蛇の巣穴

▽▽▽▽

 冷たい液体に強かに顔面を叩かれ、朧気だった意識が強制的に引き上げられる。反射的に咳き込んで、気管の異物を吐き出した。

 肩で息をするのに合わせ、口の端から雫が垂れる。足下に落ちるのが霞む視界に映った。

 前髪から落ちて鼻先を伝う水滴が鬱陶しい。小さく頭を振って、浴びせられた冷水を払った。

 ハ――、やれやれまったく。

 頑丈な椅子に座らされ、腕は背もたれ側に回された上で拘束されている。

 強く圧迫されているせいか、血が止まっているらしく指先が悴む。手首の骨に固いものが当たる感触が酷く不快だ。

 ……う~ん、どうにも頭が働かねぇ。

 気絶している間にボコられたのか、喉の奥から滲む血の味にごほりと大きく咳き込んだ。濡れたせいで急速に体温が奪われていく。呼吸に籠もった熱さえ勿体ない。

 はぁ。大きく息を吐く。勢いよく前髪が掴まれ、項垂れていた頭が強引に上げられた。

 完全に見下してきている相手が勿体ぶって口を開く。だから俺の方が速かった。

「あー、クッソ。随分と好き勝手してくれやがったな」

 

 溜息交じりに詰る。途端吊り上がった目元に肩を竦めて視線を逸らした。


 如何にも拷問部屋って感じのコンクリート剥き出しの狭い部屋にはこいつ1人しか居ない。耳を澄ませたものの、壁の向こうには何も聞こえない。見える範囲内で扉もない。……まるで世界から隔絶されたようだ。助けが来るとは端から思ってないとはいえ、面倒なことになった。

 あんまり大事になっていなければ良いんだがなぁ。この街なら人1人が静かに拉致された程度、大した騒ぎには――直ぐに閃鬼の耳に入るような騒ぎにはなら無いだろうけど。

 だからまぁ、この腹の底に張り付いた澱の様なものは俺の勝手な感傷だ。既に俺と閃架は一切関係ない。

 掴まれた前髪が荒々しく揺すられる。引かれる感覚と鈍い痛みが鬱陶しい。

 珍しく凹んでるんだ。相棒バディとして少しくらい慮ってくれてもいいだろうに。溜息を吐きながらよく知る顔を見返した。

「随分とまぁ、余裕そうじゃねぇか“竜騎士ドラグーン”」

「そうでもねぇさ。あんたのせいだぜ“大、蛇サーペン、ト”」

 言葉尻にバキリという音が被り、震えた。

 殴られた勢いのまま顔を背ける。がくりと脱力した頭が再度掴まれ、強制的に視線が合わせられた。

「何だ。まぁだ気にしてんのかよ。コードネー、ム」

 言い切る前に今度は反対側を殴られる。口の端から鈍い痛みが広がって、ぺろりと舐める。お、血の味。

 こくり、と鉄臭い唾を飲み込んで、へらりと口角を上げた。

「いってぇなぁ。オイ」

 ――ドラグーンサーペントを比べると竜の方が上で気に入らねぇって何かと目の敵にして来るとは思っていたが、まさか今回もソレが原因じゃねぇだろうなぁ。大蛇サーペントってのは存在異義レゾンデートルを元に付けられたコードネームなんだ。恥じることはないだろうに。


 存在に巻く存在イグジスト拘束愚バインド・オブ・エデン”。


 蛇に似ていると認識した存在を拘束具に――巻き付く蛇に変える“大蛇サーペント”の“存在異義レゾンデートル”。

 強度とサイズは素在と同等だが、巻き付く力がとんでもない。対象に一周出来るサイズならば問答無用で一纏めだ巻き付ける

 破壊しなければ解けも外れもしない。ギリギリと締め上げ、痛みと共に此方の動きを阻害する。

 自分にはないクセして、人の足を引っ張るのはやたらと上手い。

 一昨日路地裏でぶっ倒れる原因を作った同僚を見返す。今度は明確に、煽る目的で。

「いいじゃねぇか。“大蛇サーペント”。狡猾なテメェにゃお似合いだ」

「まだ立場がわかってねぇらしいな」

 嘲りに歪に弧を描いた口元がガクリと頭ごと強く揺らされる。拘束が無ければ腰が浮くだろう強さで前髪を引っ張り上げた大蛇サーペントが歪んだ笑みで顔を覗き込んできた。

「はっ、どうだよ竜騎士ドラグーン。いつもへらへらした面ぁしてやがったテメェがよぉ。随分と惨めじゃねぇかっ」

 傍らに置いてあった鉄の柄を――見慣れた大蛇サーペント愛用のハンマーを掴み取り、慣れた仕草でくるりと回す。


 瞬間、衝撃。


 俺の体が殴られた勢いのままくの字に曲がろうとし、拘束で引き留められた。

 ――あ、これはこのまま嬲られて死ぬやつだな。

 息吐く間さえも許さない、というようにサーペントが滑らかにハンマーを取り廻す。餌に喰い付く蛇のように、石突きが鳩尾にめり込んだ。

 迫り上がってきた吐瀉物を堪え切れず、肺から吐き出た酸素と共に吐き出した。

 加虐趣味っつーか、悪趣味なんだよなぁこいつ。

 俺とサーペントは自由度の高い遊撃役だったから不必要な拷問・尋問も問題になることはなかったが。……わざわざ尋問専門の奴が居た仕事でも自ら行っていたのは趣味、もしくは性癖だろ。


 一呑みで餌を食う蛇らしからず執拗に。

 胃で生き餌を溶かす蛇のようにじわじわと。


「漸くてめぇのいつもの余裕面ぁ歪ませられ、――あ?」

「あ?」

 怪訝な声が降って来たと思ったら顎が無遠慮に鷲掴まれる。至近距離で覗き込んでくる顔が鬱陶しい。

「近ぇ。何だよ」

「ん~~――」

 眉間に皺を寄せ、文句を言っても大蛇サーペントは我関せずだ。吐きそうになった溜息が大蛇サーペントに掛かるから飲み込んだ。

「俺達が別れたのってさぁ、2日前だよなぁ」

「あ?……そうだけど……3日経たないくらいじゃないか?」

「その間に恋でもしたか?」

「……急に何?」

 マジで何。

 言われた内容を理解するのと同時に反射で疑問が口に出た。

 ギョッとして見上げた先、サーペント自身、しきりに首を捻っている。自分で言っておいて信じられていないらしい。何突拍子もないことを言い出すんだコイツは。

「お前こそたった3日で麻薬にでも手ぇ出したのか?この街のヤクはヤバいの多いから絶対に手ぇ出すなって“人間ヒューマン”に言われたろ」

「ぶん殴るぞ」

「もう殴られてんだよ」

 ハンマーで。

 なんなら拷問されかけてるし、多分この後死ぬんだよ。

 目を細める動きで理由を問う。サーペントの米神に立った青筋は無視しても良い。俺が喋らんとわかればどうせ不機嫌な顔のまま諦めた様に喋り出すし、向こうも俺が喋らんとわかっている。

「顔が変わった」

「あー……まぁむかつく表情をするようになったとは思ったが……」

 俺の顔がへらついてる、ってただでさえ嫌ってるもんなぁ。自分自身ですらむかつく表情なんだからサーペントからしたら余計だろう。

 いや、でも恋とは繋がらないだろ――。

「は?違ぇよ。優しい面になったんだよ」

「えっ」

「腑抜けただろ。テメェ」

「はっ、ちょっ」

「なぁ、愛した女でも出来ただろ」

「出来てねぇよ」

 思わず言い返した後、息を飲む。

 我ながら、言葉尻を奪った強い口調は常にないものだった。空間に反響する余韻が気まずくて口元を引き結ぶ。

 サーペントが見開いた切れ長の目を探る様に細めた。責められている感覚に僅かに身を揺する。これならとっとと殴り殺された方がずっとマシだ。

 ややあって嫌なものを見たように溜息を吐いたと思ったら無造作にくるりとハンマーを回した。

 そのまま雑な動きで振るわれたハンマーが鳩尾にめり込む。内臓に響く衝撃に前のめりに身体が傾いた。

 足下を汚した生暖かい胃液に赤い液体が混じる。伏せた視界の端で石突が地面を叩いた。威圧が足元から響いてくる。

「テメェに愛情なんてもんがあるとは思わなかったなぁ」

「ゲホッ、ェホッ」

「小さくて絞めやすそうな、かンわいい女の子じゃないか」

 喘ぐ呼吸が止まった。

 代わりに気管が収縮し、喉の奥が異音を鳴らす。

 ドッ、と血の気が引く。

 体中の、全ての痛みが意識外へと飛んでいく。

「なんで――いや、そうか……。そうだよな……」

 深く呼吸を吐き出しながら俯いた。俺の動揺1つ1つを見逃したくないのだろう。大蛇サーペントが舌舐めずりをしながら見下ろしてくる。

 貧乏揺すりのように等間隔で石突が床を叩く。時計の針といいメトロノームといい、淡々とした音というのは人を追い詰める。わかるぜ。俺もよく使う手だ。

 唇を舐める。胃液の苦味に顔を顰めた。

 俯かせていた顔を持ち上げ、下から大蛇サーペントを見上げる。

「あの狙撃、やっぱり人面鳥ハルピュイアだったか」

「なんだよつまんねぇなぁ。もっと焦るかと思ったのに」

 既に冷静になったように見えたのだろう。別にそんなことないのに。

 大蛇サーペントの詰る口調に「ハハッ」と口から乾いた笑い声が漏れた。その声で俺の焦燥に気が付いたのだろう。大蛇サーペントが目に見えて気分を良くした。内心舌打ちをしながら軽く見える様に、ひょいっ、と肩を竦め、舌を出す。

「うっかり混乱しちまったが、冷静に考えてみりゃあな。ハルピュイアにしては珍しく重火器使ってたから、別人かもと思ったんだが……。あの瘦身で扱えるミサイルなんてあったんだ。随分良い武器屋があるらしい。異在道具オーパーツか?流石この街だわ」

「ん。そうだなぁ」

「え。なんだよ……」

 伝わる含みに眉を寄せる。もしかして別の奴だったりするのだろうか。あの狙撃の癖はハルピュイアかと思ったが。

「つーか、あの時お前見てたんだな?」

「オウ。行方不明になったお前がなぁんか大事そーに抱えていたからなぁ。早々に何処のどいつに取り入ったのかと思ってさぁ。“閃鬼”っていう有名な情報屋に調べさせようとしてたんだ。その前にお前を捕まえられたんだから、たっけぇ依頼料を払う必要もなくなったってわけだ。いやぁラッキーだったなぁ」

「成程」

 なるほどぉ――……。

 閃架が一瞥しようとしていた依頼者ってのはこいつのことか……。頭痛くなってきたな……。

 ただの偶然やラッキーではない。閃架が大蛇サーペントを探しに行っている後ろをのこのこ尾いて行ったのだから、俺が見つかるのは当然だろう。人を尾けてる奴は自分が尾けられていることに気づかない、ってマジなんだな。そりゃとっ捕まるわ……。次があったら気を付け――、いや、もう次は無いのか。

 閃架が大蛇サーペントに逢う際俺を置いて行ったあたり、俺が”Fictional”だってことを把握されているのも確定だろうし……。

 どうにもここ3日間、空回りと墓穴を繰り返している。拘束がなかったら頭を抱えて、何なら叫び声を上げて転がり回っていたところだ。

「いつも通りスカしているテメェを嬲り殺すつもりだったんだがなぁ。まぁ恋に呆けたテメェを嗤いながら嬲り殺すってのも悪くねぇか」

 ふむ、と顎に指を当てて首を捻った大蛇サーペントが気を取り直して爛々と瞳を輝かせ出した。

 手慰みにか、持ち上げられたハンマーがくるくると回されている。ヘッドが風を切る重低音が中々エグい。

 不幸中の幸いというべきか、閃架の名前や正体はバレていない。大蛇サーペントの性格上、知っていれば、俺を追い詰める為に言及している。フード、眼帯、マフラーで顔の殆どを隠していたおかげかアバンギャルドなモノクロの髪もバレていないらしい。

 なら俺がこのまま黙って死ねば閃架に危害が及ぶことはない。

 氷柱を差し込まれたようだった胸を撫でおろす。

 よし、とっとと死のう。

「まだ惚れた腫れたの話してんの?あんた恋愛脳だったんだなぁ。知らなかったよ」

 手慰みに回されていたヘッドが慣性を利用しつつ俺の顎をカチ上げた。目の前に星が散る。

「助けを呼んだって無駄だぜ。この部屋の隔離に異在道具オーパーツを使っている。誰もここを見つけられない。愛するあの子にももう会えねぇよ」

 二股の舌がチロリと見え隠れする。

 ”人を愛する俺”とやらがよっぽど面白いらしく、瞳孔をカッ開き、口の端をヒクつかせている。架空の存在にマウントを取っている様は中々に滑稽ではあるが、良い感じにアガっている。

 後一押し。俺が背中を押してやろう。

 饐えた味の唾を大蛇サーペントの足下に吐き捨てた。

 ビクリ、と引き攣る様に半歩下がった足からゆっくりと大蛇サーペントの顔に視線を上げる。視線を合わせ、小さく上げた口角だけで煽った。

「――あ゛?」

 お、やった。

 コンロに掛けられていた鍋が、理性という名の蓋を吹き飛ばし、熱湯が噴き出した。

 趣味の拷問・尋問で問題にならなかったのって、毎度俺が相手とこいつの状態を見て適当なところで止めたり宥めたりしたからだ。

 普段の冷徹な様から俺にしかバレていないだろうが、サーペントは“趣味”の相手に嘲られることが我慢できない。普段のねちっこさはどこに行ったのか、瞬間湯沸かし沸騰器と化す。

 激昂し、聞き取れない声で喚くサーペントが高々とハンマーを振りかぶる。

 来る衝撃に息を止め、身を硬くする。それでも、口元が笑みの形に歪むのが押さえられない。

 ――仲間、ねぇ。居ねぇよ。こんな時に助けてくれる奴。知ってんだろ。

 誰のせいだと思ってんだとぼやき、直ぐにいや、と思い直す。大蛇サーペントに嵌められる前から仲間と呼べるような奴は居なかった。いやはや、人望ねぇなぁ俺!俺が作ってこなかったから、完全に自業自得なんだけれど!

 大蛇サーペントの両腕に付いたしなやかな筋肉が盛り上がる。

 思いの外、楽に死ねそうで良かった。しつこく拷問されるよりはさっさと死ねた方が良い。救いが来ないことがわかっているのなら、尚更に。

 勿体ない話しだ。折角今まで殺しちゃいけなかった憎らしい奴を嬲って殺せる最後の機会だってのに。短気は損気ってことだよなぁ。

 俺から出来る事ない今、即死は最っ高の嫌がらせだ。

 痺れるような激情家。毒に侵されるように。熱に浮かされるように。

 

 ハンマーが振り下ろされた。

 

 大蛇サーペントに何度も“軽薄だ”と責められた笑みを浮かべる。生命の危機にアドレナリンでも分泌されたのかやたら時間が間延びして感じる。

 走馬灯で見る物が無いのなんざ知っている。体感的にはゆっくりと、実際には雷のごとき速さで落ちてくるハンマーが待ち遠しい。

 ああ、でももしかしたら。路地裏で幻視したラピスラズリがもう一度見られるかも。

 瞼を閉じた。


 ――一昨日まで何も映ったことのない瞼の裏側。ちっこくって弱っちそうな、女の子がいた。透き通ったアウイナイトが愉快そうに此方を覗き込んでくる。


 ――ア、これはちょっとマズイな。

 慌てて目を開く。最近覚えた姿が掻き消え、ほっと胸を撫でおろした。

 勘弁してくれ……。走馬灯なんかに出てきちまったら閃架を大切だと認めなくちゃいけなくなる。俺はあいつとは仕事上の契約関係で済ませたいんだ。

 これ以上は閃架に対する我儘だ。ただでさえボディーガードである俺の過去が原因で彼女を危険に晒しているのに。


 期せずして見た姿ではあるがこれで見納め。冥土の土産に十分だろう。存外ちゃんと覚えているもんだった。

 待ち焦がれたハンマーが俺の顔面に減り込む寸前、一足早い紅と黒を轟音が掻き消した。

 ――ハ?

 驚愕に跳ねた体が椅子の拘束に引き戻される。突然の異常にハンマーヘッドがビタリと顔前で止まった。風圧が俺の短い前髪を吹き上げる。

 恐怖はなくとも目の前に存在する死の影にヒクリと口の端が引き攣った。あっぶねぇ。拘束されずに勢いのまま立ち上がったら俺の顔面が潰れていた。つか、あの速度から止められんだ。やっぱ力あんな。

 大蛇サーペントと無言のまま交わされたアイコンタクトで、双方さっきの稲光が予想外であると確認する。

 俺の目前からするりとどけられたハンマーが異変に向かって構えられた。今まで人が居ないせいで何も音がしなかっただけで、向こう側の音は聞こえる仕様らしい。戦闘音、というには一方的な蹂躙の音に耳を澄ます。

 機械の作動音に打撃音。生命音は2つ。片方はサイボーグか?そっちが恐らく純人間の方をボコって拘束している。

 おっ、なんだなんだ、トラブルか?恨み買い過ぎて全く関係ない、どっかの誰かに殴り込みでもされたかよ――。


「はい、ストーップ!!」


 サーペントのやらかしの気配に浮ついた心が凍り付く。聞き馴染んではないが、聞き慣れてきた声に弾かれた様に視線を向けた。重力に従い落ちてきた髪が鬱陶しくて眉間に皺が寄る。ギリ、と奥歯が軋む音がした。

 ――おいおい。ご自慢の異在道具オーパーツはどうしたんだよ。クソッタレ。

 何も無かった正面の壁が四角く開く。逆光に照らされたゴツい戦闘用サイボーグと、右腕を掴み上げられている華奢な人影。


「閃架……」


 今さっき、瞼の裏に映った女の子が武装だらけの腕に吊るされていた。

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