2023/04/09 イースター

 今日はイースター。

 日本語で復活祭。キリスト教において、イエス・キリストが十字架にかけられて三日後に蘇られたことを祝う日だ。

 イースターと言えば卵と兎のイメージがあるけれど、これはキリスト教国が文化侵略をした際に、春の到来を祝う日をイースターとし、豊穣の象徴である卵と兎のイメージだけが残ったもの、というような説を私は推している。


 というわけで、久しぶりに地元の教会に顔を出した。

 先日の日記でも少し触れたように、私はイエス・キリストを自らの主と信じる、プロテスタントのクリスチャン(キリスト教徒)だ。


 それも

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの(Ⅱテモテ3:16)」

「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3-4)」

「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている(へブル9:27)」

 といったことを信仰している保守的なクリスチャンである。


 故に毎週の礼拝をするべきものとして捉えているが、実のところ実際に教会に足を運ぶ機会はめっぽう減っている。近頃はYouTubeのオンライン礼拝をテレビかスマホで流して、礼拝の参加としている。

 昔は彼女と子供(キリスト教徒ではない)を教会に連れてきたこともあったけれど、教会に来ている私の母と折り合いが悪く、教会の礼拝堂で座り続けるだけの体力もないなどの理由で、家での礼拝を選んだ。

 このこと、母は気に入っていないが、この辺りの確執を話すと長くなる。


 しかし、やはり実際に教会という建物の下で、賛美を歌い、交わりの時を持つというのは、信仰を持つ者にとって大事なことであることを改めて体感した。

 信仰を持つ、というのはただ独りだけではどうしても独りよがりになる。他者との交わり、社会との繋がりの先に信仰があることを考えるのは、信仰者にとって必要なことと思う。それもまた、技術が進めばAR/VRで可能になるが。


 教会から帰ってきて、昼は鶏肉にタレを塗って焼き鳥にした。ちょうど昨日割った茶碗の代わりも届き、彼女は新しい茶碗でのご飯。

 それからおやつ時「川魚が食べたい」との突然の要求があったので、釣り堀に行ってニジマスを持って帰ってきた。余暇を楽しむのであれば、自分で釣って家で焼いたりもするが、今日はお店の人が焼いたものを買ってきただけ。


 おやつタイムが終わったら、内見する家が決まった勢いで、今後の引越しに先立ちクローゼットの片付けをしようということになった。正直ここまででまあまあ疲れていたので嫌々ながら片付けをして、捨てる洋服をゴミ袋に入れていったら十袋分以上になった。明日あたり、リサイクルショップに売りに行く。

 それで夜になって、そういや今日選挙だったじゃん、ということを思い出したた。忘れっぽい私だが、普段選挙は必ず投票しに行く。その為、投票に行かなかったのはかなり久しぶり。


 今回は地元ではあまり選択肢も多くなく、それで元々やる気がなかったというのはある。今日の場合は、これも一つの選択だな、と割り切って次は忘れないようにしよう。


 疲れた中、今度は焼きそばを食べたいという。それは俺も食べたいわ。というわけで焼きそばを焼く。

 今日も今日とて充実した一日であった。疲れた。

 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る