俺の名前は
けほけほと上下する背筋を緑の瞳が愉快そうに見下ろしている。にやにやと口角を上げながら、踝を太ももに乗せる様に足を組んだ。
「さっきの質問の答えな」
「ンエ、ゴッ、ッホ」
「だから、俺は今、ここに居るんだよ」
「ウエ」
「ははは」
いやはははじゃねーわ!
気道に纏わりつく水分に溺れそうになる。
朗らかな笑い声から緊張感は感じない。え、今あたし告白されたよね?
咳き込む勢いのまま身体を勢いよくくの字に折り曲げる。肩で息をしながら口の端から垂れ落ちる水滴を啜った。
身体が濡れるよりも速く、アオが素晴らしい手際でどこからか取り出したバスタオルが下半身に敷かれている。おかげで服や布団への被害はゼロだ。この野郎。
背中を擦ってくる手を突っぱねる。中指を立てればわざとらしく肩を竦められた。その肩は細かく震えている。
「えー、じゃあ信じられてないっぽいし、口説いとくか」
「あぁ!?」
「一目惚れだ」
「オ゛ッ」
「お前の碧い眼が好き」
「ン、ゥエッホッ」
「全てを見透かすような輝きが好きだ」
「ちょ、まっ」
「藍方石のような透明感のある鮮やかさが」
「ん゛ん」
「宵空のような深さが」
「ぐ、ん、けほ」
「好奇心と愉快に光る、口よりも雄弁にものを言う眼が」
「はー、あー、ふぅ」
「危機的状況でも好戦的光る瞳が」
「お、前っ」
「つまりはお前の存在に惚れたんだ」
顔の、っていうか眼のことしか言わねぇじゃねぇか巫山戯てんのか。とキレようとして、アオに視線を向けた。向けて、しまった。
――失敗した。
「ん?性格の方も具体的に言おうか?」
暴走気味の鬼眼が勝手に隅々まで観測する。
柔らかく融けた朝露。薫風みたいな穏やかさ。
こいつふざけた感じでマジであたしの事好きなのか。
アオへの“
急に跳ねた心臓を落ち着けたくて、す――っ、と深々と息を吸った。
「んあ――……」
「クッ、ハハッ」
浅く立てた膝の上にぐんにょりと上体を倒す。頭を撫でる、というよりもぺしぺしと頭をはたいてくる掌を今度は払わない。
「惚れてる、って……」
顔を傾け、アオの顔を見上げる。今度は意識して、彼の数値を観測する。当然ながらバチリと目が合い、にっこりと微笑まれた。
人好きのする笑みの瞳の奥、薄っすらと乗った怜悧な光。
あ、詳しいことはわからないけれど、こいつ、あたしを利用するつもりだ。
なんだ。結局自分の為か。
熱くなっていた体温が急激に冷めていく。狂華に会えなくなった時と似ている、なんだか穴が開いたような感覚がした。
――とはいえ害意もないっぽいんだよなぁ。
あたしに向けた好意は見間違えじゃないと思うし……。
取り敢えず眇めた目を緩める。あたしが警戒を緩めたことにアオも気が付いたのだろう。表情が僅かに、本当に僅かに変わる。鬼眼が暴走状態じゃなければ気づかないような変化。
とはいえ変化した理由が、アオの感情がわからない。
「閃架」
「んん」
「提案があるんだけどさ」
「ん――」
向けられた視線に何となくそわついてしまい、逃げる様に両手で顔を覆って倒れ込んだ。ベッドボードに後頭部をぶつけて上体が斜めに止まる。ゴンッ、と結構良い音がした。小さく笑ったアオがお腹を優しく叩く。そのまま腹に手を回し、ずるずると引っ張ってベッドの上に寝かせ直した。
「腕の良いボディガードは欲しく無いか?」
マジかコイツ。
その一言が間髪入れずに頭に浮かぶ。
ヒクリ、と口元が引きつった。
「急に
「惚れた相手の隣に居たいだけだよ。普通の事だろ?」
「えぇ……」
困惑からきょときょと視線が泳ぐ。ふと、自分の影に視線が止まる。悩んだ時、狂華に助けを求めてしまう癖。ここ最近収まったと思っていたのに。別に影は動いたり喋ったりしないけど、何となく背中を押された気がした。というか、あたしに都合が良い方に行っちまえ、と唆された気がした。
あたしに、狂華に、好き勝手されて振り回されて。この短期間で散々っぱら痛い目に遭っただろうに。
それでも、まだ、こんな馬鹿なことを言っている。じゃあ、もう良いんじゃ――丁度いいんじゃないだろうか。
喘ぐように息を吸う。ぐ、と一度奥歯を噛み締めた後、口を開いた。
「ねぇ、」
「ん?」
「あたしが、あたしの嫌なあたしになったら殺してくれる?」
「良いぞ」
覚悟を決めて言ったのに、こちらが呆気に取られるくらい快諾された。告ってる相手の殺害宣言をして、なんでも無いようにけろりとしている。
「任せとけ」
「――ハハッ」
突き刺した剣を押し込むような念押しにトドメを刺された。あたしが一番イカしててイカレてると思う顔を真似して、狂悪に狂烈に狂喜的に。
「そうだね。欲しいなぁ。強くて察しが良くて気が利く腕の良いサイドキック」
以前の繰り返しからわざと外した物言いに、パチリとアオが瞬いた。目覚めてから初めて彼の表情を崩せて胸がすく。まったく、好き勝手言いやがる。一目惚れだか何だか知らないが、惚れたのはあたしが先だ。
「へぇ……」
しみじみと、無意識の内にアオの口から音が漏れる。不躾な程向けられる視線になんだか恥ずかしくなってきて目を逸らした。
その視線を追いかける様にぱたん、とアオがベッドに半身を倒す。下から覗き込んでくる表情はいつの間にか機嫌良さげで、ベッドシーツに頬を懐かせていた。
「強欲~。居るか?そんな奴?」
「目の前に。……なってくれる?」
ククッ、と喉奥を鳴らしたアオがゆっくりと体を起こした。足を組み直し、浅く首を傾げる。吊り上げた唇の隙間から尖った犬歯がちらりと覗いた。
「待遇は?」
「三食屋根付き。装備は応相談で支給。必要経費は申請してね。勤務時間は不規則。身体の健康状態は君の腕に依存。期限は――」
「無期限で」
「ま、君がこの職場を嫌にならない限りはね」
待ち構えていたようにアオが言葉を攫う。にこにことした変わらない表情なのにどことなく必死さが覗いている気がして、左瞼を閉じた。右眼の鬼眼に集中する。
「へぇ、お前からクビにする選択はないのか。俺思ったより気に入られてんのかな」
「んぇっ」
「ンハハッ」
折角集めた焦点がアオの一言であっさり霧散した。目を丸くしたあたしにアオが開けた大口から尖った犬歯がちらりと覗く。
存外人の事を気に入ってんのはお前の方だろ!
くしゃくしゃと荒っぽく頭を撫でられる。ちっちゃい子相手に無遠慮にする撫で方に顔を顰めた。頭を振って振り払い、ぐぁっ、と噛みついた。
「給与出さねぇぞテメェ!!」
「別に良いけど。寧ろ出んのかよ」
「出るわ!気まぐれ期間限定適当雇用じゃないんだぞ!ブラック企業じゃねぇの!歩合性!固定給は生活費!取り敢えず衣食住は保証です!」
「お、十分だな」
アオに向けて振るった腕が捕まる。何度も思いっきり叩いたのにあっさりだった。「えいっ」と蹴り上げるが素速く一歩引いたアオには届かず空を蹴る。
「くっそ、届かん。アオ腕放せ。お前を殴るから」
「あ、閃架、閃架」
「あ゛?」
「俺名前“科戸竜騎”にしたから」
「な、何?」
「シナトベリュウキ」
「しなとべりゅうき」
初めて聞いた文字列を片言で繰り返す。何度か口の中で呟いた。ふと、初めて聞いた単語に続く、“したから”という言葉に引っかかって顔を上げた。
「え、と。まず”アオ”って偽名なの?」
「信じてたのか……」
「“アオ”が偽名で今言ったのが本名、ってわけじゃなくて?」
「そ。っていうか今まで本名はなかったんだよ。物心ついた時からFictionalに居たし、
「本名だよ……」
「お、良かった。まぁ偽名でも本名でもどっちでも良いんだけど、取り敢えずは閃架と名乗っといてくれ。俺の為に」
「図々しいな……」
「あんたが変えるなら俺も合わせて変えるけど」
「そっか……」
こだわりが無いというか、執着が無いというか。
「良い名前だね。良い名前だけどお前マジか」
「カッケーだろ?」
「カッケーとは思うけど。苗字の由来は“
「あってるあってる」
“科戸の風“は風の異称。全ての罪や穢れを吹き払う風。
”級長戸辺命“ってのは「日本書紀」に出てくる。伊弉諾と伊弉冉の子どもである風の女神。
思い入れは無さそうなくせに、やたらと凝った名前だ。日本の文化だが日本人だって知らない人も居る知識だろう。
「アオ「竜騎」――竜騎日本文化に詳しいな?」
「1ヶ月の間に沢山勉強したもんで。あ、閃架の本借りたぞ」
「それは全然良いけれど。え、この1ヶ月間実は余裕だったりするの?」
いや、そんな筈ないだろ。面倒を掛けた自覚、痕跡がある。それだけに飄々としている竜騎の態度がどうにもよく分からない。どうにも軽薄で深刻さに欠けると言うか。
眉を顰めるあたしに「どうだろうなぁ」とへらへらと笑うアオに抗議の意味を込めてマットレスを叩く。ぼすんと大きな音がするが竜騎の態度は揺らがない。
「お前……めっちゃ迷惑掛けてやろうか」
「良いな。望むところだ」
楽しそうな顔に陰りは無い。堂々と胸を張って、自分で付けた名前を名乗っている。
「……竜騎って
「取ってる」
「だよね……」
ニッコリ笑顔でピースする竜騎に戯けてるなぁ、とジト目で睨んだ。
再度頭の中で繰り返す。
風の竜神。穢れを祓う騎士。
“
霞む視界で見た竜巻を思い出す。
「――うん。良い名前だ。かっこいい」
「だろ?」
噛み締める様に呟けば竜騎が自慢気に胸を張った。
べしべしとマットレスを叩けば直ぐに気が付いた竜騎があたしの上半身を持ち上げた。体の向こうに側にあるクッションに腕を伸ばし、重ねて枕を乗せる。その上にあたしを寝かせ直した。
「仕事部屋からデカいビーズクッション持ってこようか」
「え、や、全然大丈夫。体起こしたかっただけだし」
「そうか?落ちるなよ」
「うん。っていうかあたしさっきまで普通に座ってたよね?」
「そうだけど。楽な方がキメられるだろ?」
「ぐっ」
体を起こそうとした理由が寝たままだと格好がつかないから、っていうのがバレててこっ恥ずかしい。
赤くなった顔に覆い被さるように竜騎が身を乗り出した。ちょいちょいとクッションの位置を調整している。竜騎が体を起こすのに合わせて姿勢を正した。
小さく息を吸えば張り詰め直した空気に竜騎も背筋を伸ばす。どうせ格好つけるならあたしにできる最上級を。
一度瞼を閉じ、再度開く。
右眼の刻印を励起した。
「それでは改めまして。情報屋“閃鬼”。如月閃架。以後お見知り置きを」
握手の為に右手を差し出す。ちろりと視線を向けた竜騎がわざとらしく肩を竦めた後、左手を振りかぶった。
「……握手は普通、右手でするもんじゃないの?」
「折れてんだろーが」
「折ったのオメーだろーがよっ!」
「俺の心臓拳で貫こうとするから……」
声を荒げると共に叩付けた左掌を竜騎が空中で受け止めた。そのままガッシリと手を結ぶ。あたしとは全然違う。堅く分厚い、頼もしい掌に包まれた。
引き寄せれられるがままに近づきながら竜騎と眼を合わせる。
吊り上がった瞳に嵌る眼球はエメラルドの様だった。
――何だよ。人の眼を散々褒めといて。自分だって良い目をしているじゃないか。
推しのライブの最前列のように。アクション映画のクライマックスのように。
生気に溢れ、食い入るようにあたしを見てくる。
あたしの眼も竜騎が良いと思った通り輝いていれば良い。物語の始まりは
「んじゃあ、長い間よろしく頼むな雇用主」
「任せとけ、キッチリ扱き使ってやる」
「ああ。思うがままに使ってくれ」
たった2日と29日。
この短い間に竜騎の中で、一体どんな変化があったのだろう。
推し量れない中身が面白く、破顔しながら前に勧誘した時と同じ台詞を全く違うトーンで返す。この言葉があたしの新しい門出にとって、福音になれば良い。竜騎にとっての福音にも。
「分かってるって」
そうして確実な情報では無く、不確実な衝動に突き動かされ、両手を開く。
情報屋としては失格かも知れないけれど、あたしにとってはいつものことだ。竜騎を拾った時だってただ面白くなれば良い、という気まぐれからの行動だった。
その行動が正解かどうかは予測できない。けれど、この出会いを後悔することはないんじゃなかろうか。少なくとも今この瞬間、ずっと心の奥底で澱になっていた寂しさはなくなった。
吊り上げた口角から歌うように紡がれた言葉は我ながら、背筋が粟立つほど楽しそうだった。
「Welcome to the ――」
Another World
それに答える笑い声は、一体誰のものなのか。
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