大きく回した。
「オマエ
「ヒヒッ」
狂華が固まった体から再度力を抜く。俺は小さく肩を震わせた。投げ出された狂華の足が床を叩いた。抗議するようなデカい音ではあるが、床も狂華の足も壊れていない。
「閃架にも直接同じコト言うのかよ。――言いそうだな」
「言っても怒らない――いや、ぎゃんぎゃん怒りそうではあるけど傷つきゃしないだろう。場合によっては面白そうに笑うかな」
「――随分とまァ仲がイイようで」
言外の肯定。ん。ちょっと態度が軟化したか。
「そもあいつはあんたが自分の体で暴れんの大好きだろ。相手の体を壊すのも、自分の体が壊れんのも」
どうも狂華に怪獣映画と同じ爽快さを感じているらしい。派手に街を蹴り壊す迫力の魅力はスクリーン越しなら理解できる。閃架の場合観客ではなく、思いっきり当事者だが。
怪我も込みで戦闘の醍醐味扱いしてるっぽいんだよなぁ。自分自身がバトれないからこそ無秩序な破壊力に憧憬でもあるんだろうか。
「ま、俺は身体的に無傷な事よりも精神的に元気な方が優先なんでな。閃架が泣かずに済むよりも優先させることはないんだよ」
「たとえ閃架が死ぬとしても?」
「笑って死ねるのなら。――閃架が笑って死ねるよう、後悔せずに済むようにしたい。しようぜ」
「――熱烈だな」
ふぅん、とわざとらしく漏らされた呟きに含みはあるが悪感情はない。そのまま薄っすらと笑みを刷いたまま、視線が俺の頭から爪先までを舐めていった。
「鬼眼ッつーのはスゲーンだッてなァ……。なンか色々トラブッてたりもするみてェだし。確かに1人くらい気軽に戦わせられる奴がいた方が良いだろ。アイツに我慢させるのはオレとしても本意じゃねェなァ。だとしてもオマエが居ンならオレは要らねェじゃンか」
「そうだな。俺が居る。
「いや……オマエじゃオレを殺せねェだろ」
「か、んたんじゃないけど絶対無理ってわけじゃないだろ。あんた
「ハッ。精神論ダケで圧倒的な実力差をひッくり返せるワケがねェだろ」
蹴っ飛ばすように笑われた。
――手応えねぇなぁ。機嫌は悪くなさそうなんだが。
説得が失敗した場合、次はどうすっかな。浮世に興味ない奴に即物的なメリットを提示したところで靡かないだろう。取り敢えず閃架の隣に居ることは許容されたようだから実績詰んで、なんとか狂華を殺せると納得させるようにして――。
ガシガシと頭を掻いた。伏せた顔を上げ、チラリと狂華に視線を向ける。
「で?どうよ。俺と同盟組んでくれる?」
「ん。あァ」
駄目元で聞いてみる。紅い目を企みに細めた狂華がピッ、と人差し指を立てた。細い指が真っ直ぐに天を指す。
「もう一声」
「おん?」
にやと口の端を歪める狂華に眉を寄せる。なんか面倒なこと言いだしそうだな。身構えながら前傾姿勢を取る。笑みを深めた狂華が同じように距離を詰めてきた。
「閃架がオレと会いたいから。オマエは閃架の願いを叶えたいから。だからオレに
「まぁそうだな」
「オレのメリットが無い」
「お、っと」
そうくるかぁ。
試すような瞳の輝きに「えぇ……」と首を捻る。丁度説得内容に困ってたところなんだが。
とはいえ期待されているなら応えないわけにはいかない。たとえ期待されている、というのが俺の希望による錯覚だとしても。
頭の中で言葉を組み立てて、逡巡は3秒ほど。ぺろりと唇を舐めた。
「よし」
「なンか見つけたかァ?」
「や、なんも」
「ア?」
「要らないだろ。そんなもん。能書きなら充分垂れた」
訝し気な顔をする狂華に向かって不敵に見えるように片頬を吊り上げた。
そもそも勝ち目は十分あると思っていたんだ。
1週間前のなり化わり。わざわざ“
俺になんて興味はなかったけれど、交わされたのは会話じゃなかったけれど。それでも狂華は俺に会い来ていた。
閃架を俺に頼む為に。閃架が傷付くのが嫌だから。
そんなことをする理由なんて、1つだろう。
寝っ転がった狂華の両脇に掌を突く。上半身を覆い被せ、至近距離で紅い瞳を覗き込んだ。くらりと回る脳内に折れそうになる腕を根性で支える。ぷつりと唇を食い破った犬歯で弧を描いた。
如月閃架が葉月狂華のことを大好きなように。
「葉月狂華は如月閃架
にっこりと微笑んで断言した。
「……――」
沈黙が背中に圧し掛かる。
嵌めたばかりの左目がじっとりと見上げてきた。俺の表情は変えない。ゆっくりとした瞬きに押され。一滴の血が頬を伝っていく。
「――ヒャハッ」
次に覗いた瞳は飢えを押し殺し、鼠を嬲る猫の輝きだった。獣みたいなのに、野生にはない悪意に満ちた瞳。
あ、ヤベ。
裂ける様に吊り上がった口角に離れるよりも速く、首の後ろに両手を回され、引き寄せられた。顔が近づき、血の臭いが一気に濃くなる。
「“愛”ねェ。随分良く言ッてくれンなァ」
「ウ゛ッ」
返されたのは肯定でも否定でもなく、反撃だった。
精神的にも、物理的にも。
脇腹に入った衝撃に勢いよく視線がひっくり返った。
床に倒れる寸前、咄嗟に頭の横に手を付いて体を押す。後転の要領で身体を起こした。
「――ゲホッ」
骨は折れてない。そもそもそれほど力は入れられない。それなのに気を抜いただけで吐きそうだ。クッソ。まず戦闘センスが良いんだよなぁ。
腹に手を当てながら顔を起こす。俺を蹴り退かした足を悠然と下ろしているところだった。まるで玉座に腰かけるように、ビーズクッションの上で足を組む。
「オマエもそうか?“
「その呼び方マジで閃架に言うなよ。頼むから」
俺の異常性と
懇願する俺に露悪的に口角を上げた狂華から視線を逸らした。
「俺のは違うよ。知ってんだろ」
「愛のコト?信仰のコト?」
奇妙に魅せられる笑みを浮かべ、狂華がこくりと首を傾げた。流れを変えた血が白い髪を首を赤く汚す。
「どっちもです……」
溜息を交じりに両手を上げて項垂れた。ホールドアップ。無条件降伏だ。
「ヒャハッ」と笑い声を上げた狂華が肩を竦めた。
「ま、オレと組むならそンくらい面倒な方がイイかァ」
「おっ」
あっさり呟かれた言葉に驚きの声を上げてしまった。遊ばれたまま白旗撤退したからシクッたかと思ってたのに。
「え、決め手はやっぱ閃架?」
これから良好な関係を築くために知りたくて、姿勢を正す。胡坐を掻きつつ背筋を伸ばす俺に狂華が顔を顰めた。「黙れ」若しくは「コレ以上喋ンならブン殴るぞ」って意味だ。
「端からイケッと思ッてたンだろ。予想通りで結構なコトじゃねェか」
「そらそうなんだが……」
気になる。ジッと視線で訴え続ける。心底面倒そうに手を振られたが、拳は未だ握られていない。
「気まぐれだよ。問題起こしても片ァ付けてくれるそうだしなァ。閃架お気に入りの口車にノッてみるのも悪くねェッてダケ」
「エッ」
「ア?」
「う、嬉しい」
――お気に入りって。
ぶわり、と勢いよく体温が上がる。一気に掻いた汗が額に浮かび、瞳が潤む。わななく口元を引き結んだ。
「オマエ知らなかッたのか」
啞然とこちらを見つめる狂華から視線を逸らす。縦に振りかけた首を横に振り直した。ああ、クソ。落ち着け。みっともないとこを見せるな。
「さ、すがに好意的とは思っていたけど」
無意識にカタカタと揺らしていた膝に気が付いて握り締めて抑え込む。話出しの吐息が震え、大きく深呼吸をする。
でも、まさか。
「狂華に言われるほどとは」
それにわざわざ教えてくれるってことは、そのくらいしても良いと、狂華からも思われているということだろう。
閃架にだけ好かれただけじゃ足りない。排除されるとか消極的な理由じゃなく、俺自身の我儘として、狂華にも選ばれたい。そうでなければ片手落ちだ。彼女たちは
きょときょとと視線を彷徨わせた。片手で覆った口から間延びした喃語が漏れる。駄目だ。何も考えられない。
挙動不審な俺を眉間に皺を寄せながら見つめていた狂華がおもむろに首を振った。乱雑な手つきで荒れた髪を掻き上げる。
「竜騎」
「えッ?」
初めて呼ばれた名前に反射で視線を向ける。待ち構えていた紅い瞳と、目が合った。
「ギャッ!」
油断していたところにいきなり流し込まれた“紅色”に脳みそが掻き回される。掌で眼を覆いながら勢いよく仰け反った。床に後頭部を強かに打ち付ける感覚が薄膜の向こう側に感じる。
倒れたまま耐えていれば狂華がしみじみと俺を見下ろした。
「意外とわかッてねェンだなァ」
「ウゥ……」
「で?同盟ッてのは?」
「――チス」
――これは俺をなだめるのが面倒になったな。
有無を言わせぬ口調にのっそりと体を起き上がらせる。米神を親指でぐりぐりと抑えながら一つ咳き込む。
「いやまぁ、閃架が笑顔で死ねるように協力しましょう、っていうだのけの同盟なんだが。名前は――」
「要らねェだろ。名前」
「バッカ。俺は最近名前の重要性を知ったんだよ。――“閃架主義同盟”……“閃鬼尻拭い同盟”……。いや――」
バチンと大きく手を叩き、身を乗り出す。下らない戯言を聞く顔だった狂華が鬱陶しそうに身を引いた。それでも聞く気はあるらしく、瞬きで続きを促してくる。
自分の右目を手で覆い隠す。左眼球同士、視線が合った。引き潮が砂浜の様に理性を攫っていくが、先ほど倒されたのとは比べるべくもない。
閃架を狂わせ、閃架に狂った、狂い鬼を見返した。
「“鬼狂い同盟”、でどうだ?」
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